生活

 理路整然と並べられた商品が客の手で乱されたらそれを正す仕事をしている。客は畳まれた服を広げて自分の方や腰に当ててサイズは合っているか、自分の容姿に合うか、色合いはどうかといったものを確認し、乱雑に畳み直すと元の位置に戻す。正確にはそれは元の位置ではなく、元の形状ではなく、元の順番ではない。私はそれを見つけて、客の視界の外に出たことを確認すると広げ畳み直し、正確に元の位置に戻す。この行動に思想はない、自動的で習慣化された作業であり、そこに私の意思は介在しない。客がそれを乱したからといって私はそれに対して何も感じないし、放り出されて不規則な皺を作り出す服のその皺の波を眺めて凹凸の数を数えることもしない。純然たる労働だけがそこにあって、その行動で私は賃金を得ている。


 家には皿がある。棚を開けると並んでいる皿。それは決められた位置を守ってそこに並んでいる。よく使うものは手前に、余り使わないものは奥に、同系統の種類の器は一箇所にまとめられて、色合いに合わせてそれらの位置が定まっている。料理をし、盛り付け、茶碗を左に、汁物を右に、おかずを中央の少し上に置く。食事はおかず、お米、汁物、その日の付け合せを順番に摘んでゆき、おかずの最後の一口に

合わせて米がなくなり、最後に残った汁物の口の中を〆る。私の行動には規則があり、その規則を守り続ける限り、私の心は平穏だし、その行動ひとつひとつに自分の習慣が染み渡り、それが自分の肉体的運動を形成し、精神状態を一定に保つことが出来る。生活的ノルム。凪。


 では感情の起伏が嫌いかと言われればそうではない。私は常々何か新しい刺激を求めている。ただ習慣がそれを許さないだけだ。外出をして寄る店は決まっており、食事をする店はいくつかの店をローテーション。少ない試行回数、成功体験、そういったものに守られた行動によって私は形作られている。習慣的な行動の中に感動がないわけではない、私は寝る前にかならず一本の映画を観ることにしているが、それは私に少なからず何かしらの感想、乃至感動を呼び起こさせる。大きなものもあれば小さなものもある、それらは自分の中で反響して、消えてしまったり、ある時それがフィードバックノイズのように増強されて心を揺らしたりする。それは観る作品によって違うのでなんとも言えないが、フィクションの楽しみというものは、何かしらのストレスや変化を齎し、習慣の中で滞った澱のようなものを洗い流す作用がある。


 人間関係、これに関して言えば私は自分で考えたマニュアル以外の行動をしないことにしている。人間関係はトラブルを起こす一番の原因となる。例えば思想、或いは嗜好、或いは嫌悪、それらは人によって違う場所にスイッチがあり、その多くは話し合いで解決することは不可能である。多くの場合、折衷案がなされてその中に多様性という便宜上多くのものを許すことの出来る魔法のような価値観が介入されて丸く収まるだけで、多くに人はやはり互いに違うことを考え、違う思考を行う。悪い場合には容喙されそれは暴力などの手段によって正当化される。私はそれが恐ろしいので人間との関わりを余り持たないようにしている。


 私には祖母がいた。厳しい人で、間違ったことをすると一升瓶で尻を叩かれた。間違ったことというのは祖母の生活の中で不協和を起こすことを言うのであって、倫理観や常識という面はそこまで重要ではなかった。私は自分の秩序に固執する性質

に祖母の血を感じる。祖母は数年前に痴呆になり、私のこともわからなくなった。一緒にいれば五分おきくらいに私は誰かと質問をしてくる。私はその度に自分が孫であることを伝える、そうすると祖母は一時的に安心して「ああ、元気だったかい」と私に声を掛ける。この掛け合いは嫌いではなかった。人間によって反復される行動、人間関係の限りなくゼロに近い試みの中で一番温かみのあるコミュニケーションだ。祖母は糞を壁に塗って老人ホームに入れられ、やがて死んだ。


 恋人、これも厄介な存在だ。恋愛というのは不確定要素と情緒不安定、人間関係に於ける折衷案の一番細い線の上に居を構える必要がある。そこには多くの困難と多くの不満が充満する。人は距離感が近くなればなるほど、差異というものに敏感になり、友人関係であれば許容できたような多様性も、隣り合って手を繋ぐようになれば小さな違いが目につくようになる。軋轢が生まれ疲弊する。ただし、眠る際は違う、互いに疲れ果てて横になったベッドの中で互いの体温が交換されるのは心地が良く、そこには規則的な呼吸と安堵がある。私は恋人を何人か持ったが今は居ない。畢竟、恋人の齎す安堵感と感情の起伏はある種の心地よさを私に与えてくれるが、歳を取るにつれて人と人の間に成立する細い土台を築くことに疲れてしまった。


 友人、これはもう少し易い。互いの距離感にもよるが、多くの場合相手のパーソナルな空間、或いは習慣、生活には介入しない、その為私はわたしの秩序を守りながらコミュニケーションをとることも出来る。とは言え多くの友人を私は持っていない。距離感の近い友人はゼロに等しい。あるのはたまに趣味の関係で話をする友人が数人居るだけで、趣味以外のことに関しては互いに不可侵を貫いている。寂しさという感情を私は持っているが、疲労感と習慣の乱れを侵すほどの力はない。


 秋口の肌寒い朝が来る。私はカットソーにカーディガンにジーンズというシンプルな服装に着替えて夜明けの、まだ空が橙色に染まった時間帯に外を歩く。決められたコース、決められた速度で、仕事に向かう人、ランニングをする人、犬を散歩する人など決まった人とすれ違う。それらは私に何の関わりもない人間たちだが、いつの間にか習慣の背景に溶け込んだ者たちだ。川が陽の光を反射して輝いている。草が柵を越えて茂っている。まばらな車が眠たそうに走っている。


 私は夜になるとたまに手紙を書く、今まであった人に宛てた手紙を。宛先は知らないから一度も出したことがない。何通もの手紙がレターボックスに埋まっている。「お元気でしょうか、私は変わりなくやっています。私が変わることがあるとしたらそれは何かしら不幸な出来事があるからで、そうでない間は私はいつも通り過ごしていけます。あなたはこの前のプレオーダーで良いものが買えたでしょうか。シャンパンとフルーツが出て、その中でいくつも着替えをして、楽しい時間が過ごせたことと思います。私もアパレルで働く者ですから、そういったプレオーダーに呼ばれることはありますけれど、いつも行きそびれてしまいます。新しい服というのはピンとして美しい。新しい何者かになれるような不思議な魔力があるように感じます。夏のさらさらとした生地、冬の包み込まれるような布の波、足元をキュッと締め付ける光沢のあるシューズ。どれもが自分を待ってくれているように美しく輝いている。ついついお金を使い込みすぎることもありますから注意が必要ですけれどね。身を飾るということは他者との関係を示すと同時に自分自身の気持ちの変容であったり、強固とするものであったり、武装であったりするのですから、その選択はしっかりと熟考したいものです。追伸、あなたの紹介してくれた音楽は面白いものでした、また何れ良いものがあれば紹介してください。」そんなような他愛もない内容だ。誰かに対して恨み言を書いたり、言えずに飲み込んだ反駁などを書くわけではない。だから私の体の中には人に対する蟠りがこびりついている。けれども私は送る宛のない手紙の中ですら人間関係に波風を立てなくないと考えているようだ。


 私はどこに居るのだろう。私は習慣に固執し、凪を愛し、変化を許容せずに生きてきたが、そこには自己の輪郭というものが存在せず、生活のサイクルがあるだけだ。機械のようだと言うのは余りにも安直な比喩だが、私の生活には固執する自己と曖昧化された無感情、無頓着のみが回転している。固着化された自己愛。生活そのものがクリシュとなるほど摩耗した時間。私はそれでも変化の為の行動を起こしたくない。服を畳み、皿を決まった位置に納め、朝は決められたコースを歩き、夜は手紙を書く、そして映画を観て眠る。何も不自由のない生活。私はどこに居るのだろう。生活の中の私は生活そのものに飲み込まれて、習慣そのものになって、私の思考はどこに消えたのだろう。考えたくないのだ。ほらまた夜が明けた。


【完】

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お題:秩序

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