少年は便器を舐めていた。舌を白い丸みを帯びた輪郭に併せて柔軟に変化させながら、丁寧に這わせている、嫌悪感と吐き気が背中をまるで百足のようにチクチクと這うようで、少年は目眩がした、それは決して快楽に結びつくものではなく、徹頭徹尾不快感であった。えづきながらずっと舌を這わせている、誰かが笑っている、その声がこだまのように頭の中で跳ね返って反響して頭のこめかみあたりがキリキリと痛んだ。だが同時に冷たく醒めている自分がそこにいるのを感じていた、生理的不快感とは別に、精神的な痛みは感じずただ作業としてそれを処理する道具のような自我である、それを自我と呼ぶことができるならではあるが。何故なら少年の動作はどれも自動的であったからである。幼少期から厳しい教育を受けており、あまりに苛烈な躾であったから、両親は少年に否という言動を禁止し、否が応でも従わせることに成功した、その甲斐あってか少年は命令をインプットするとそれを自動で処理するという機構が備わった。その際に彼に感情の起伏はなくただ凪いでいるのだ、まるで無風の湖の湖面のように森閑としている。そのまま糞を垂れて舐めろと言われれば彼はそうしただろう。だが、高等学校ともなると学生の残酷さというのもは特定のキッカケを通過しない限り、低学年にありうる無邪気な残忍性というものが薄れ、理性ある限度によってある程度ブレーキがかかるものである。男子は笑い転げて、女子は嫌悪感を顕にして、少年を囲んでいる、誰かが「もう授業が始まる」と言って少しずつ輪を崩していって散開していった。誰も命令する者が居なくなると少年は何事もなかったかのように立ち上がって教室へ戻った。


 少年の名は近藤直人であった、その名は指示や命令と組み合わさることことで呪いのように作用した。最初は雑務などを頼めば快く承諾してくれる良い人という印象から始まったが、ある日誰かが冗談で「セミってうまいらしいよ、食ってみてよ」と言ったときに近藤直人はそれを一瞬の躊躇いもなく行動に移し、セミをバリバリとその場で食べたことから、人々へ彼の命令や指示に対する異常なまでの行動力に不可解なものへのそこはかとない恐怖心を与えることになった。学生たちはもちろん教師に至るまで、その異常性に困惑し、距離を取った。それで終われば、近藤直人は学生の中に稀にだが、確実に一粒や二粒は紛れ込む異物でしかなかったし、静かに何事もなく過ごすことができただろう。だが、集団というものは人数が増えることで気を大きくするものだ、異物を排斥するのではなく、恐怖を笑うことでバランスを取ろうとする者が現れるのは自明であった。ただでさえ学生というものは悪ノリするものだし、近藤直人の場合は目に見える障害を抱えた人間ではなかったので、彼らの良心に於いても都合が良かった。最初は何かを購買から買ってこいとかパシリのような命令から始まって、授業中教師に足を引っ掛けて転ばせろとか、金をよこせとか、少しずつエスカレートして行った。それが徐々に進んで行って、今日は便器を舐めろとなった次第である。


 近藤直人に感情がないわけではなかった、何にも命令されず、何からも縛られない時間というのは確かにあって、それは多くの場合孤独の中にあったが、それでもそのときはこもごもの人間的感情が入り乱れていた。しかし命令や指示に関わるものに関しては本当に何も感じなかった、実行している間もそのあとも、彼の心にはそれらの行動は何も残さなかった、それが彼が生きていられる理由でもある、心を守るためにそれら呪いは隔離された別の空間に置き去りにされた。そこは表層意識から完全に切り離された無響室のようなものだ、然るにそれが蓄積していくものなのか、それとも共振せずにただ無音に溶けていくものなのかわからない。彼がある日壊れてしまう、ということも或いはあり得たかもしれない。現状はただ凪いでいて、何も響かず、何も感じないということだけが真実であった。ともあれ彼を取り巻く環境は学校にせよ家庭にせよ、斯様に厳しいものであったから自然と笑うことはなくなり、静かに過ごすことが多かった。彼は命令や指示に関するもの以外には普通の高校生として何かを感じるし考えることができた、それは最後に残った彼の希望なのか、それとも不幸なのかは知る由もないが、少なくとも何かに感動したり、怒ったり、悲しんだりすることができたということだ。そして近藤直人はまた、同じクラスのある女子に恋慕を抱いていたし、思春期にある男子にとってそれはとても自然なことのように思われる。


 だが、それは無理な話だろうと自分の中で思っている。彼は自分がいじめを受けているという自覚があった、ただそれは命令や指示を通したものであるから、思い返しても辛いだとか悔しいだとかの感情を抱かない、ただポッカリとした無感情があるだけである。しかし、それ以外の部分で彼は自分が学校内で置かれたヒエラルキーを意識していた、それだけにその恋慕は実る筈はないだろうと考えることができた、今や自分は最底辺の人間として扱われており、いじめられるままに抵抗もせず従う気持ちの悪い人間で、言われれば便器をなめるような不浄な者であるという自覚があった。そんな人間に好意を向ける人間がいるであろうか、近藤直人は指示や命令に是非もなくただ従うだけである、そこに何ら疑問の余地はないが、いじめられているやつがどうあっても誰かの好意を受け取れるような人間ではありえないと思えてならなかった。故に彼はその恋慕をいつもの無言の中に閉じ込めて、表情に出さず、外に漏らさず、そっとその熱が冷めるのを待っている。


 いじめというものは加害者にとってチキンレースのようなものだ。どこまで常識を超えて酷いことができるかという罪悪感と背徳感のチキンレース、そして常識は基本的に繰り返していくうちに固定化されるが、逆に更新を繰り返していくうちに鈍化し締め付けを緩めていく、それがエスカレートしていく原因だ。彼らが近藤直人に対して行ういじめは、彼らの度胸試しのようなものであり、それは無理難題であればあるほど、その行動価値を高めた。その為、目立ちたがり屋ほど近藤直人に対して苛烈な命令を行ったし、或いは虐げられているものほど残酷に当たった。教師に対するいたずら程度ならまだしも、教師の財布を盗んだりもさせられた、そんなときに叱られるのは勿論近藤直人であってそれを命令した者ではない、命令は自分の意志で拒否すれば良いのであって、それを是として行動に起こす近藤直人が一等悪かった。少なくとも教師はそう考えていたし、近藤直人が異常なまでに人の命令や指示に対して従順であることは常識的に考えて少なくとも意志の介在が行われているはずだと思っていた。異常であることは教師にとっても生徒にとってもそれがどんな不可解なものであろうと、自分だったらこうするのに、という想像力の範疇を出ることがなく、近藤直人が自動的に行動するというある種の精神障害であることを理解する者はいなかった。それ故に近藤直人は教師に罰せられ、生徒からいじめられるという環境ができあがった。彼に味方するものは誰も居なかった。


 ところで彼をいじめている層というのは実は経過によって変化していて、最初は不良たちが遊んでいたが、次第に何でも言うことを聞くという点に於いて嗜虐心をあまり擽られなかったのか段々と飽きていった、今ではイジメの中心は学園カーストの低い或いは自分もイジメられる側である少年少女達によって行われるようになっていた。人の悪意は高いところから低いところへその都度怨嗟を巻き込み濃度を増しながら流れていくもので、カーストの低い彼らは近藤直人に対して容赦のない仕打ちを繰り返していた、そうしたら自分の中にある膿もキレイに洗い流せると信じて。実際にはどうなのかはわからないが、とにかくその時だけ彼らは自分たちが虐げられる人間ではなくなったのを感じていた。


 しかし状況は推移するものだ、ある日から不良集団が近藤直人を便利なパシリとして使うようになった、それは多くの場合万引やナンパのネタ、空き巣の見張りやレイプの手伝いなどで使われた。それによって近藤直人はカーストの低い連中からのいじめから開放されることにはなったが、犯罪の片棒を担ぐような命令が多くなり、どちらがマシだったかと考えても答えが出なそうな状況の変化でしかなかった。しかし、彼はどちらがマシかどうかなど考えることはなかった。ただ命令に従う、それが正しいと信じていたし、信じる前に体はその様に反応するように出来上がっていたので、疑いを挟む余地はなかった、いや、もっと言えば自我の介在する余地すらなかったのだろうと思われる。


 ある日、この集団は近藤直人の恋慕を寄せている女の子をターゲットに選んだ。近藤直人はこういう手伝いをしている間、ずっと不安に思っていたが、遂にあの子がターゲットになる日が来てしまったことを憂いた。しかし、命令が下されると、彼のその不安は霧散し、ただ淡々と言われたとおり彼女を攫うのを手伝い、嫌がる少女の両手を抑えつけて、不良たちが事を成すのを眺めていた。彼らはそのあと彼女を強請るべく、近藤直人の恋する相手の陵辱された姿を写真に収めた。彼女は泣いていた。恐怖と絶望と辱めを一身に受けて震えながら泣いていた。不良たちが帰っていって、現場の片付けを近藤が行う。その間、彼女は憎々しげな顔で近藤直人を睨んでいた。「殺してよ。あなた命令を受ければそうするんでしょう、なら私を殺してよ、もう生きていけないもの」そう言う声が聞こえた。近藤直人は命令に逆らえない。彼女は近藤直人の理性の存在を信じていた、これは挑発だった。だが、近藤直人はゆっくりと彼女に近づいて首を力いっぱい締めた。彼女の顔はみるみる赤くなっていく。「やめ……」首が潰されて声にならない。彼女は近藤直人の手に爪を立てたり、思いっきり胸を叩いたりしたが、近藤直人は止めない。ギュッと力を込めてシッカリと彼女が死ぬように締め上げていく。彼女の抵抗する力は徐々に失われていき、ガックリと両手が地面に落ちた。近藤直人はそれを確認するとゆっくりと力を抜いて、彼女を離した。地面に一つ死体が転がっている。無風の湖に石が一つ、静かな水面に波紋はくっきりと波打って、それっきりしんと静まり返った。


【完】

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お題:YES

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