葉桜の君に 伍
狐に睨まれる、とはまさにこういうことを言うのでしょう。私はその言葉の意味を理解するのに随分と時間を要していたことが、彼女の表情から読み取れました。ついぞその真意が測れず、思わず聞いてしまいました。
「なんのために」
「さぁ、なんのためでしょう」
しかし答えは返ってきません。そもそも、忍びこむ、というのが、いまいち納得ができないのです。
連休とは言え、一部の部活動は活動を続けていますし、連休だからと言って生徒が校内に入ってはいけないということはありません。忍ぶ以前に、門は開かれているのです。彼女はただ堂々と、その門をくぐるだけで良いのです。
そこへきて、彼女は私服なのです。私ですら、彼女が本校の生徒であるとすぐには認識できなかった訳ですから、まして門番である警備員など、わかろうはずがありません。彼らの職務は不審者の発見と危険回避であって、興味がある所といえば、せいぜい好みの女学生を探すことでしょうし、彼女が偶然にもその対象であったとしても、やはり私の例と同じように、容易なことではないでしょう。そんなところへ、私服姿のうら若き女が近づけば、呼び止めないわけにはいかないでしょう。そこで彼女は生徒手帳の提示を求められ、場合によっては追い返されるかも知れません。喫茶店へ誘われないだけましです。彼女の目的が校内に入ることならば、私服であることによって、それを困難にしているのです。果たしてそんなドジを彼女が許すでしょうか。私にはそうは思えません。まったくもって、真意が読めないのです。
後になってみれば、彼女の人となりを知ってさえいれば、たどり着けたのかもしれませんが、少なくとも今の私には、数多ある彼女の目的を特定することは、森の中から木を探すような、そんな途方も無い作業のように思えたのです。
「そんなに難しいことではありませんよ」
顎をさすりながら考察する私に、彼女は我が子を諭す若妻のように、しかし悪戯心が見え隠れする少年のような、絶妙な表情で言いました。
「年頃の女学生が、ごく一般的に考えるようなことです」
「私服姿で校舎に忍び込むことが、ですか」
それが一般的であるとは、私の人生観において、到底思えないことですが、しかし彼女はうんうんと頷いてみせるだけです。しかし、考えてみれば、これはチャンスでした。
「どうやら、教えては頂けないようですね」
真面目に答える気がないのであれば、話はそこでおしまいです。彼女の場合、とんでもない悪事を働くとは思えませんし、格好がなんであれ、向かう先が学校なのであれば、心配する必要も、過剰な指導も必要ありません。教師という職責をもってその理由を問いただす必要はないのです。私は彼女の元から離れる良いきっかけを得たと、その重い腰を持ち上げようとしました。すると彼女は手を伸ばして、私の胸をそっと押し、それを阻止したのです。見上げれば、半眼した彼女の笑顔が、木漏れ日に揺れていました。
私はこの時、認めざるを得ない現実と対峙しました。
入学式の日、私が彼女を強く認識した、もう一つの理由。錯覚、思い違い。できれば無かったことであって欲しかった胸のざわつきが、今、しかと思い出せと言わんばかりにこみ上げてくるのです。
――どうせ、追いかけてくる勇気なんて、ないのでしょう――
その表情は、あの日私に別れを告げた、昔の恋人に、そっくりだったのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます