葉桜の君に 拾四

 私は走り出していました。満開の桜並木の下、下校中の生徒達を縫うように。

 胸が苦しい。運動とは無縁の体が、悲鳴を上げています。それでも私は走ることを辞めませんでした。脳裏には、彼女との日々が、まるで走馬灯のように浮かんできます。彼女が味わい続けている苦痛を思えば、今立ち止まる訳にはいかなかったのです。のどがひゅうひゅうと鳴り、酸欠に視界が霞みはじめたころ、ようやく、その姿を見つけました。

「春川さん!」

 私達が出会った場所。老桜を中央にそびえる公園。春風に揺れるそれを、透明な眼差しで見上げる、彼女を。

「いえ、春川桜子さん」

 彼女はゆっくりと振り返り、私を見つめました。その瞳には、たしかに色がありました。それは僅かなことでしたが、最早私がそれを見逃すことはありませんでした。

「なんでしょうか」

 ですから、次の瞬間には無色になっていた双眸にも、私は気後れすることは無かったのです。そうやって存在を希薄にし、姿をくらまそうとしても、私はそれでも、その向こう側にいる彼女自身に伝えなくてはならなかったのです。

「あの時の問に、お答えします」

 私の言葉に、彼女の瞳が揺れていました。

「ここで、ですか」

「今ここで、です」

 今を逃してはいけない。私の本能がそう告げていました。今なら、私は彼女に伝えることができる。その気迫が伝わったのでしょう、数分にも及ぶ逡巡ののち、彼女は胸に手をあて、すうと深呼吸をしました。

「お伺いします」

 彼女の双眸が私を射貫きます。真贋を見定めるが如く、一瞬たりとも目を逸らさない。そういう気迫が、感じられたのです。私はそれを見つめ返しながら、呼吸を正して、そして、言いました。

「私は教師です。教師は生徒の身を案じ、正しき道に進ませるのが仕事です。君ほど優秀な生徒が大学に進学しないというのは、教師なら誰しもが反対することです。まして、小説家の世界など茨の道。仮にデビューしたとしても、その後も食っていける確証なんてありません。それは今の私を見ていればわかるでしょう。賢明な選択だとは、口が避けても言えません」

 私が小説家でいられなくなった理由。それは、失恋というにはあまりにもいくじのない出来事でした。私は、自身の執筆の動機の正体を、まるでわかっていなかったのです。私がそれに気づいたのは、恋人も、動機も、作家としての名声も、全てを失った後でした。そんな些細なことで、小説は書けなくなる。それを茨の道と呼ばずして、何というのでしょうか。

「小説家を引退した教師としての私からの答え。先日もお伝えした通り、それは変わりません」

 その苦しみを知っていながら、送り出すことなんて、できない。そう考えるのが、人として当たり前のことなのだと、自分に言い聞かせていたのです。そうあることが、人として未熟な自分が目指すべき教育者としての像だ、と。その妄信的な考えが、私から真に大切な物を見えなくしていたのです。

「でも気づいたのです。これだけでは、不十分なのだと。私は君の質問に、

 それは、私が忘れてはいけなかった、私が私であることを決定づける、根源だったもの。

「ですから、今、答えます。

 あの日、伝えられなかったこと。いくじのなかった、ありのままの僕の気持ちを。

「君に、小説家になって貰いたい。僕は、春川桜子の作品が読みたいんです。そして、見たいのです、あの物語の続きを。僕はそれを、誰よりも最初に手にしたい。それは君のためじゃない。僕の、わがままです」

 私がかつて、小説家であった理由。それは、私の作品を心待ちにしている人に、読んでもらうためでした。その人がいたから、その人の事を想いながら、筆を走らせる毎日でした。私は小説家を目指していた訳では無かったのです。私はただ、彼女のためだけに、小説を書く人という人生を歩んでいたのです。それが私にとっての幸せだったのです。

 いつしかその人の勧めもあって、気がつけば小説家になっていました。多くの人達が自分の作品で一喜一憂するというのは、とても嬉しいもので、作家冥利に尽きるとは良く言ったものだと、そう感じました。しかし私は、それだけでは充実感が得られなかったのです。贅沢だとか傲慢だとか、自分に言い聞かせはしたものの、それで私の心が満たされることはありませんでした。

 私はその原因を見つけることができませんでした。小説家という自身の器を超えた重圧に、私は盲目になっていたのです。その肩書に、すがるしかなかったのです。

 だからあの人が日本を離れる時、私は言えなかった。あの人はずっと、私にそう言ってくれていたのに。あの人の想いに、答えることができなかった。

 ――どうせ、追いかけてくる勇気なんて、ないのでしょう――

 ――いくじなし―― 

 本当は、他の誰じゃなく、その人でなければ、駄目だったのに。


 だから私は、言わなくてはならないのです。私がかつて、あの人から貰った言葉を。

 もし君にとってのその人が、僕であるならば。

 君の原動力に、僕はなります。

「君が使える全ての時間を、君の人生全てがかけられた作品を、僕に読ませて下さい」

 小説家、春川桜子が、そうであり続けるために。


 かつての恋人が私の元を去ってから、私が小説を書けなくなるまでに、そうは時間はかかりませんでした。私が盲目だったから、私が未熟だったから、私が小説家であるために必要だった一番大切なものを、失ってしまったのですから。

 春川桜子が小説を書けなくなるということは、もう一方の彼女が失われるということと同義です。自ら選択することもできず、誰からも認められることもなく、世の誰がそれを知ることもなく、もう一人の彼女が死んでいくということ。

 物語の決定権は、最初から彼女自身には無かった。

 なぜなら、もうひとりの彼女を観測し、この世に誕生させたのは、他ならぬ、私だったのですから。

 

「葉太さんなら、そう言ってくれると思っていました」

 私の目の前には、彼女がいました。ああ。なんて美しいのだろう。今彼女は、こんなにも色づいている。こんなにも、輝いている。私は今まで、いったい彼女の何を見ていたのでしょうか。

「なら、私はあなたのために、小説を書きます。必ず、小説家の春川桜子として、あなたの前に戻ってきます。恥はかかせません。約束します」

 いえ、最初から見てなどいなかったのかも知れません。無色透明なその存在の向こう側に、ずっと君は隠れていたのですから。

「僕は、教師失格ですね」

「そうかも知れませんね。でも――」


 ですから私は、こう表現するしか他にないのです。


「男性としては、合格です」


 こうして私は、再び彼女と、出逢ったのです。

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