バルーンズ

 朝、出勤の折に鳥が飛んでフンをしたとして、その下を歩いてその糞を肩に浴びるとなると、その運の悪さにがっくりしてその後一日が台無しになるようで不安になるものだが、では謎の球体が空より飛来して、自分の右の肩、耳からきっかり五センチメートル程度の間隔を空けてピッタリと追跡するように浮遊していたらどうだろうか。恐怖を抱くだろうか、愛着が湧くだろうか、それともやはりがっくりして一日が台無しになるような予感に囚われるだろうか。私の場合はそのどれでもなく、妙に嬉しかったのだ。それというのも球体と言うものは真理を探求するのに必要なある種の絶対的な説得力というものを備えているからで、それがそばにいるのは、何か自分の存在価値を叡智に肯定されているというような感覚を生んで、心地が良かった。


 球体は白く、少しザラザラしているようで、それでいて全体はなめらかで、どうも間然するところのない球に見える。それはプラスチックのようでも、ゴムのようでもあり、熱伝導を余り感じさせない雰囲気がある。何故曖昧な言い方をして実際の手触りに言及しないかというと、まるで私との相対位置が絶対的に定められているかのように、体の一部を近づけると、それに対して正確に五センチメートル程度の間隔を保って移動するからで、ちょうど水に浮かぶ軽い物質を掴もうとして逃げるような具合で触れることができないからである。手に掴んで眺めようと暫くそうやって奮闘していたが、やがてその正確無比な動きを延々と見せつけられ無駄だと悟り、諦めることにした。


 会社への道すがら、歩道橋の上から街を眺めると、都心の朝出勤時間の人の流れの速さが目に映る。そこには自動化された運動だけが見られ、知性というものが確認できない気がした。この考えに私はハッとした。そして、この感性はきっと自分が叡智を味方につけたことで惹起された私の傲慢な一面であり、私の感性の根本の性質ではないことを祈った。それというのも私は常々フラットでいたいと考えているような人間で、誰にも与せず、同時にどんなものでも一面では理があり、全面的に否定することはできない、というような態度を心がけていた。だから先程のように誰かを賎げに見るような反応は自分でもギョッとするような気がしたのだ。


 それだけではなかった、billsの前を通ると普段はそんなことは絶対ないのに、急にパンケーキが食べたくなってきた。しかも、これから出勤時間までいくらも時間の余裕はないというのに自然と足が店の方に引っ張られてゆくのだ。真面目が取り柄の私であるから、こんな不真面目な理由で会社への遅刻を容認するようなことは通常ではありえない。自分の中でどうにも今までの自分とは違う異変が起こっているようだ。抑えがたい欲求に懸命に抗って、体を剥がすように向きを変えると、できる限り毅然として会社に向かった。


 会社ではいつも以上に仕事がつまらないというふうに感じる以外は普段どおりなようで安心していた。先程までの自分の思考とは別に起こる欲求や感情のことを不思議に思っていると、ふと頭の横に飛んでいる球体のことを思い出した。そうだ、これらの私の内的活動の変化は、この物質が取り憑いてから起こっているような気がする。私はEXCELで各部署の備品の要求データを確認しながら、発注対応をしていると、ふと誰かが肩を叩くようで振り返る、なにか口をぱくぱくとさせた同僚が私のデスクを指差している、私が首を傾げている様子を見て今度は指で耳を差した、ハッとして手を耳に当てると、いつの間にか私はイヤホンをして音楽を聴いていたのだ。


「電話、待たせてるから出て。どうしたの仕事中にイヤホンなんて、珍しい」

「いや、その何でもないの、無意識に着けちゃってたみたい。ごめん、ありがとう」


 私は急いで電話に出て、待たせたことを謝りながら頭では別のことを考えていた。いよいよ私の行動は本来の私という性質の整合性を取っていないように思えてきた。最初は叡智に認められたようで嬉しい気持ちになっていたが、次第に球体に意思を奪われてしまうような不安に囚われ始めた。しかもその行動も、パンケーキを食べたいだとか、仕事中に音楽を聴きたいなど、酷く幼稚で、叡智というよりは、子供の気まぐれのような性向を持っているように思われる。


 他にも不思議なことがある、この球体、どうやら他の人に認識されていないきらいがある。今日一日職場で過ごして、誰一人としてそれについて質問や疑問を差し挟む者はいなかった。いよいよ以って奇っ怪である。帰りに叙々苑に寄って焼き肉が食べたいと思う。いや、今何を考えたのだ、私は友人との飲み会や特別なことがない限りあまり外食をせず、食費を節約したいと考えている人間だ。なんてケチくさいやつなのだろうか。いやいや、私は自分の方針に不満はないし、むしろそれを実行し続けていることに仄かな誇りすら覚えているというのに。


 どうにも思考が混線しているように思える、私の思考と恐らく球体と思われるものの思考、これが綯い交ぜになって吹き出していると言ったところだろうか、私の考えに、私ではない考えが、まるで私が考えているように考えられるようで、何やら混乱する。叙々苑に行こう。いや、行かない。だが、今焼き肉を食べると確かに思考が鋭くなって、現状を把握するのに役立つかもしれない。そんなわけはない、お前は一体何者か。私は私。いや、嘘だ、私は二重人格になるような強いストレスも感じていないし、また日々の生活で心的な外傷を負うような繊細な心も持ち合わせていない、やはりどうにも球体が怪しい。球体、私のことか、私は球体なのか。私は球体ではない、おまえが球体なのだ。おまえとは誰か、私か。私ではない、いやそうだおまえだ。


 私は自分の思考の中で自分の思考を介して思考するややこしい何者かと対話を始めた。最初は私という言葉に私自身を重ねて混乱をしたが、次第にこの湧き出る私というものは私自身を指すものと、私を介して思考する者の私が混在していることを諒解した。球体はしらばっくれるのをやめて、自分が私の肉体に取り付いている何かであることを認めた。私は球体じゃない、啓子けいこという普通の女子高生で、クラスの中でも三番目くらいにはかわいいって言われているわ。けれど、もう毎日勉強や冗語鴃舌という感じの意味のない会話と、同調圧力にまみれた学校生活で疲れ切ってしまって、大空に旅立ったってわけ。そしたら私の肉体は、空気の摩擦で溶けて剥がれて内面と外面がごっちゃになり、私の属する社会の様々な圧力が四方から襲いかかってきて、くるくるに丸め込まれてしまった。それから。それからは、わからない、漂って、上下左右もわからなくなり落ちていって。それで私の近くに風に乗って飛んできた。そう。そうなのね。そう。


 啓子は私にとりついているのだろうか。幽霊のような存在なのだろうか。しかし、肉体と精神がないまぜになったと言っていた、だとするとこれは彼女の肉体でもあるのだろうか。この決して触れることのない球体は、物質としての存在も認められるようである。こんなことになるなら私はもとに戻りたい。私も是非とも元通りになりたいところである。だけれど、今日はもう疲れた。この疲れは私のものなのか、それとも啓子のものなのか、私には判然としなかった。彼女と私の精神はすでに深いレベルで同期しており(同化とは言わない、恐ろしいから)、お互いに自分の感情や欲求がどちらのものであるのかは、自分の普段の振る舞いを省察する以外には判断することができないようだった。


 私はそれでも少し啓子のことを可哀想だと思ったのだと思う、少なくとも、彼女は自分のことを可哀想だとは思っていないようだし、私がそう考えたと考えるのが自然なことと思える。家に着くと、私はお酒が飲んでみたかったから、お酒を飲んだ。私の体は大してお酒に強くないので、程なくして一杯機嫌で音楽で体を揺らしていた。私の知らない音楽、大人の人が聴くような音楽。私の好きな音楽、だから自然と体が動くし、こんなときでも人生が少し、小説か映画のいち場面のように感じられたかもしれない。明日は仕事を休むことにしよう。いいね、そうだ、休むことにしよう。楽しいことをいっぱいしよう。思考の混線は何かと不便ではあるけれど、何かを好きであるという感情を分け合えるのは素敵なことだと思う。私は眠い。眠いね。そうだ。眠ろう。私にはふかふかのベッドがある。


 翌朝、球体はどこにもなかった。私は会社に出社した。社食階の空の青がよく見える喫煙所でぼうと建物のまばらな背丈を見比べていた。するとふと、様々な色の大小の球体が地上からふわふわと中空へと漂っている。渋谷と原宿のはざまの若い肉体が、次々に丸まっていって、大空へと旅立っていく。ストレス、絶望、虚無、或いは寂寞、それらは誰の心にもわだかまっていて、体内でパンパンに膨らんでいた。そして若い薄い肌は、すれ違う人の衣擦れに、一瞥に、または宙に浮く言葉に率然と破けて、啓子のように四方から圧力を受けて丸く、曖昧な姿へと変わっていった。


 私は啓子のことを思い浮かべた。彼女はもう私の中にはいないように思う。私は私で、彼女のような幼く柔らかい心は持ち合わせていない。昨日までの傷つきやすく、飽きっぽい私はもういないのだ。いちどき交わった心が、誰かの座ったあとのソファのへこみのように、私の中に残った。


「あなたたちも面白い人に会えるといいね。私みたいなのじゃあなくてさ」


 色とりどりの球体は街の空を漂って、こんなときでも地面を歩いて行ける鈍感な人々の上にゆっくりと降りていく。私はタバコを消して、エナジードリンクを買うと職場へと戻っていった。デスクで忙しく働いている同僚たちの肩のおよそ後センチメートル程度の位置に球体が浮いている。或いはこれもひとつの優生思想の現れのようだと思った、そう想像すると可笑しくなった。どっちが優れているんだっていうのだろう。傷つけておくれ、深く。思い出させておくれ、子供のような心を。私をもっと弱くして欲しかった。悪いことをもっと教えてあげたかった。


 消える少年少女は社会現象のようになった。球体に関して言えば、見える人と見えない人がいるようだった。どちらにせよ、あれから私には球体は降りてこなかった。私は社会的に正しい生活を送っている。何も不満はない、不満の不在以外は。確かに球体は叡智だと私は笑った。


【完】

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お題:球体

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