葉桜の君に 拾
こうして、彼女と私の奇妙な指導関係が生まれました。それは、小説家と編集担当のような関係でした。彼女が書き上げた小説を、私が指摘する。それを差し戻せば、再び彼女は執筆する。
私は彼女を指導する条件として、この関係を漏らさない事をあげました。女子生徒と男性教師がこそこそとやり取りをしているのは、どうしても良い印象にはなりません。すぐに噂になってしまいます。それは私にしても彼女にしても望まないことでしたから、彼女は二つ返事で承諾してくれました。
小説の受け渡しは、大胆にも職員室で行われました。彼女は日誌を職員室に運ぶ傍ら、それを隙間に忍ばせてきました。言葉は最低限しか交わしません。しかしその中で、彼女の表情や仕草によって、それがそこにあるのか、そうではないのかは容易に判別できたのです。そういう時私は、他の誰にも見られないように、そっと鞄の中に忍ばせました。そうして持ち帰った小説は、その日のうちに目を通すようにしていました。
私から返却する時は、下駄箱にそれを忍ばせました。他の生徒たちが授業をうけている最中、私の担当授業がない時間帯に、そっと玄関まで出向き、それを丁寧に押し込んでいく。まるで、想い人の下駄箱に恋文を忍ばせるようなもので、その度私は、学生時代の淡い記憶が蘇ったものでした。
そして数日後には再び、日誌にそれが挟まれているのです。その速筆ぶりには舌を巻くほどで、いったい彼女はいつ勉強していつ執筆しているのか、疑問に思ったこともあります。しかし不思議なことに、学年一位の成績が揺らぐことはありませんでした。彼女は変わらず、優等生で居続けたのです。
そんな関係は、彼女が二年に進学し、私の担当クラスから外れた後も、変わらず続いていました。
彼女は飲み込みが早く、どんどん成長して行きました。物語には深みが出て、登場人物の描写はより立体的に、実在する人物かのような現実感を持っていました。それでいて、取り上げる題材は普遍的で、一見して、どこにでもあるかのようなものを、どこまでも深く掘り下げていくことを好みました。彼女が描く物語の主人公の内面は、暗闇の中を覗き込むような底知れないものがあり、その人物が見る世界には、吸い込まれるような魅力があるのです。私は次第に、彼女の小説を拝読することが、楽しみになっていきました。次はどんな展開が、どんな視点で描かれるのか。その感性が彩る世界を、見てみたい。そんなことを考えるようになったのです。
休日には、あの公園で待ち合わせをし、作品について議論するようなこともありました。移りゆく桜の樹の下、私は良く彼女に質問をしました。「なぜこの人物はそのように考えるのか」。彼女はそれを懇切丁寧に説明してくれました。ときには自身の経験と照らし合わせ、包み隠さず語るのです。最初は深淵を覗くような恐怖心があったのですが、繰り返す内、次第に彼女の心の内を理解できるようになっていました。
春川桜子は、世界に絶望している。
学校生活。友人関係。親との確執、そして、自身の将来。当たり前にある日常に彼女は常に絶望していました。そこにあるものでは彼女の心を満たすことはできない。彼女が世界に合わないのではない。世界が、彼女に置き去りにされているのです。そうして内へ内へと掘り進められた彼女の精神は、やがて表に出てくることが無くなった。感情を失った、無色透明の存在。その内側で、独り、早熟さと未熟さの乖離に苦しみながら。こうして私の隣ではにかむ彼女は、こうも色づいているというのに。
私はある日、聞きました。「なぜあなたは小説家になりたいのか」と。
すると彼女は、遠くを見て、言いました。
「私と同じような想いをしている人がいるかもしれない。その人達に伝えたいんです。私はここだ、って。そして、ひとりじゃないんだって、実感したいんです。私が浮世に生まれた、理由を。私が生きていくために必要な、理由を」
秋の満月の下、月明りに照らされた彼女は白く、まるでこの世のものでないような、そんな風に思ったのです。
彼女は小説に心の拠り所を求めていた。私はその内面に、小説という媒体を通して、触れていたのです。
だから、気が付かない訳はありませんでした。彼女の心が、軋んでいることに。
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