葉桜の君に

「はい、どうも、たしかに受け取りました」

 白い立て付けで仕切られた商談室。目前の男は、たった今まで広げられていた原稿を素早くまとめ、茶封筒に押し込むと、トントンと鳴らすのと同時に口を開いた。

「いやぁ。全く驚きましたよ。あの先生に、こんな過去があったなんて」

「内容は大丈夫そうですか」

「ええ、そりゃあもう。ああ、もちろん一通りの流れは踏みますけどね。なんたって、今回はベールに包まれた美人作家、桜川春子の謎に迫るエッセイ本ですからね。ストーリーはリアルな程、ファンには喜ばれます。こういう手合ってのは、ディティールが大切ですから」

 熱く語る男の様子から、自信の程が伺えた。社内調整も上手くいっているのであろう。

「それは良かった」

「これは間違いなく話題になりますよ」

 男は大手を振りかぶって拳を握る。

「『偽装教師』で奇跡の復活を遂げた秋田川葉光、沈黙を貫いていた教員時代。その教え子が、桜川春子である――。これだけでも驚きだって言うのに、大衆はその衝撃的な事実を、このエッセイ寄稿で、それもこんなドラマを通じて知るっていうんですから。いやあ、目に見えるようだ。これを読んだ乙女たちが、悶え黄色い声をあげる瞬間が」

 まるで舞台俳優のような抑揚に、思わず私の表情も緩んだ。

「桜川先生も喜ばれるんじゃないですかね。恩師からの寄稿なんて」

「さぁ、どうでしょうね。気難しい性格ですから。むしろ、なんてことを書いてくれたんだと、あとでクレームが来るんじゃないかと心配です」

「はっは、そこは心配無用です。桜川先生を担当しているのは、俺の学生時代の後輩ですから。そこらへんは有無を言わせませんよ」

「お手柔らかに」

「じゃあ、今日はこれで。あ、新作も楽しみにしてますよ。まぁ急いでくれとは俺の口からは言いづらいんですがね、今が旬、ってのは、秋田川先生も同じですから。ああー、それともう一つ」



 ビルを出れば、途端に都会の喧騒が押し寄せてくる。季節感と言えば気温で感じるくらいで、風情もあったものじゃない。数年経っても慣れるものではない。道行く人をかき分けて、私は約束の場所へと向かう。

 それはこの都会にあって、唯一のオアシスとでも言うべきか。意図的に作られた公園だが、それは美しい造形であって、園内を歩いている限りでは、ここが都会だという事を忘れさせる。その中でも、この池に囲まれたほとりにある老桜は素晴らしく、その規模、造形共に筆舌にし難い。このところの日和によって花弁がいくらか散ってはいるが、新芽の緑が目に眩しく、湖面に映り込むその姿に、浮かぶ花弁が添えられていて、見上げても、俯瞰でみても、大変に見事であるのだった。

「おまたせしました」

 その桜の下、白梅の帽子を被った令嬢に声を掛ける。女性はゆっくりと微笑み、私の腕を取った。

「お話はもういいの?」

「ええ。あの男、おしゃべりなのが玉に瑕ですが、それでもその速読の正確さは目を見張るものがあります。優秀な編集ですよ、彼は」

「またそうやって、上から物を言って。いくら歳上だからと言っても、相手は編集者。作家とは一心同体の戦友よ」

「いけませんね。教師時代のクセが抜けない」

 まるで子供を叱りつけるような目に、笑って誤魔化す。

「この桜を見ていると、思い出しますね」

 視線の泳いだ先は、やはり目前の見事な桜。天空の青と、花弁の白。そして新緑に、しべの真紅。日本の風情を詰め込んだ色彩に、息を呑む。

「綺麗な葉桜」

 その言葉が、彼女から発せされることに、なんとも言えない安堵を覚える。――時間が経ったのだ。

「もう五年になりますか。早いものです」

「何を年寄りみたいに」

「実際、僕は君より歳を取っていますから。労ってもらいたいものです」

「十分尽くしていると思うけど。何しろ私は、あの約束をずっと守り続けているんだから。お釣りがきてもいいくらいよ」

 彼女は今もその約束を守り続けている。世間を賑わす存在になろうとも、それはこれからも変わらないのだと言う。

「おつりと言えば、あの寄稿ですが。本当に良いんですか。あの内容で」

 あの物語の最後には、次のように綴ってあった。


 ――こうして彼女は学園を去った。それが私が見た、春川桜子の最後の姿だった。

 その後彼女がどうなったのかは、諸君らが確かめて頂きたい。――秋田川葉光


「ええ。だって、あれが私達の事実だもの。だれがなんと言おうと、それは変えられない。変えさせない。大切な、歴史よ」

 力強い言葉に、魂が震える。

「そう、ですね」

 今の私を構成する言葉達は、こうして彼女から贈られたものだ。お陰で私はあの日々を、あの日の自分を肯定することができている。自身の思いを言葉にすることの大切さを、彼女から学んだのだ。

 そして私達は今、共に歩んでいる。


「そういえば、あの作品の名前は」

「ああ、同じ事をさっき、帰り際に編集者に言われましたよ。もちろん、ちゃんと伝えておきました。世に出回るころには、タイトルが振られているはずです」

 私が提出した原稿用紙には、それを記していなかった。なぜなら、私にはその必要がなかったからであった。

「それで、何にしたの?」


 あの日の君が聞いたら、どんな風に思うだろうか。

 それでも、私の答えは、変えられないのだ。


「そんなの、決まってるじゃないですか」


 なにせ、僕が君に贈る物語なのだから。




             ――了

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