残氓

 午前五時、目を覚まして窓を開けると曇り空が芝生の緑を色濃く見せている。涼しい風が部屋の一晩の間に淀んだ空気を洗い流すようで快かった。エスプレッソマシンでミルクを温めて飲んだ。名前のわからない鳥が窓を横切った。良い朝だった。直也は死のうと思った。


 今まで抱えていた希死念慮が、大きなきっかけがあるわけでもなく、ただ何気なく一線を超えた瞬間、直也の頭の中では死ぬための準備や手順をどのように取るべきかということが泡のように浮かんでいた。死ぬことへの思いは潺湲せんかんとして淀みなく、ただ静かにこんこんと湧いている。貧困、容姿の不満、人に承認されない能力の低さ、年齢による衰え、寂しさ、感情の不在、起きている時間の苦痛、死ぬ理由を挙げれば幾つも言えるが、そのどれもが人にとっては些細なもので、どれも人生に於いて挽回ができる乃至は許容すべき程度のものであり、人に伝える謂としては理解を得ることは難しそうだが、そのどれもが直也にとっては正当な筋合いのものであった。そしてその幾つもの集合が、いずれもその輪郭が判然としないほど絡まり合いひとかたまりとなって、自分自身の存在の肯定を許容する重さを静かに超えてしまったという次第である。


 気が狂ってしまったわけでもなく、強い衝動があったわけでもないので、直也は不思議と落ち着いた気持ちでそう決めたことに我ながら驚いた。気分の良い朝があり、ミルクが体の芯を温め、薄く流した音楽が部屋を満たして、まるで生活をしみじみ味わっているような裡でこのような決意が固められていようとは彼の今の姿を覗き見る者があればつゆほども思うまい。直也もまたそうで、その意外に困惑しながらも心のうちでそれを丁寧に鞣すように受け入れていった。


 まずは遺書を書くことにしたが、伝えるべきことが思い浮かばない。昔あった誰それに対する恨み言も、いつの間にやら無形の黒いモヤのようになって掴み所がなく、言語化する以前に自分がどのように思って、どのように苦しんだのか、その苦しんだという曖昧な感覚の残滓だけがこびりついているようであった。趣向を変えて誰かに感謝を送るというふうにも考えたが、直也は感謝という気持ちを抱くことに鈍感な性質だったために、根本的に不可能なようであった。


 遺書を書かずに死ぬというのもなんだか跡を濁すようで本意無い感じがする、しかし自身の感情を表明することはできない、そうなれば書くことは実用的なものである。自身の死に関しては理由を明示せず、ただ死んだという結果だけを示し、残った人々にはそれで納得してもらい、遺書には死んだあとのことをどのように希望するかのみを記すのが良かろうと結論した。死後のこもごもを希望するからには自死する意思を示すことになり、事故か自殺かの謎を残すこともないはずなのである。


 しかし死後の希望というのもおかしなことである。死んだあとに自分のことを誰がどう言おうと、どう思おうと勝手にしてくれて構わない、自分がどのように葬られるかというのも直也は特に関心がなかった。ある友人は死んだときに海に流して欲しい、そして存在していたことすら忘れて欲しいと言って、旦那がそれを叶えた。火葬された骨を東京湾に撒いたのである。そういう葬儀プランを選んだわけでもなく、ただそれをふと思い出した旦那が墓を買うのも心許ない懐具合だったのもあって、勝手に散骨した次第である。ともかく直也は自分の遺骨がどのように扱われるか頓着しなかったので、それについて書くことはなさそうである。


 然るに直也は自身を構成する要素、ある種のアイデンティティとして自身の持ち物に多く投影する人間であったので、蔵書やレコードのコレクション、洋服などは遺品整理で捨てられないようにしたいという強い願いがあった。それらをぞんざいに扱われるのは、自分の亡骸をどうこうするよりも、自身の尊厳を、自身の存在を軽んじられるような気がしたのだ。いよいよ書くことが見えてきたようだ、死後自分の持ち物をどうして欲しいかを書いていこうと決めた。


 そういうわけで、この雑然とした部屋をきれいに掃除し、整頓しつつ、それぞれをどのように扱っていこうか思案することにした。直也は立ち上がり大きく伸びをすると、インスタントコーヒーを淹れて――彼の懐具合は既に寒く、エスプレッソ用の豆を買う金もなかったのだ――部屋の中を見回した。脱ぎ捨てられた服、机やベッドの周りに無造作に積まれている本、ダウンロードコードだけ入力して部屋の隅に置かれたレコード、暫く掃除機がかけられておらずホコリが薄く積もった床。彼はコーヒーを一口飲むとため息をついた。体の重さを感じるようにゆっくりとした動作で出しっぱなしで幾つも積んである書物を一抱え持ち上げて本棚の前に向かうと、トマス・ピンチョンの全小説集が話しかけてきた。


「おい、なんか遂に覚悟を決めたって顔してやがるな」

「わかるかい。もう死ぬことにしたんだ」

「すると俺らは処分されるのか」

「どうしようか考えようと思っているんだ。売ってお金にしてそれを葬儀に充ててもらうとか、必要としている人に譲ろうとか」

「俺みたいな本は、結局読む者を選ぶし、持ち主によってはそれを並べるだけで満足して、ページを紐解くこともされないだろう。だったら同じ運命を辿るなら売ってもらってあんたの死後の足しにするのがいいんじゃねえかな」


 そう言われるとそうなのだが、彼らを死後の世界に持っていけないことを思って急に悲しくなった。今の彼の思想や審美眼を育ててくれた書物や音楽と別れなくてはならないなんて、自分の一部を置いていくような感覚だった。思想は彼の生活に――それがひどく偏ったものであっても――何かを味わい考える方法を教え、審美眼は彼の苦しい生に楽しみを味わう基礎を与えた。彼にとって所有物との別れは、自分の肉体を削いでいくようなものであった。所有物の行き先を考えるたびに心の中で血が吹き出るようだった。


 そう言えば知り合いに金を借りていたのだけれど、失業したことによって返済の目処が立たなくなり、死んだら生命保険から返すように遺書に書くとヤケになって言ったことがあるが、その際彼女は「念書を取らせて」と言って直也の気持ちをぐちゃぐちゃにかき回したのだった。ところが失業後一年くらい経った頃、貯金も尽き、失業保険も貰えなくなって、赤貧洗うが如し、不如意な生活を送って困窮していたため、当の生命保険は解約し生活費に充てたので、今はもう残っていなかった。もしこの約束を果たす必要があるならば、ここにある本を売って返済するというのも良いことかも知れないと思った。


 しかし、トマス・ピンチョン全小説集以外の意見は違った。


「私たちは中古で売られるのはなんだか嫌です。知らない人の手に渡るよりは、直也の知り合いの、特にこの家に来たことがあって、私たちに興味を示したことのある人の家に厄介になりたい」ネルヴァル全集が言った。

それを受けて「どっちだって同じことじゃあねえか」とピンチョン全小説集が言うが、澁澤龍彦全集は「私は若い人の楽しみ、性癖と言っても良い、そういうものを広げたい。できる限り若い人の手に渡りたい」と言った。


 ワイワイガヤガヤと本同士でああでもないこうでもないと言い始めて、各々の希望を戦わせていた。直也は困惑したが、しかし最後のひと仕事なのだから十把一絡げにしてそれぞれの処遇を決めるのはなんだか情がない気がした。なのでそれぞれの書物のそれぞれの希望を聞いて、自分でできる限りの処分先を遺書に記すことにした。先ずはそれなりに分量のある自分の蔵書の目録をEXCELで作成し、一つ一つ書物の希望を記録することから始める。


 レコードや衣服、家具や雑貨に於いても同じような議論が起こった。やはりこれらも目録を作り、それぞれの希望に対応した処置を取ることに決めた。しかし、一時いちどきに彼らの希望を聞いてそれぞれの行き先を決めるのは不可能であったので、直也はそれは後回しにして、部屋の掃除や洗濯、クリーニングに出すなどを先にすることにする。家に関しては借家なので、電気や水道などと一緒に死ぬ直前に解約手続きをすれば良いと結論した。


 失業してからというものの、あらゆる気力が失われてしまい、年末の大掃除もろくにやらなくなっていた直也であったから、ホコリは床で固まって掃除機では吸えず、コンロまわりの脂はこびりついて上手く落とせない、風呂場の壁は根の深いカビが生えて洗剤で擦っただけでは取れそうにない。当時はきれいだったこの家が、自分が無気力のままに過ぎ去った期間にこうも薄汚れてしまったのかと蕭索しょうさくたるを眺めた。これらの汚れはいくら擦っても取れることはなくて、まるで自分の心の蟠りが部屋の中に表象したように思った。


 死ぬことを決めてこうして準備をしている間、昔の良かった思い出に浸って、痛みと郷愁を味わおうと思っていたのだが、そのどれもが何の感慨もなく思い起こされていたのが不思議だった。ものを叩いても響かない無音室のような、見回しても渺茫びょうぼうとした伽藍堂のような心の凪を見て、寂しさの不在という寂しさだけを感じている。


 掃除にはたっぷり三日間ほどかかった。必要な清掃道具や洗剤や漂白剤などを買ったりする工程もあり、時間がかかったのだ。床には余計なものが置かれておらず、テーブルもルームフレグランスと観葉植物が幾つか並ぶだけで、細々したものが片付けられた。レコードや本は収まるべきところに収まり整頓されている。直也は心が晴れやかになったように感じた。


 ふと掃除方法を写したPCがこちらを見ているのに気がついた。直也と目が合うと、彼は不安そうな表情で「僕はどうなるの」と言う。確かにPCに関しての処置は解体されて売られるか、単純に処分されるかの洗濯になりそうだった。彼の中には歴代のPCの記憶が継承されており、初恋の人の写真や様々なテキスト、作りかけの音楽が眠っていた。それは直也の人生の記録と言っても差し支えないものであったが、彼は誰かにそれが掘り返されるのは嫌な気がした。


「全部消して、処分しようと思う」そう直也が言うとPCは泣きそうになった。

「僕、忘れたくないよ」

「どうして」

「僕はキミのことが好きなんだ。どうやって苦しんだり、どうやって喜んだりしていたかを見てきたんだ。それは僕のかけがえのない思い出と結びついている。人は人の思い出の中でその人生が肯定されることもある。僕は人間ではないけれど、僕はキミの存在を肯定したいんだ」

「唯一そう思ってくれるものがPCだなんてなんて寂しい人間なんだろうな」

「そんなことはない、キミがそれを認めないだけで、キミを肯定する人は他にもきっといる」

「いない。わかっている。ありがとう、優しいね」

「そうじゃないよ」

「わかった、死ぬ前におまえには自分でも思い出せないような複雑で長いパスワードを設定して封印することにする。そしていずれ処分される日まで思い出を守っていてくれ」

「うん、それで良いよ。僕も死ぬことは怖くない。ただ忘れることだけが怖いんだ」


 忘れることだけが怖い。と言われて直也は自分の記憶に想いを馳せた。自分の知識欲は自分が物を集めて並べて自己投影することとほぼ同一の欲求から来ていた。みみっちい所有欲。それが彼を形作るものの根本であった。死ぬことを決めて、それをまざまざと自覚し直也は苦笑した。同時に彼は自分の自己がそこにあることを認め、自分の存在が死後も残りうることを思ったのである。その知識、そして所有物を然るべく残すことこそが自己の保存であることを知った。彼の感情は凪いでしまい、思い出は何も彼を動かさなくなっていたので、彼の存在というものはもはや所有物のリストという同一性に依拠するものとしてあった。それは死というものを介しても自己は変わることがなく、彼はその一覧として存続することになるのである。


 そう結論した直也は、早速あらゆる目録を作り始めた。そして自分の知識の断片をPC内のメモ帳に箇条書きにしていく作業に没頭した。生きることは畢竟苦しむことでしかなかった。人々との関わりであったのは無理解と諦めだけであった。直也は心穏やかだった。目録と所有物のそれぞれの処遇、自分の知の断片を纏めるのに毎日寝不足の日々を送り、遂に一年が経った。


 きれいに掃除された部屋の中、総ページ五〇ページ以上にも及ぶ遺書をプリントアウトし、デスクの上に置く。PCは長大で複雑なパスワードを設定されてシャットダウンした。事前にあらゆるライフラインやサービス解約の連絡は済ませていた。最後に直也は両親に「死んだので時間のあるときに確認しに来られたし」とメッセージを送って首を吊った。本やレコードが追悼の言葉を言った。自分たちが彼の思い出のどういう場面に居たのかを口々に語る。暗い部屋の中で冷房が静かに働いていた。PCは眠っていて多分これからも起きることはなかった。彼の所有物の言葉が部屋に満たされていた。


 直也のことを誰が悼むだろうか。彼の死は彼にとっては理路整然としているように見えた。しかし、本人も多くの人から理解を得られないであろうことはわかっていたはずだ。だから彼は自死の理由を説明しなかったのだし、その苦しみをわかってもらうことを諦めていた。それでも自己同一性を維持したまま自分が死ぬという選択をしたのは、ある種の自己愛の一形態であったろう。同胞たちのお喋りをよそにデリーロの本は揺れる直也のシルエットを見てため息をついて言った「見えない存在であろうとすることはただの好奇心、つまり自意識の張り詰めた形に他ならないのだから」。


 朝日が登ろうとしていた。名前のわからない鳥が窓を横切った。


【完】

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お題:大掃除

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