葉桜の君に 六

「まぁ、そうおっしゃらずに。たまには、こうして雑談するのも良いではありませんか。ただでさえ、先生は口数が少ないのですから。もっと私達に興味を持ってくださらないと」

「教師に嘘をつくような生徒と、何を話せと」

「まぁ」

 思わず出てしまった悪態に、彼女はわざとらしく口に手をあて、眼を丸くしました。

「でも、私は嘘は言っていませんよ。先生に逢いに来たことも、忍び込もうとしたことも。まぁ、どちらも正確とは言えませんし、先程、後者についてはその必要もなくなったのですけれど」

 しかし、そうして発せられる言葉の数々は、昔の恋人のそれとは、あまりにも異なっていました。それが救いとなり、春川桜子に重ねていた幻想が、すうっと消えていくのを、私はたしかに感じたのです。目前にいるのは、この春高校生になったばかりの、春川桜子。私はこの短時間に、いったい何人の人格と対峙したのでしょうか。

「まったく、わかりませんよ。私は、春川さんは、もっと人にわかりやすく説明できる人だと思っていましたが」

 辟易の果てに思わず突き放すと、彼女は仕方がないと言った様子で深く溜息をつき、どこからともなく、それを取り出しました。

「先生に、手紙を」

 そう言って差し出された細い指先には、白い封筒がのせてありました。

「これを、私に?」

 彼女は柔らかい笑顔でうなずきました。

「先生の机へ忍ばせること。それが目的でした」

 封筒には、端正な字で、私の宛名と、彼女の名前が書かれておりました。封は蝋で閉じられ、その質感から、かなりの品物であることが伺えました。人をからかうために用意したにしては、あまりにも出来すぎています。その体裁からは、手紙を書く側の気持ちが、しっかりと込められているということが、ありありと伝わってくるのです。

「お会いできたことですし、直接お伝えすれば良いのでしょうが。せっかくしたためたものですから。どうか、家に帰ったら読んで下さい」

 それは確かな厚みがありました。中には数枚、いや、十数枚に及ぶ便箋が入っていることは想像に難しくありません。一両日中にどうにかなるような量でないことは、明白でした。その重みを想像した私は思わず喉を鳴らしました。

「ちなみに、恋文ではありませんよ。思春期らしい内容、といえば、そうかもしれませんが」

 彼女は愚かな私の思考を一蹴すると、礼儀正しくお辞儀をして、

「では先生、お返事をお待ちしています」

 そう言い残し、街道の向こうへ、立ち去っていきました。呆けた私は、しばらくその場から動くことができませんでした。


 その晩、書斎の机に座った私は、しばらくその封筒を眺めた後、ようやく開封することにしました。中から出てきたのは、折りたたまれた、数枚の原稿用紙。

「これは」

 そこには、半ば書き殴られたような文字が、ずらっと並んでいました。私にはそれが「小説」であるということが直感的に理解できました。そうしていると、中から一枚、便箋のようなものがふわっと床に落ちていきました。拾い上げると、今度はとても端正で可愛らしい字で、こう書いてありました。


「敬愛する秋田葉太先生へ

 私が書いた小説です。現代文の先生として、添削して頂けないでしょうか。よろしくお願いします。 ――桜子」


 私はそれを読み終えた時、思い出したのです。あの入学式での、彼女の口上を。私は原稿用紙を丁寧に広げ、深呼吸し、そして、それを読むことにしたのです。

 作品名の欄には、次のように書いてありました。


『葉桜の私』

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