黄泉鳥

 不運な事故によって鶫子つぐみこは死んだ。細かい原因はよく判らないが、車輪のネジが緩み、崩れるようにして頭をしたたかに打ってそのまま即死したとされた。残された家族や友人は人の人生の理不尽を目の当たりにそれぞれに何か思うこともあったろうが、そんな人々の思いとは裏腹に葬儀は恙無つつがなく終わった。


 次に鶫子が目を覚ますとそこは記号と数字の世界だった。寝ぼけ眼を擦すり、曖昧な視界によくよく目を凝らすと次第に目が慣れてきたが、見えたのは様々なテキストや動画で、見ると言うよりはむしろ彼女の頭の上をざらざらと滑るように流れていくのだった。それはインターネット上に見られる様々な情報であって、人々のコミュニケーションであった。彼女は不思議な巡り合わせで、正体不明の実験電波を浴びて、彼女の記憶及び人格を構成するデータのコピーが生成され、それが弾けて様々なネットワーク上にばらまかれた。それは一つ一つバラバラに細かく分断されたフラグメントでしかないが、ネットワーク上で繋がっている限り、如何に別々の場所に保存されたものであっても、一個の人間の人格としての整合性を保つことができた。


 鶫子は新しい自分の姿にすぐに慣れた。彼女はもはや食事や睡眠が不要となり、仕事もする必要がないから永遠に自由だった。毎日SNSを覗いて自分のアカウントでテキストを更新して、Instagramにネット上で見つけた好きなアートやデザインの画像をアップし、3Dモデルで自身を再現して3Dチャットを楽しんだりもした。ここには朝も夜もなく、情報は常にどこかで更新され続けており、寂しさもなかった。


 彼女はどんな断片化されても、一部が削除されて失われても、インターネットがある限り、そのフラグメントは先々でコピーを作り、最低限必要なフラグメントがオンライン上に存在する限り整合性を取り続けることができるので、実質不老不死となっていた。彼女は最初こそ時間を持て余していたが、この世界ではできることがそれこそ無限にあり、いくらでも楽しめるようであった。それに彼女はコピーになった時点で感情を無くしてしまっていたので、自分が人間でなくなってしまった事実や孤独感で気が狂うことはなかった。


 彼女はコンピュータの計算能力を借りて、記号と数字のみでより効率的で新しい言語を発明し、それで詩を作ったり、小説を書いたりした。それは拡張子を変えるだけでMIDI音源にもなり、彼女の作曲したダンスミュージックが聴けた。けれど、彼女の小説や詩は誰が読んでも理解することはできなくて、彼女の作った音楽も誰にも聴かれることはなかった。


 彼女の絵の方はそこそこ話題になった。インターネット上にある様々な画像を複雑にコラージュしてまるでグリッジ処理をされた水彩画のようなものを描いた。絵そのものは少し個性的な作風というだけだったが、投稿サイトの運営がいくら調べてもアカウントの作成手順を踏んだ形跡のない身元不明のアカウントとして不気味がった。アカウントはいくら削除しても何故か復元されて残ってしまうということで、これが都市伝説のように話題になって、その絵は呪われているだとか、有名なアーティストの匿名のパフォーマンスだとか言われた。鶫子はそういった噂を見ては楽しんだようであった。


 肉体の生のくびきから自由になった鶫子はとにかく時間がいくらでもあった。彼女は今までの人生の中で最も学び、最も楽しんだ。この先も恐らく、飽くことなく様々な試みを遊ぶだろう。しかし、肉体を無くし、感情も無くし、その存在の在り方も変わり、オリジナルの鶫子の性格パターンから演算するように行動するだけの彼女は果たして鶫子と呼べる存在だったろうか。鶫子は自分がいつか滅ぶのだろうかと想像したがよく判らなかった。その時は恐らく人類が滅亡したあとだろうと思った。



 次に鶫子が目を覚ますとそこは恋人の部屋だった。冬だと言うのに彼女は汗をびっしょりとかいていて、パジャマが体に張り付いて気持ちが悪い。内容は覚えていないけれど、悪夢を見ていたようで、呼吸も乱れている。


「怖い夢でも見たのかい」


 ベッドに背をもたせながら本を読んでいた量一りょういちが上半身を捻って鶫子の方を向き、優しく前髪を撫ぜた。鶫子はまだ心臓が激しく波打っている音を聞きながら、少しずつ落ち着きを取り戻していった。額に触れる彼の手を少し強く握って「大丈夫」と答える。量一はその手をされるがままにして微笑んだ。


 彼の部屋はきれいに片付けられていて、床に余計なものが何一つ置かれておらず、服や本が放りっぱなしの鶫子の部屋とは似つかなかった。性格も概ねそのような関係になっており、大雑把で思いつきで活動する鶫子と、何事もキチンとして計画的に行動する量一といったところで、一見相性が悪そうに見えるが、量一のリードによって多くのことは規則正しく解決してゆくし、彼のおおらかさによって鶫子の気まぐれがまかりり通るようにもなっていたので、彼女には何の不満もなかった。


 彼の優しい愛撫で少しずつ目が覚めていくような、頭が蕩けるような感覚のグラデーションを楽しんでいた。二人は互いに違う人間だったが、限りなく一つになっていた。互いに異なる個である人間が最も密接になれる、最も液体となれる行為に没頭して、怖い夢のことなんて忘れてしまえた。そのあと、鶫子は冷めて温くなった紅茶を飲んで、うつ伏せで横になっていると、またうとうととして来た。


「今日は休みだから、ゆっくりお休み。起きたらご飯を食べに行こう」


 量一の声が遠くで聞こえて安心感に包まれながら深い眠りに落ちた。


 起きると母親が買い物から帰ってきてた。テレビを観ながら眠ってしまっていたのかも知れない。腕に座布団の皺の形のあとが残っていて、それが面白かった。


「つぐちゃん、お留守番ありがとね。今からお夕飯作るから、アイスキャンディーを食べて待っててね」


 鶫子は小さな体を起き上がらせて、冷蔵庫の方に歩いていく。まだ小さい彼女の背丈では冷凍庫の扉を開くことも難しかった。母親がそれを開けて、中から一本のアイスキャンディーを取り出して渡した。鶫子はそれを嬉しそうに受け取って居間に走っていった。


 アイスキャンディーは甘くて冷たくて美味しかった。そんなときにふと先日亡くなった祖父のことを思い出した。そして思った。「死ぬってなんだろう。アイスキャンディーが冷たくて甘いということが判らなくなるのかな、判らなくなったことも判らなくなるのかな。」気付くと鶫子は恐ろしくなって泣いてしまった。アイスキャンディーが溶けて床に垂れる。母親は慌てて「どうしたの」と近寄って慰めようとする。鶫子は「死にたくないよぉ」と泣き続けた。


 鶫子の肉体は夢を見ていた。頭が地面に接触して、その脳が破壊される少し前の瞬間から、時間感覚の拡大が行われていた。時間感覚はどんどん引き伸ばされ、一秒が一日、いや一ヶ月、いや一年、いや何年にも引き伸ばされていくのだ。そのあいだ鶫子の肉体は夢を見続ける。これは走馬灯のようなもので、彼女の思い出から彼女が生きているうちにこうあったかも知れないという情景が、時系列に従わずにランダムに夢想され続けるのだった。そして彼女の肉体は半永久的に死の瞬間を先延ばしにしながら夢を見続ける。果たしてこれは死だろうか。鶫子にはもう夢と現の違いなどなかった。ただ体感する拡大された時間と夢だけが真実であった。



 次に鶫子が目を覚ますとそこは事故で転倒した道端だった。鶫子は判然としない気持ちで頭を掻いて、辺りを見回した。自転車はどこに行ったのかきれいに片付けられていたが、彼女はとりあえずその日の用事の続きである彼氏の家へ向かうことにした。


 普段自転車で行く道をゆっくりと徒歩で向かうと、いつもとは少し違う風景が見れるようで新鮮だった。道行く一軒家の塀から飛び出た植物の形に気を取られていると、自動販売機にぶつかりそうになった。こんなところに自動販売機があったことも今までは気付かなかった。とにかく量一の家に一刻も早く着きたいという気持ちがあって、自転車を飛ばしている間は風景なんぞすっ飛ばして、一直線に彼の居場所に意識が向いていたように思う。


 冬の川はなんて寒々しくて寂しくって良いんだろう、と思いながら鶫子は歩いた。足取りは妙に軽くて、ファスティングを行った翌日みたいに頭が冴えているような気がした。


 量一の家に着いて合鍵で中に入ると、珍しく部屋が片付いていなかった。服は何着も脱ぎ捨てられており、洗い物がそのままにシンクに溜まっている。窓はずっと締め切られていたのか家の中の空気は心做こころなしか淀んでいるように感じられた。


 鶫子は部屋の中を見て回ったが、彼の姿は見当たらなかった。今日は彼の仕事はないはずだった。何処に出かけているのだろうか、心配になって電話をしようと思ったが、何故か彼女のスマートフォンは電源が切れていた。部屋を出るとお隣さんが外出しようとしていたところだったので、彼の行き先を知らないか訪ねてみる。


「あの隣の男性ですけど、何処に行ったとか知りませんか」


 しかしお隣さんは鶫子の声など聞こえないかのように無視をしてさっさと何処かへ行ってしまった。鶫子は頬を膨らませて「感じ悪ッ」と小さく悪態をいた。兎も角、途方に暮れた彼女は諦めて帰ろうかとも思ったが、会いたいという気持ちが強かった。今日あなたに会いたい。鶫子が歩くと冷たい空気がスカートの中をさぁっと通り抜けた。


 彼の居そうな場所を色々見て回った。彼がよく読書をする喫茶店、なんとなく物色するレコード屋、いつも何かを売っては相殺するように買って帰る古本屋、二人の散歩道で毎回のように立ち寄る公園の休憩所、でも量一は何処にもおらず、色々と見て回った挙げ句、結局駅まで来てしまった。


 日はもう落ちてきていた。街灯の灯りに照らされながら、駅前のベンチで座っていると改札口から量一が出てきた。黒いスーツにネクタイを着けて、疲れているような表情で俯きながら歩いていた。鶫子はぱあと顔を輝かせて彼に駆け寄る。


「何処に行ってたの、家に行ったのに居ないから心配したんだよ」


 しかし、量一は寒そうに白い息を吐きながら歩く速度を緩めずに彼女の横を通り過ぎる。鶫子はムッとして量一の肩を掴んで無理やり振り向かせようとした。しかし、その手は空を切って何ものも掴むことができなかった。それで彼女は自分が実体を持たない魂だけの存在であることに気付いてしまった。量一は泣き腫らしたような目をしていた。


「ああ、量一、私は死んじゃったのね」


 すると量一は彼女に答えるように独り言を呟いた。


「ああ、鶫子、俺にできることが何もなかった。不幸というものは自分の知らないところで生まれて、成長して、幸せを刈り取りに来るんだ。それを知ってしまって、怖いんだ、寂しいんだ」

「量一、大丈夫よ、大丈夫、私はまだここに居て、一緒にいられるわ」

「鶫子。冬は冷たくて寒いよ」


 鶫子は愚直で思い付きで行動する女だったから、量一の言葉に「それなら」と言って、自分の魂をほどき始めた。それは細い糸になって、絡まって、やがて一本の長いマフラーとなった。それがふわりと空から落ちてきて量一の首に巻かれた。量一は突然現れたマフラーに驚いたが、とても温かくて、口元が隠れるほど深く顔を沈めた。そして目を閉じて人のぬくもりに包まれたような安堵に一息吐くと、それがマフラーを仄かに湿らせた。


 鶫子は魂を解体してマフラーになったので、意識や同一性を失ってしまった。それはただのマフラーであり、もはや女の魂でもなんでもなかった。量一に寄り添うように巻かれたこのマフラーは、果たして鶫子と呼ぶことができるのだろうか。雪が振り始めていた。小さな雪の粒が暗い地面に溶けて消えた。


【完】

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お題:三人

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