葉桜の君に 四

 五月の連休中の事です。初夏の日差しが一層強いこの日、私は学校付近の公園にいました。それは正門から続く桜並木を抜けた先、駅前へと向かう街道と交わる所にありました。比較的小さく、遊具がある訳でも便利な訳でもないこの場所で、私はポツリと置かれた木製ベンチに深く腰掛け、天を仰いでいました。何をしているのかと聞かれれば、何もしていないと答えざるをえません。本当は、連休明けの課題づくりのために学校を訪れたのですが、どういう訳かやる気が起こらず、気がつけば数時間も無駄にしていた自分に呆れ果て、帰路に着こうと道を行ったけれども、その端切れの悪さに意気消沈し、すぐに電車に乗る気力もなく、なんとなしに、この場所に立ち寄ったのでした。下校途中の生徒達で賑わうのが日常ですが、今日に限っては、私一人です。連休中の快晴であれば、こんな退屈な場所にわざわざ訪れる者などいないのです。

 しかし私はこの場所が嫌いではありませんでした。確かに何の変哲もない公園ですが、見どころがない訳ではありません。このベンチの前にそびえ立つ、一際大きな桜の木。桜並木のそれとは比べものにならない樹齢であると思われるそれが、公園の中央にただひとつ、植えられているのです。むしろこの公園の面積は、この桜の巨大な根がゆく場を確保するためにあるかのような、そんな気さえするのです。葉桜の頃を通り過ぎ、若々しい緑が晴天との見事なコントラストを作る様は、なかなかに気持ちの良いものでした。

 どうせ時間を無駄にするならば、あの空調の効いていない古びた教員室にいるよりも、ずっと良い。そう開き直って、陽光に目を閉じ、うたた寝でも決め込もうと思っていた時です。

 顔に注がれた夏の日差しが、急に何かに遮られたように、瞼の向こう側が暗くなったのです。何事かと瞳を開けば、女性が一人、私の顔を覗き込んでいました。

「こんなところで寝ていると、風邪をひきますよ」

 しかし、その顔ははっきりとは見えません。あまりにも近すぎるということと、ちょうどその頭が影になって、陽光をその背にした私の視界では、それを認識することができなかったのです。それはわずかな時間でしたが、そうして私が自身の置かれた状況の整理に脳を使っていると、女性は察したのか、すうっと距離を取り、私の前に立ちました。彼女はまるで「私を見て」と言わんばかりに、帽子のつばに指先を触れ、少し足を交差して、その仕立ての良いワンピースを風になびかせましたが、しかし私はその女性に心当たりがありません。思わず眉間に皺を寄せて凝視する私を見て、彼女は満足げにほほえみ、そして言ったのです。

「居眠りとは、感心しませんね。――秋田先生」

 そこでようやく私の認知機能が役割を果たしました。

「春川、桜子さん」

 彼女は学校では見せたことのない満点の笑顔で、はいと返事をしました。そして、思わず口元を覆う私を覗き込むようにして、無理やりにその視界に入って、そしてあざけるように言いました。

「先生、大変残念です。この連休の間に、もう生徒の顔を忘れてしまったのですか。それとも、数多くの生徒を輩出した先生にとっては、入学から一ヶ月という期間は、顔を覚えるにはあまりにも短かったのでしょうか」

 私は驚きのあまりに思わず見開きそうになったのをなんとかこらえて、眉間に皺を寄せて体裁を保ちました。彼女の言葉は、普段のそれとはあまりにもかけ離れていて、まったく無遠慮で、印象的だったのです。この時私の中に浮かんだ言葉は、ついに本性を表したな、でした。

「そんなことは。ただ、制服を着ていなかったので」

「では先生は、生徒を制服で判別しているというのですか。私からすれば、そちらのほうが個々の区別がつかずに難儀な気がするのですが」

 勘弁してくれ。そういう顔を私がすると、彼女はいよいよ満足した様子で、私の隣へすとんと腰かけました。座り際、臀部になぞるように裾を正すその仕草は、今日の出で立ちもあって、どこかの令嬢のような佇まいではありましたが、しかしそんな女性が無遠慮に男の隣へ、それも肩が触れるほどの距離に座っているということが、なんとも落ち着きません。その瞬間、私にあの言葉がよぎったのです。

 ――彼女は、我々を試している。

 ここで舐められてはいけない。そう考えた私は、深呼吸をして、突き放すように言いました。

「大人をからかうものではありませんよ」

 それが私の精一杯の反撃でしたが、しかし彼女はどこ吹く風といった感じで、その生意気な流し目を送ってきました。

「あら、男性をからかうのは、女性の特権ではないですか」

「そういうことを言っているのではありません」

「ではどういうことをおっしゃっているのでしょう」

 二の次が出てこない私を見るや、勝利を確信したのか、今度は子供のような笑顔を向けてくる。それは、私が知る春川桜子という生徒とは、まるで違っていたのでした。人を喰ったような才女であり、童心の少女でもある。その両極端な二面性に、私は彼女を理解しようとするのを諦めることにしました。そうしなければ、混乱とストレスのあまりに叫びだし、しまいには逃げ出してしまいそうだったからです。私はこの場をなんとか無傷でやり過ごすために、他愛の無い会話を続けるという選択をしたのでした。

「それで、あなたは、ここで何を?」

「先生に、逢いに」

「冗談はほどほどにして下さい」

「ふふ。怒られてしまいました」

 彼女はそう言うと立ち上がり、手を後ろで組んだまま、くるっとこちらに向き直りました。

「それでは、お答えします」


 そうして彼女の告げられた言葉に、私の心はまたしても揺さぶられたのです。


「学校に忍び込むため、です」

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