空間を繋ぐラティス

「ナンシーはさぁ、彼に南京錠を付けて、その鍵を渡さなかったわけ。一生私のモンよって。素敵なエピソードよね」


 千草はそ言うとクッションを私の顔に投げつけてきた。クッションを顔面から剥がして投げ返そうとすると彼女は既にタバコに火を付けていたので、手に持つ枕は行く場をなくしてそっと床に置かれてしまった。広くもなくされとてそれほど狭くもない自宅、2LDKのマンションのリビングで、二人の会話は殆どの場合、千草の一方通行だ。それは私が返事をしないからという意味ではなく、千草自身が返事を求めず、私が返事をする頃には決まって既に自分の世界に入り込んでいるからだ。


 気兼ねのない関係、と言えば聞こえが良いが、決してそう言うわけでもない。現代の男女というものは自由恋愛故の様々な矛盾を抱えていて、それが未消化のまま関係が続くという状態はよくあることである。それは小さなすれ違いから始まり、その微小な差異が歯車の回転を不規則にし、ある時点で機能しなくなるのに似ている。私と千草の関係は停滞した歯車に違いない。千草は私の意見を必要としない、それが最初のしこりとなって、少しずつズレてゆき、今では私はコミュニケーションを諦めてしまっている。彼女と恋人同士になってから二年、これが気兼ねのない関係の正体である。それは千草の満足と私のあ諦めから成っている。


 会社の帰り道、私は家に戻ればまた千草が来るのがわかっていたので、どうにも帰りたくないという気持ちが勝った。足の向きは駅には向かず、私はゴールデン街に寄り、知り合いの経営する店に足を運ぶ。酒を入れた魯鈍な頭なら千草とのコミュニケーションも気にならない。私はそいう懶惰な気持ちで酒を飲みたくて仕方がなかった。


 店に入るといつもどおり声の通りにくい大きな音で音楽が鳴っており、モニタには名も知らないB級映画が垂れ流しに成っている。私はロンリコ151を一杯煽ってから、フレッシュなミントをふんだんに使ったモヒートをちびちびと飲んでいた。


「ちょっとお兄さん、隣良いですかね」


 そう声をかけてきたのは、草臥れた中折れ帽に無精ひげ、油染みのついたシャツによれたベストを着た男だった。こういう飲み屋というものは不意の出会いの場でもあり、私はこういった一期一会を楽しむのも兼ねて酒を飲んでいるので「もちろん」と答えた。男はアクアヴィットを注文してチェイサーに生ビールを頼むと、私の方にグラスを傾けたので、それに応えて乾杯をした。


「はぁ~、落ち着いた。いや、今日は歩きっぱなしで疲れちまいましたよ。お兄さんも見たところお仕事帰りってとこですね。やっぱり仕事あがりはこういうところで嫌な疲れを楽しい疲れで上書きするように酔っ払うのが一番ですよ」

「全く同感です。都会の楽しみと言うのは常に疲れが伴うものですが、疲れてこその遊び、その疲労感こそが夜の眠りに必要な一つの調味料となると僕も思います」

「おや、話せる人ですね、ハッハッハッ。疲労感こそが人生を豊かにする。クラブなんかでは今ではフロアよりもチルアウトスペースでだべっていることの方が多いなんて若者も沢山いますが、私に言わせればやはり疲労という一種の麻薬的状態こそが街での遊びの真骨頂、そしてその遊びというものには常にコミュニケーションが潜んでおり、そこから自分の人生が枝分かれしていると言っても過言ではありませんよ。すまし顔でチルすることも格好はつくかも知れませんが私にはナンセンスとしか言いようがありません」


 男はオーバーリアクション気味に首を横に振るとアクアヴィットをグイッと一息に飲み干して、うまそうに目を閉じてアルコールが口の中で焼けるのを楽しんでいるようだった。私と言えばこの不思議な男との会話のやり取りに満足していた。人は話をするときは相手の言葉に反応してレスポンスするものなのだ、私の普段の生活で失われていたコミュニケーションがここにはあった。


「ところでところでお兄さん、せっかく会ったのも何かの縁ですし、何か一つプレゼントをしたいと思うのですが、どんなのがいいですか。例えばそうですね、水を酒に変える水筒とか、仰ぐと三十分くらい空中に浮いていられる扇子だとか。あとは、花束が出てくる帽子……は今被ってるやつですね、これは私のお気に入りだからダメですが、空間と空間を繋げて移動う出来る便利なダイヤルとか、体の脂肪を取ってくれるコンパクト体重計なんてのもありますよ」

「あはは、面白いですね。そうだなぁ、もし欲しいとしたら、空間を繋げるダイヤルですかね。移動が便利になるだけでも大したものですし、ドラえもんのどこでもドアみたいでロマンチックですね」


 すると男はパチンと指を鳴らして「お目が高い!」と嬉しそうに笑った。そして大きながま口のショルダーバッグを開けるとガサゴソと漁って、「何処だったかな~」などと言っている。その様子が道化師のようにコミカルで私も思わず笑みをこぼした。クスクスと笑いながら私がもう大丈夫と手振りで示すと、男ははたと動きを止めて、待ち給えと言うかのようにこちらに人差し指を立てて見せた。そして鞄の中からディスプレイに複数のダイヤルやスイッチの付いたA4サイズ程度の大きめなタブレットのようなものを出した。凝った小道具だなと思っていると、男はそれを私によこしてきた。


「どうぞ、これがそうです。ああっと、ちょっと汚れてますがちゃんと使えますよ。古いものですから見た目は今っぽくないですが機能はバッチリ、大丈夫です」


 私はどうリアクションして良いのか困っていると、男はああ、そうか、とわかったような顔になってスイッチを押してダイヤルをいじり始めた。するとディスプレイが起動して様々な地理的情報が画面に映し出される。


「そうですね、使い方を教えないとわからないですよね。まずこれが起動ボタン、こちらの大きなダイヤルで大まかな位置を設定して、こちらの小さな三つのダイヤルで細かい座標を選びます、するとこのようにディスプレイに繋がる先の情報が表示されます。で、これですね、こちらの方のスイッチを押すと繋がる側、つまり自分側の細かい座標設定ができます。大まかな座標は自分の位置から割り出されるので設定は出来ません。そうですね、繋がる場所は駅前なんてどうでしょう、ちょっと雨も降り始めるようですし、駅まで歩くのは億劫でしょう。よしよし。これでラン。っと」


 すると私の座席の後ろにラティス状の長方形の光が差して、それが背景と溶け合ってモアレのようなものを引き起こしたかと思うと、パッと風景が変わって、東口のライオンの像の前を映し出している。


 男は「どうぞ」と言って、タブレットのようなものを渡してきた。私は驚きの余りそれを自然と受け取って立ち上がりその風景を覗き込んでいた。それはディスプレイに映っている風景と一致している。


「お帰りはこちらから」


 そう言うと彼は私の背中を押してその長方形の切り抜きのような空間に押し込んだ。そこは確かに駅前の広場で、私は少しずつ降り出していた雨を肌で感じている。振り返ると空間が長方形に切り取られていて、その先にはバーの様子が見えた。男は帽子を取って丁寧にお辞儀をすると、帽子から花束を出して見せた。


「お酒のお代は私が持ちますよ。楽しい時間をありがとございました」


 そう言うと、空間はスッと消えて、何の変哲もない新宿東口の風景に戻った。私はあんぐりと口を空けて、ぼうっと突っ立っていた。空間を繋ぐ機械。信じられないが手品にしては凝りすぎているし、私は実際に今の今まであのバーにいたはずなのに何百メートルも先の駅前で今はこうして立っているのだ、バーの座席からたったの一歩進んだだけで。酒の入っている頭ではこれを現実として受け入れようとしているが、まだ仄かに起きている理性がそれを理解できずにいる。私がダイヤルをいじるとディスプレイに映る空間が移動する。私は試しに自分の家位置を設定して、実行ボタンを押してみた。すると目の前に先程見た格子状の光が現れて、空間が切り取られ、自宅マンションの前の風景が現れた。私は唾を飲み込んで、恐る恐るそこに入って行くとやはりそこは自宅の前の歩道だった。


 もはや信じる他ない。この機械は場所と場所を繋ぐ不思議な機械で、それをあのバーの男から譲り受けたのだ。私は自分が超然とした機能を持つ機械を持ったことを少しずつ理解し始めて、恐怖を感じると同時にその可能性に体を震わせた。これは便利な道具の域を出ている。


 自宅に帰ると千草からメッセージが届いているのに気がついた。早く帰ってこいとかそんな内容のものだ。この際だからこの機械を使って迎えに行くことにする。「家で準備して待ってろ、迎えに行く」とメッセージを送る。千草がどんな顔をするのか楽しみだ。


 ディスプレを起動し、ダイヤルを操作する。ポータルの入り口は自分の目の前に設定し、ポータルの出口を千草の家の玄関の内側に設定する。ラティス、モアレ、そして空間が切り取られる。ポータルの先は千草の家だ。間違いない、この機械は本物だ。


「お~い千草」

「え?」


 メッセージを送ってたったの二分足らず、私の家から千草の家までは徒歩で三十分はかかる、それをこの短時間で私が現れたことに千草は心底驚いた表情で迎えた。しかも開けていない玄関の前には切り取られた空間とその先に私の部屋が見える。


「なにそれ、マジで、え、何? いつの間に来たの?」

「すごくないこれ、どこでもドアみたいなの貰った」

「え、マジ? これ、本当にあんたの部屋じゃん、どういうこと?」

「荷物持った? じゃあ行くよ」


 困惑する千草の手を取って空間を通り抜ける。すると千草の家から私の部屋に瞬時に移動が完了した。千草はボーゼンとした顔をして私の部屋をまるで初めて来た場所のようにくるりと見回す。機械のスイッチを切ったから空間のつなぎ目は消えて千草の家の中はもう見えない。私達はお互いの目を見合わせる。超現実的な現象を前に言葉を失ってしまったように、ただ沈黙だけが流れる。


「ロンドン行こう、ロンドン!」


 急に千草が口を開く。順応が早い。何かを疑問に思うよりも先に欲望が走るのが彼女らしい。私はハァ、とため息を漏らし、それでいて何か緊張が解けたような気持ちになった。こういうとき、彼女は頼りになる。ダイヤルをロンドンのソーホーの通りに合わせて調整する。今向こうは昼下がり、良い時間帯だ。ラティスが出現して、モアレになり、ポータル化。


「行ってみるか、ロンドン」

「うん! レコードいっぱい買おう!」


 こうして私達はロンドンでレコードや服を買ったり、喫茶店で紅茶を飲んだりして楽しんだ。この道具は私達の関係を再び回し始めることの出来る潤滑剤のように

感じた。私達は互いに笑い、好きな音楽の綺麗な盤のレコードや、古い貴重なレコードを前に色々感じていた。私もクリストファー・ケインのカットソーが買えてとても満足している。世界も人も近くなった。それだけでこんなにも変化を感じるものなのか。


 家に戻った頃には既に日付が変わって深夜となっていた。明日も仕事がある私達二人は抱き合って眠った。しかしこの道具は無闇矢鱈に使うのはよそう。私が知らないだけで何処かで実用されているのかも知れないが、少なくとも一般的にこの技術

は未だオーバーテクノロジー域にあるはずだ。これが人の悪意や好奇の目を惹かないとは限らない。これは私と、私に親しい人間にだけに使うべきものだ。そう思いながら眠りについた。


***


 職場に新人が入った、丁度私の部下に当たるポジションで、非正規雇用だがいずれ正規を希望しているとのことだった。挨拶をすると、まるで小動物のような警戒心と人懐っこさを綯い交ぜにした、距離感を取るのが苦手そうな女性だった。歳はまだ二十二歳で今年大学を卒業したばかり、暫く就職活動をしていたが上手くいかず、とりあえずは非正規雇用での応募をしたようだ。


「ひとまず今日はこのあたりのマニュアルを読みながらやってみて。基本的には誤字やモアレのチェック、トーン剥がれとかを見ていって貰えればいいから」

「は、はい! がんばります!」


 うちの部署はそう頑張るような大層な仕事をしていない、ほぼ編集のサポートのような作業を受け持つ端っこの部署だ。彼女がこんな場所で正規になるのを望んでいるのかどうかはわからないが、少なくとも私はここを糧に他部署で活躍できるよになって欲しいと思う。


「休憩にしようか、ウチの社食はちょっと高いから俺は外で食べることが多いんだけど一緒にどうだい」

「あ、はい、行きます! お願いします!」


 私はいつもの行きつけのつけ麺屋に行く、ここはテーブル席が落ち着きやすく、休憩時間を過ごすには悪くないのだ。音楽はいつもどおり九十年代の邦楽洋楽問わないインディーロックのミックス。店主の年齢を見ればわかる、彼はその時間に青春を生きて来たのだ。


「“人はみな生まれた時代に大いなるホームシックを患っている”、か」

「あ、ピンチョンですね!」

「え、良くわかったね! あんな長大で入り組んだ作品郡の中からテキストを記憶してるなんて」

「私もあの文章が好きで罫線を引いたんです。 ピンチョンは猥雑で入れ子構造が難解だけど、カートゥーンみたいなロマンチックな場面が散りばめられていて好きなんです」

「俺もそう、美しい場面が沢山あるんだよね」


 店内にはThe Apples In Stereoが流れていて懐かしい気分になったからか、彼女との共通の話題に何か深い親近感のようなものを感じる。会話が成立する楽しさ。自分の恋人とは分かち合えないもの。そういうものを他の誰かに求めてしまうのは

駄目なことなのだろうか。


 彼女は飲み込みも早くよく働いた。彼女が可能な限りではあるが、振れる仕事はどんどん振っても難なくこなしてみせた。二ヶ月もする頃には彼女はうちの部署

ではなくてはならない大事な屋台骨となっていった。秋も深まり、木々が葉を散らし、道路を彩る時分、私が部決会議から帰ってくると彼女は何か青い顔をして仕事も手についていない様子だった。何かミスをして焦っているのかも知れないと思い、声をかけてみると、「おばあちゃんが」と言う。


「危篤みたいで、私おばあちゃん子だったから、今すぐ駆けつけたいけれど、仕事だし」

「そうだったのか、何だったら早退してくれても構わないよ、今急ぎの案件はないだろうし」

「実家は熊本で、今からだと間に合わないと思うんです……」


 今にも泣き出してしまいそうな表情に正直に言えば私は胸を射抜かれた。純真でがんばり屋、感性も高く、様々なものに心を動かされる教養もある。彼女に心惹かれている自分を感じる。私は意を決して、彼女の手を取り外へと連れ出した。彼女は困惑している様子だったが、なされるがままに私に引っ張られて歩く。人通りのない裏路地に連れていくと、私は彼女に言った。


「誰にも言いわないと約束してくれ」

「え、は、はい」

「よし、キミのおばあちゃんのいる病院の場所を教えてくれないか」


 私は彼女に言われた通りの場所を例の機械で入力し起動した。ラティス、モアレ、ポータル化。眼前には病院の入口、私は彼女の手を再び取り、そのポータルを潜る、冷たい手だ。


「あ、あの、こ、これは?」

「いいから、行ってきて、俺はここで待ってるから」

「あ、はい、ありがとございます!」


 私は自動販売機で缶コーヒーを買って一口すする。苦くて甘い。忘れていたような気がする恋とはこういう味なのだ。


 二、三時間ほど経った頃だろうか、彼女が走って戻ってきて私に深々とお辞儀をした。


「大往生でした。家族皆に囲まれて、嬉しそうにして、思い出話をまるで夢を見ている人のように囁いて、静かに眠るように、な、な、亡くなりました、ウウッ」


 ずっと我慢していたのだろう、彼女の感情の箍が外れ、溢れ出た想いは涙となって滂沱たるを禁じず、ただただ潺湲と流れるにまかせた。そして私の腕を強く握って、その表情を見せまいと私の胸に顔を埋めるのだった。私は彼女を抱きしめようかと思案した。こんなタイミングで下心を出すことに何か恥じ入るような気持ちが私にはあった。私はただ慰めるように相手の頭を撫でるだけにした。それにしても今の御時世、ただ頭を撫でるなどというものは存在しない、理由があるから、下心があるから撫でるのであって、それは撫でられ続ける側も恐らく意識するであろう。この不透明な共犯関係に私は興奮したのだった。


 翌日、彼女は気丈に振る舞っていたが、気分が沈んでいるのはその所作の小さなほころびから読み取れるようだった。私は仕事終わりを見計らって声をかけた。


「砂漠に行かないか」

「え、砂漠、あ、もしかして」

「そうこの前の機械で」

「……行ってみたいです」

「よし行こう、そうだなアラビアにしよう」


 私は彼女を連れてまた会社の近くの路地裏に行くと、件の機械を取り出してダイヤルを調整した。すると空間にラティス状の切れ込みが走り、背景と混ざりモアレを起こし、最終的にポータルを切り開く。私は自然と彼女の手を握ってその中へといざなう。すると眼前に広がるのは広大な砂漠、波打つ砂丘が地平線の彼方まで伸びてゆき、殆ど植物の緑が見当たらず、当たり一面褐色の砂の海である。


「凄い! 壮大で、何者も寄せ付けないような純然たる風景。バビロニアの王様もこんな気分だったのかしら、何処にでも行けるけれど、何処にもたどり着けない広大な空間。ああ、空気が乾いている、どんどん体の水分が取られていくような気がします」

「ボルヘスの“二人の王様と二つの迷宮”だね。壁のない無限の迷宮」

「そうです、現地の作家なんかには疎まれているようですが、私ボルヘス好きです。ああ、それにしてもこの風景、命や言葉ってこういう空間ではきっと別の言語を持つんです。言葉にすることもできないような感情や風景、場所。そういうものが脈打つのをただ聞くだけ、というような不思議な感覚が」


 その通りなのだ、風景や自然はある時点で言葉を有するには壮大になりすぎて、感情をダイレクトに揺さぶるものだ。私は彼女の方に向き直って、両肩に手を置いた。そしてこんなときもまた言葉というものは不要になる。私達は口づけを交わした。太陽が昼下がりの砂漠に私達の影を短く濃く映し出している。


***


「最近機嫌がいいわね。仕事の帰りも遅いっていうのになんだか浮かれているみたい」

「そうかい、いや、最近仕事が順調だからかな」

「臭い。女の臭いがするんだよ、そう言う態度」

「人の話聞いてたか? 仕事が順調だって話だろ」

「だって私わかるもん、そういうの」


 確かに図星であるがそんなもの超能力でもない限りわかりっこない、私はまだずるい気持ちがあり、千草と円満に別れて、会社の彼女と付き合おうと考えていた。その為、ここで波風を立てるのは都合が悪く、特に嫉妬深い千草のことだから、話がこじれてしまうのを避けたかった。


「なあ、またロンドンに行こうか、今度は酒も飲んでさ、現地でライブでも見たり」

「そういうことを他の女ともやってるんでしょう、って言ってるの」

「おい、どうしたんだよ、落ち着けよ」

「私は落ち着いてるわよ! 焦ってるのはあなたでしょう、図星なんだから」


 駄目だ、話が通じない、人の話を聞かないから話題も逸らすことができず、ただ私は千草の当てずっぽうな勘で責め立てられている。いや、これが一昨日のことまでだったならば私は何の後ろめたさも持たずにいつも通り適当に話を流して沈黙を守っていたのかも知れない、だが、今の私は相手の知り得ない秘密の想いを抱えている為か、どうしても言葉がついて出る。それが千草をどんどんエスカレートさせて、彼女の疑いは徐々に確信へと移行しているのが手に取るようにわかる。私はますます焦って、ついに本当のことを言ってしまった。


「そうだよ! 会社の新人の子で好きな子ができた。お前と一緒にいると息が詰まるんだ! 俺はもうこんな関係終わりにしたいんだ」


 すると、何かを言うでもなく、千草は素早い動きで私の鞄から機械を取り出す。何処かに行こうと言うのだろうか。私と彼女の思い出の場所でも詣でるつもりだろうか、そんなことをしたとしても私の気持ちはきっと変わらない。


「それが欲しいならくれてやるよ、だからもう出ていってくれ」


 千草は何も応えず機械をいじり続けている。普通ならもう設定も終わってポータルを開き終わっていてもおかしくないはずだが、ずっと画面を見ながらダイヤルをいじっている。と、その直後、千草は機械を大きく振りかぶって地面に叩きつけて破壊してしまった。


「これで大丈夫だから、ね。誰にも機械はもう使えない」


 そういうと彼女はニッコリと笑った。確かに機械を破壊したのは唖然としたが、新しい愛を得るために必要な犠牲ならそれでも良いと思った。彼女にはそれがわからないのかも知れない、これで私があの機械を使って女を誑かさなくなって溜飲が下がったのだろう。これだけの犠牲で千草の気が晴れるならば私はそれでも良いと思った。


「さあ、もう良いだろう、今日はもう帰ってくれ、頼む」

「無理だよ」


 そう言う彼女はその場にぼうと立っている。私はイライラして彼女の荷物を抱えると、彼女を引っ張っていって玄関へ連れて行った。


「さあ、すまないが、今日はもうひとりになりたいんだ」


 玄関を開ける。するとそこには私の部屋があった。


「帰れないよ」


 私はハッとしてベランダの窓を開ける。そこにも私の部屋、浴室の小さな窓も、天井裏への蓋を開けてもそこは私の部屋があった。千草は面白そうに玄関から出て私の部屋に現れた。スイッチを切らないことにはポータルは消えない。この部屋は完全に閉鎖された空間となった。私はあまりの事態に背筋が凍る思いに押し潰されそうになった、何処にも行けない、何処にも逃げられない、無限の迷宮。千草が笑う声が聞こえる。


「私達シドとナンシーみたいよね」


【完】

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お題:無限空間

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