葉桜の君に 拾壱

 吐く息も白く濁る、年の瀬。まもなく冬期休暇を迎えようという頃、私はふみで呼び出されました。薄墨うすずみの曇天の下、彼女はあのベンチに座って私を待っていました。

「お待たせしました」

 いつものように彼女の横に腰掛けましたが、しかし彼女は何も言いません。寒そうに握り合わせたその手を見つめて、ただただ、俯いているのです。

「場所を、変えますか」

 話は長くなりそうだと思いました。この寒空の下、長時間居座ることは敵いません。私が風邪をひくくらいなら構わないのですが、生徒に風邪をひかせてしまうとなれば、教師失格です。近くの喫茶店なら、珈琲で体を温めながら、ゆっくり話ができると考えたのです。本来であれば、生徒と教師が休日に私服姿で喫茶店に共にいるなど、ご法度中のご法度です。世間から見れば、不純にしか映らないでしょう。しかし幸いにも、今日は日曜日。学校関係者の誰かに見られるということは、そうはないでしょう。私がそう考え、立ち上がった頃に、彼女はようやく口を開きました。

「いえ、ここでいいです。お時間は取らせませんので」

 振り返れば、かじかんだ彼女の手が、私のコートの裾を掴んでいました。その表情を伺い知ることはできませんが、少なくとも、明るい話ではないことはわかりました。私は再び彼女のそばに腰掛け、言いました。

「言いにくいことをわざわざ言う必要はないのですよ」

「学校を辞めようと思っています」

 それはまるで、何かに弾かれるように、突然に彼女の口から放たれました。私の言葉がきっかけで、一所懸命にき止めていたものが、放出されてしまったような、そんな勢いで、そして悲鳴のように、その場に響き渡ったのです。

「今、なんと」

 それは私の耳にしっかりと届いていました。残響を辿っても、その言葉に間違いはない。だけど私はそう尋ねるしかありませんでした。

「退学しようかと思っている、と言ったのです」

 嘘であってほしかった、というには、あまりにも軽率な感情であることは、私には自覚がありました。なぜなら私は今日まで、彼女の心に、小説を通じて触れてきている。彼女の内面とその外側との隔たりは、もはや致命的とも言えるほどであったことを、それに気づかないほど、私は鈍感ではありませんでした。

「それは、なぜ」

 その言葉に意味はありません。彼女に語らせるためだけに用いた、きっかけでしかありません。それに促されるように、震える深呼吸の後、彼女は言いました。

「先生。私は小説家になりたい。ずっと小説を書いていたいのです。私は一分でも一秒でも長く、小説に触れていたいのです。勉強なら、自分ひとりでもできます。この救われない学校生活に、もう一秒たりとも時間を使いたくないのです」

 その告白は、ある意味で、私の予想通りでした。

 予想通り。彼女の言葉が、私の想定の範囲を超えないこと。

 それは酷く私を落胆させるものでした。憤りすら、感じさせました。

「……それは少し極論ではありませんか」

「いいえ、先生。私にとって、小説は人生の全てです。そして、この時間も」

 出会った頃の彼女は、あらゆる意味で私の想像を裏切り、大いに心を乱してくれました。居心地の悪さを感じたそれは、いつしか麻薬的な快楽となって、私に染み渡って行きました。彼女の可能性が、それが未知数であればあるほど、私の中で春川桜子という存在が大きくなっていく。理解したい。私がただの教師の枠を超えてこうしているのも、そういう動機があったことは否定できません。

 しかし今、彼女の言葉がわかるのです。想定の範囲の中で、最も悲しい結果でした。

「私は、先生とこうして小説の話をしている時間が、好き。だって、とても楽しいですし、他の誰といる時よりも、落ち着くんです。本当はもっと、一緒に居たいんです」

 理解すること。それは、全てを想定の範囲内に収めることができるということ。彼女が私の想像を超えることは、ないということ。そう思うと、春川桜子という偶像が、和紙が水に融解するかの如くその輪郭を曖昧にしていき、すくい上げようと手を伸ばせば、そこには女子学生という成分が残っているだけのような、そんな感覚に陥ったのです。春川桜子は紛れもなく女子高生であり、どこにでもいるような少女であったのです。

 それは急激に私を冷めさせました。今まで心の奥で温かい何かが、私を突き動かす何かがたしかにそこにあったはずなのに、体中の血の巡りに耳を澄ませても、最早見つけることは叶いませんでした。この一瞬の間に、一年分以上の大切なものが、跡形もなくなくなってしまったような、そんな、形容しがたい寂しさに、自分自身が恐ろしくもなりました。私は、興が醒める瞬間というものを、今まさに実感していたのです。

「それならば、学校にくれば毎日でも」

「そうじゃないんです。わかりませんか、私が先生と一緒にいたい、という意味が。私の小説を読んでいる先生なら、わからないはずはないんです」

 ですから、私はこの言葉の意味も、正確に理解していました。それは、孤独から救われたい心が無意識のうちに生んだ、一つの結果に過ぎないと。愛と恋の違いも分からぬ幼さが、憧れと依存も区別できない未熟さが、思春期の混沌の中に錯覚させる、それであると。私はそれを、愛情とは、到底受け入れられないのでした。

「……君はまだ子供だ」

 それは決定的な言葉でした。私と彼女の生きる世界を分かつのに、これほど端的で無慈悲で正確な言葉は他にないでしょう。私は今、それを意識的に使ったのです。その言葉がどれほどに彼女を傷つけるかを、わかっていながら。それは、暴力と言っても差し支えのないものだったかもしれません。

「小説家になるにも、教養は必要です。君はまだ若い。これから多くのことを、在学中にも、そして進学先でも、もっと言えば社会にでてからでも学ばなくてはなりません。そうして得たものは、必ず小説にも生きてきます。無駄ではありません」

 私は意図的に、教育者としての言葉を述べました。まるで用意された台詞を読み上げるように、それは自分でも驚くほど淀みなく出てきました。

「それに、小説なら、空いた時間にでも書けばよいではありませんか。今だって、君は勉学と両立できているではありませんか。小説を書きたいなら、いくらでも書けば良い。君の人生には、その時間がまだ十分にあるはずです」

 私がそれを告げると、彼女は俯き、二人の間にはただ時間だけが流れました。

 私は天を仰ぎ、時折雲の間から見える月を眺めていました。流れの早い雲は、少しずつその密度が減っていきます。今夜は冷える。この場に長く留まることはできない。この関係に残された時間は、もう、ない。楽しくなかったわけじゃない。私の教師人生の中でも、この数ヶ月は今なお色鮮やかであり、それはきっとこの先も変わらないでしょう。ですが、あの雲がその場に留まっていることはできないように、私達もずっと同じでは居られないのです。物語には、始まりがあれば、終わりがある。私は教師。そして、彼女は学生。今、葉桜にかけられた夢は、終わったのです。


 しかし突如として、その空気が変わった――。

 そんな感覚に襲われ、ふと横の彼女を見れば、激情を顕にした双眸がありました。

「では、そういう生き方をして、小説家になれますか」

 紅く、燃えるような、そんな瞳が私を睨みつけていたのです。

「そんな生き方をしていたから、秋田川葉光ようこうはいなくなってしまったのではないですか」

 それは確かに、『私』に向けられた、言葉でした。

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