焦慮の箱

 禎次ていじにとって今日は母親の葬式や飼い犬が子供を生むよりもずっと重要で最も大切な日であった。ヴィクター・アンド・ロルフのフォーマルだがカジュアルな遊びを効かせた服装を小綺麗に決め込み、きれいに整えた髭に柔らかく撫で付けた上品な髪型、ペンハリガンのジ・インピュデント・カズン・マシュー・オードパルファムの香りを薄くなびかせながら待ち合わせの場所へと急いでいた。


 ずっと恋人のあった亜都子あつこに長年片想いを寄せつつも、仲の良い友達関係を続けてきた苦く辛い時間を経て、ついに彼女は連れ合いの男と離別することとなった。多くの相談を受けたり、励ましの言葉をかける裡で、腹は常に男との破局を願い続けていた禎次にとって、これは大きな好機であった。こう書くと如何にも薄情で鄙劣ひれつな男のように見えるが、この七、八年間、他の女に目移りすることなく一途に想い続け、また彼女の相談にもやはり――自分の卑しい考えとは別に――、真摯に応え彼女の幸福を願い支えたのであった。そんな彼女に今夜はプロポーズに近い想いを伝える為、食事に誘ったのだった。


 高層五十階の人気フレンチレストランのキャンセル予約に上手いこと滑り込んだ禎次は、ところが仕事が押してしまい、予約したレストランが入っているビルに時間ギリギリで到着した。亜都子は既にレストランの席で待っていると言う。急いでエレベーターに乗ろうと思ったが遅々として来ない。どうも随分掛かっているようで、周りには結構な人数がその到着を待っているようだった。禎次は時計を盗み見てはソワソワしていたが、ふと向こうのエリアにもエレベーターがあることを思い出した。もしかしたらこちらを待つよりも早く乗れるのではないかと思って様子を見に行くことにした。


 果たして別エリアのエレベーターは今まさに出ようとしているところで上手いこと駆け込むことができたが、禎次が乗ると定員オーバーのブザーが憎々しげに鳴った。人々の視線が寒々しく刺さり、禎次は痛みに耐えかねてそそくさと降りる。落胆しつつも急いで元のエリアに戻ってくると、既に人は綺麗に捌けており、待っていたはずのエレベーターも先程行ってしまったことが伺われた。時計を見ると既に約束の時間は過ぎており、顔に焦慮しょうりょを滲ませながら亜都子へ謝罪のメールを送って少し遅れる旨を伝えた。


 かく言うわけで、欲をかくと得るものも得ず、ただに徒労に暮れるというありがたい教訓を得たのであったが、何も今日でなくても良かろうと禎次はブツブツとぼやく。そんな彼の慨嘆がいたんをよそにエレベーターはおもむろにして一階一階に丁寧に止まっているようである。そのじわりじわりと増えていく階数がまるで禎次の焦りや苛立ちのバロメーターのようだった。


 そうこうしているうちにまた人が集まってくる。めぐりが悪く鬱血したようなこの人溜まりを見ると、まったくこのビルの導線そのものの効率の悪さに怒りを覚えるようだ。ふと、視界の端に幼い少女が泣きそうな顔をして周囲を見回しているのが見える。普段であれば世話を焼くように声をかけるところであるが、今の禎次にはそういった心のゆとりも、時間の余裕も持ち合わせていなかった。見なかったことにして視線を時計に落とそうとしたその刹那、ふと少女と目が合ってしまう。禎次は急いで視線を引き剥がし時計へと視界を移す。エレベーターは徐々に下って来て、あと少し待てば到着するだろう。だが、禎次は自分の服が引っ張られるのを感じた。少女がジャケットの裾を控えめに、しかし存在を知らせるのに十分な力で掴んでいる。禎次は少女に見られないように高く顔を上げて苦悶の表情を浮かべたのち、努めて柔らかく微笑み、少女に問うのだった。


「かわいい女性がそんな顔を向けるのは、悪い男に捕まったときだけにするんだ」

「おじさんは悪い男なの?」

「おじ......、まあそうか俺ももうおじさんだな。そうだな、そうかも知れないよ。お母さんのところに帰ったほうが安全だよ」

「お母さんが居なくなっちゃったの」

「ううん、それは参ったね」


 エレベーターは間もなく到着する。だが、少女はますます強く裾を握りしめるのだった。禎次は苦悶の表情をなるべく表に出さぬよう努めながら、これは諦める他あるまいと覚悟を決めると、少女の手を取りエレベーターエリアから離れる。人々が小さな箱に入っていく気配を背中に感じながら迷子センターへと歩んでいく。


「どこに向かってるの?」

「係の人に探してもらおう」

「あたし、迷子センターは嫌、大人が一杯で怖いもの」

「俺は怖くないのかい」

「いい匂いがするから怖くないわ」

「そいつはどうも」

「でも迷子センターは嫌、一緒にお母さんを探して」

「仕方ないな、心当たりの場所はあるかい」


 このビルの一階から四階は数多くのテナントが入っており、きらびやかに人々を誘う。花々に惹かれる蜂のように人々は群れなし、このコロニーに出入りしている。二人は母親のいそうなお店を方々探したがそれらしき人物は見つからない。迷子のお知らせも聞こえないところ、母親もまた迷子センターには訪れていないようだった。禎次は徒労のままに過ぎていく時間にジリジリと身を焼かれながらも不安そうに眉間に皺を寄せている少女に励ましの言葉をかけるのだった。


「泣かないなんて強い子だな」

「男の人の前だからカッコつけて強がっているだけ」

「おや、素晴らしいね」

「素晴らしい?カッコつけるなんてダサいわ」

「いいや、辛くても、怖くても伊達を気取れるってのはカッコいいことだ。どんな状況にあってもカッコつけていられる人はめちゃくちゃカッコいいと思うぜ」

「そうかしら。そうだといいな」


 少女はピタリと立ち止まると少し思案げに顔を俯かせると、決心したように薄い唇を静かに開いて言うのだった。


「あたし、迷子センター行くわ。カッコつけたいもの」


 禎次はニコリと笑って少女の頭を撫でてやり、その決断を称賛した。二人は再び手を握り合って、迷子センターへと向かうと、果たして我が子を探して藁をも掴む気持ちで訪れていた少女の母親とかちあった。二人はまるで生き別れた者同士のように固く抱き合うと、禎次に丁寧にお礼を述べた。彼はそんな二人を見て、大袈裟だと感じたが、子のいない禎次にとっては彼らの感情は想像し難いものであったのかもしれない。


 母親探しにはゆうに一時間以上かかっていた、随分時間を食ってしまったと焦りながらエレベーターに行くとまた今さっき出たばかりだということが伺われた。こうなればエスカレーターや階段を利用するのも辞さないという気合で移動を始めたのだったが、それらはテナントの入っている4階までしか通じておらず、大人しくエレベーターを待つ他ないと確認をあらたにするのみであった。


 エレベーターエリアには再び人だかりができていた。禎次はその最後尾たる群れの端に並んだが、この人数が全員エレベーターに乗れるようには如何にも思えない。まして今来たばかりの後方で待っていては、自分が乗れるかも怪しい。もはや四の五の言ってはいられないということで人垣を掻き分けて無理やり前方集団へ加わろうとした。ところがそういった不正を許せない正義の人というのは必ずいるもので、傍若無人に見える禎次の横入りに意を唱えようと彼の肩をグイと引いた。


「こら、いい歳をして順番を守らない者があるか、迷惑になるからやめなさい」

「急いでるんだ、次のに乗らないといけないんだ」

「誰だって急いでいる、みんな都合がある、きみの言うことは単なる我儘だ」


 正義の人はシッカリと禎次を捕まえており、無視して進むこともかなわない。エレベーターは順調に階を下り、あと少しもすれば到着しそうに見える。禎次は正義の人を非常に鬱陶しく感じていた。本来ならば自分がそういった不正に腹を立てることすらもあるというのに、今はそれを忘れてただひたすらにこの肩を掴む人物を憎々しげに思っている。禎次はもう抗議もせずただ懸命にその手を振り払い進もうと試みる。エレベーターは加速度的に階を下り始める。このままでは間に合わないかも知れない、人混みの中で大きな動きはできないが、もはや無理にでも前に出なければならない。正義の人が何か正しいことを喚いているが禎次の耳には入らない、力を込めて一歩、また一歩と彼を引きずるように少しずつ人を掻き分けて進む。エレベーターはもうほんの僅かで到着する。


「いい加減にしないか!」


 そう正義の人が叫んだ瞬間、大きな衝撃音がエレベーターホールで鳴り響いた。人垣がワッと広がり、人々の肉の抵抗がなくなると禎次は前方につんのめって手を付いてしまう。見るとエレベーターの扉は中途半端に開き、その裏で空のエレベーターがぺしゃんこに潰れているのが僅かに見えるではないか。正義の人もぽかんと呆気に取られ、やがてガヤガヤと騒ぎが大きくなり、ビルの警備員がエレベーターホールを封鎖した。あまりの事態に停止していた禎次の脳だったが、人々が遠巻きに野次馬する声々に再び動き出した。だが、その惨状を目の当たりにしてショックを受けると言うよりは、むしろ待ち合わせに対する絶望的な感情しか湧いてこなかった。


 もう片方のエレベーターエリアではやはり人がごった返していたが、正直にその何度かの順番待ちをして、ついに次に乗れるだろう位置に着くことができた。ゆっくり各駅停車と言った風情のエレベーターは一往復するのにゆうに十五分から二十分以上ほどじっくりと時間をかけて上下するので、何本も乗れずに見送っているうちに待ち合わせは既に三時間ほど遅れていることになる。こまめに正直に、遅刻の理由を連絡していたのだが、ここ一時間は既に返信が返って来なくなっている。焦りと不安で禎次はひどく憔悴していた。心做しか髪は乱れて、髭は不揃いになったように感じる。


 ようやくエレベーターに乗り込み五十階のボタンを押す。ここに来てまるで大きな荷物を下ろしたように安堵のため息を漏らす禎次だった。しかもどういうわけか、箱に乗っている人数が自分を含め七人と広さに比して少なく、非常に快適に乗っていられる。更に幸運だったのは、彼らもまた五十階に用があるらしく、余計な階には止まらずに目的のレストランまで向かえそうであった。同乗の人々は皆知り合いらしく、言葉少なに会話をしているが、禎次の耳には入らない。ところで本来ならばその場の空気が異常なほど張り詰めているということに気付くものだが、彼は今それどころではなく、ただに亜都子へのプロポーズが上手くいくのだろうかという不安と緊張が、体の内側ぱんぱんに膨れ上がっていたのだった。そんな彼であるから、外からの音や感情など入り込む余地もなく、心情は不安と励ましのラリーを間断なく続けていた。


 禎次の瞑想状態を打ち破ったのは独特の破裂音だった。その音とともに人が一人うつ伏せに倒れ、液体が散って禎次のジャケットに付いた。アッと思い彼は一張羅のジャケットに付着した液体を拭ったが、その指先を確認すると赤黒く鉄臭いものでべっとりと湿っている。瞬時にそれが何であるのか思い当たった。目を上げるとまるでクロックス数が上がったかのように全てがスローモーションに見えた。後から銃を抜いた二人が素早く相対する三人のうち二人を射殺したが、一人が相打ちとなり、残った二人はお互いに取っ組み合い銃口を向け合う、それを反らし、殴る、蹴るの応酬をし合うと、もんどり打って最後には互いの頭を吹き飛ばして倒れてしまった。禎次はただそれを呆然と眺めていたが、真っ白な頭の中、それでもチラつくのは亜都子のことであった。


 エレベーターが五十階到着の音を鳴らし、扉が開くとそこには血まみれの禎次が口を開けてぼうと立っている。するとその出口の先に亜都子がいる。焦がれた慕情ぼじょうに禎次の心ははやり、先程の事件などは何処かへとすっ飛んでしまい、素早く彼女のそばに駆け寄った。だが亜都子はそれに応えることなくするりと禎次の横をすり抜けてエレベーターに乗り込んでしまう。振り向いたその目は幻滅と悲しみの涙を湛えており、禎次の姿をあえてその瞳に映さないよう視線を泳がせながら小さく鼻を啜っている。


「えっと、その待たせてごめん」

「遅れる理由も下手な嘘ばっかり。そんなに嫌なら最初から誘わなきゃ良いじゃない。私弱みに付け込まれるつもりで来たのよ」

「いや、あの、本当に迷子を届けたり、エレベーターが事故で落ちたりしたんだ」

「まだ嘘を言うのね。もう話したくないの。連絡もしないで」


 ピシャリとした決然たる拒絶に禎次は頭が真っ白になる。エレベーターの扉は固く閉まり、あとにはものも言わずシンとした鉄の扉が眼前にあるのみであった。禎次はガクリと膝を付いて陽炎のように揺れる視界のただ虚空をジっと見つめて、何ごとかを考えようと試みるが、泡のひとつも浮かぶことなく、ひんやりとした暗闇が静かに彼の心を包んだ。終わった。数年間の想いが、にべもない拒絶によって。ただ運命の気まぐれによって惹起されたこの遅延があった。「あー」と言ってみた。間の抜けた響きが頭にこだまして空っぽのようだった。


 たまたま居合わせた先程の迷子の少女が、彼に近づいて可愛らしい誘惑の言葉を囁いたようだったが、禎次は苦笑いもできずただ魂の抜けた老人のようになっていた。


【完】

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お題:エレベーター

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