葉桜の君に 拾弐
「先生はなぜ、新作を出さないのですか。なぜ、こうして国語教師などされているんですか。先生には、いったい、何があったのですか」
秋田川葉光。それはかつての私の作家名でした。なぜ彼女がそれを知っているのか。いえ、この際、そんなことはどうでも良いのです。勘の良い彼女です、思うところがあれば、自分で答えを導き出すことはできたでしょう。教師達の中には私の経歴を把握している者もいるでしょうから、調査、というにはあまりにも容易な方法でそれを知ることができたはずです。ですが、そこから真実に辿り着くことはできないのです。
「君には関係がないことです」
「はぐらかさないで下さい。関係なら十分にある。私は他の誰よりも先生をよく知っています。一番の生徒であるという自負があります。なんなら、生徒と教師という枠を取り払ってでも、先生を理解したいって――」
その言葉の続きは、私の手のひらによって静止されました。君は、それ以上を言ってはいけない。だから私は、この話題を持ち出すしか他になかったのです。
「君は、そういう所まで、よく似ている」
「誰に、ですか」
「私の、かつての恋人です」
その言葉に、彼女の瞳孔が開いていきました。それは闇夜の湖のように深く、その湖面に、途切れた月が揺れていました。
「改めてお伺いします。秋田川葉光がなぜ新作を発表しないのか。理由を聞きたいですか」
「……聞きたくありません」
私の問に、彼女は唇を噛み締め、そして俯きました。
「君は賢いですね。そしてやはり、私と同じ側の人間です」
私は誰に言うでもなく、目前の桜を見つめながら、言いました。
「人は何かに依存しないと生きていけません。夢とか、目標とか、愛とか、友情とか、仕事とか。人によってその対象は様々ですが、なんにしろ、胸の内を満たすものが必要なのです。それが無くなった時、人は彷徨い始めます。今の君にとっては、小説がそうなのでしょう。かつての私が、そうだったように」
見上げれば、雲の途切れは真円を描き、その中央で満月が光り輝いていました。月光が私達二人に降り注いでいます。
「小説家は、身を削る仕事です。己と向き合い、そして読者と向き合うことでもある。世間の求めるものに耳を傾け、作品を生み出し続けなければなりません。例え身内に不幸があろうが天地がひっくり返ろうが、自身が傷つこうがボロボロになろうが、知れたことです。書くことを辞めることはできない。そしてその作品は常に周囲の期待を超越していなければならない。そういう文章を量産し続けること。それが小説家です。小説を書く人と、小説家との、決定的な差なのです。それは過酷で、そして、孤独だ」
そして私は、彼女の肩に手を乗せ、その言葉を告げたのでした。
「小説家になっても、私といても、あなたの孤独はなくならない」
孤独。それは、かつて私を蝕んでいた病。秋田川葉光が筆を持てなくなった理由。私は、それに打ち勝つことがとうとうできなかったのでした。
「学校にいれば、仲間がいる。少なくとも君は一人にならない。困ったら、誰かを頼れば良いんです。君の成績なら、一流大学だって難しくないでしょう。推薦状は私が書きます。そして学業が落ち着いた頃に、また執筆すればいいんです。そうしていれば、いずれは」
孤独とは、自身の精神が生み出すまやかしでしかありません。人は独りでは生きていけない。見渡せば、必ず誰かがそこにいる。そして彼らは敵ではないのです。己の内側の世界で膨張させた自意識が、勝手に恐怖を抱き、拒絶しているに過ぎないのです。私がもっと早くその事に気がついていれば――
「――一人前の『小説を書く人』になっている、とでも言いたいのですか。今の先生のように」
その瞬間、私の心臓が波打ちました。その強い拍動によって、鼓膜まで到達した血圧が、一瞬のうちに聴覚を奪っていきました。そうして、血の気が引いていくのを感じました。
私はいったい、彼女に何を助言しようとしていたのでしょうか。小説を書く人である私が、小説家を目指す人間に対して、いったい何を言えるというのでしょうか。
そしていつのまにか、私は自己防衛の意識にかられていたことに気付かされたのです。今の己の状況を、まるで仕方がないと、むしろ利口な生き方であるかのように、語っていたのです。後悔を抱えながら生きてきた自分に、嘘をつきながら。
「先生。お尋ねします。先生は私にどうしてほしいですか」
気がつけば、私の手は彼女に取られていました。
「私に、どうなって欲しいですか。葉太先生」
その瞳は力強く、私は一瞬たりとも、視線を逸らすことはできませんでした。
「それは、やはり教師として」
「葉太先生。逃げないで」
今更私に、何を言えと言うのでしょうか。
妥協的に教師という職業におさまっている私に、彼女の未来の何を言及すれば良いのでしょうか。それは教師として、元小説家として、小説を書く人として、それとも、男として?
人の将来に加担するには、あまりにも小さい、私の肝。私はその問に、答えることができませんでした。
「先生のお気持ちはわかりました」
その言葉と共に、彼女の手が力なく離れていきました。そして次には何かに弾かれるように、彼女はさっと立ち上がり、私を見下ろしていました。
「でしたら、この関係はもう、終わりです」
強く握られた拳が、震えていました。
「私はもう先生にご相談はしません。迷惑だってかけません。私は先生の生徒として、先生の経歴に傷をつけないように、ちゃんと卒業して、一流大学に進学して、そして、そのうちに退屈な恋をして、それで、それで、先生に招待状を送りつけてやるんですよ。私を導いててくれた、恩師として! そして先生はそこでなんともない顔をして、ありきたりな言葉を読み上げて、私はそれに涙を流すんだわ。この瞬間を思い出しながら!」
彼女が走り去る――。それがわかっていながら、私はその手を十分に伸ばすことができませんでした。
「そんなのって、あんまりじゃない」
浅く掴んだ制服はいとも簡単にするりと抜け、そのまま彼女は走り出しました。
「春川さん!」
「先生の、いくじなし」
残された私に、突きつけられた言葉。公園に木霊したそれは、同じように、私の頭の中にも響き渡っていました。彼女が夜に消え、宙に浮いたままの私には、一滴の雫が伝っていました。
「いくじなし」
それはあの日。かつての恋人が放った、最後の言葉と同じでした。
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