葉桜の君に 拾参
冬休みが明け、授業が再開されると、それまでと同じ日常が待っていました。新年の抱負に皆が浮かれていたのは数日だけで、教壇から見る景色もすぐに落ち着きを取り戻していました。その風景には、彼女の姿がありました。
彼女は真面目に授業を受け、実力を伸ばしていきました。こころなしか、友人との会話も増えているように見えました。何事も卒なくこなす彼女でしたから、一步踏み出せば、それも造作も無いことなのでしょう。私が心配することは、私が気に留めなくてはならないことは、何もない。彼女は毎日登校し、私は毎日出勤し、共に生徒と教師という一日を過ごす。それは以前となんら変わりないことのはずでした。
しかし私は、喪失感に苛まれていたのです。ただひとつ欠落したそれに、私は苦しんでいたのです。
彼女とのやりとりが、彼女の作品を読んでいる時間が、自分にとっていかに大きな時間であったのかを、痛感していました。私は小説家である以前に、教師である以前に、一読者として、春川桜子という作家に、すっかり惚れ込んでいたのです。
私は夢遊病者のように、時折あの公園に出向きました。身も凍るような寒さの中、無意味に桜を眺めて、ただただ、僅かな可能性に、奇跡のような出来事に期待していたのです。日が沈み家路につくと、すっかり冷え切ったその体を酒で温め、そして机に向かい、彼女が残した物語に耽りました。
『葉桜の私』は幾重もの改稿と加筆を経て、単行本ほどの分量になっていました。
主人公である女学生は、高校を卒業後、大学に進学するものの、決して満たされることのない日々を送っていました。夜の街で咲き乱れる自分と、大学生としての自分の乖離に、ますます自分を見失っていきます。そんな折、全く異なる性質を持つ二人の男性に交際を申し込まれます。一方は、大学で知り合った良家の青年。もう一方は、夜の街で知り合った、実業家。双方と交際を始めた女学生は、陽と陰の自分を使い分け、決して交わらないよう一線を引いたのです。一人の中に、二人の人格と世界があり、それが完全に隔絶されている。その二面性に苦しむこともなくなった頃、実業家の彼と良家の彼が異母兄弟であることを知ります。二人の男性の価値観は完全に相反しており、二面性を持った女学生は、その半分を理由に拒絶されることを恐れます。このままでは、どちらにも愛されない。こうして女学生は、自身の幸せのために、一方の自分を抹殺することを決意するのです。
彼女がどちらの自分を選ぶのか――。物語は、そこで終わっていました。
結末を推測するのは困難でした。どちらも、平等に描かれており、双方に未来がある。その答えを知るものは、作者である、春川桜子だけ。
私の好奇心は、私に問いかけました。物語の結末を知りたくはないかと。教師という立場を利用すれば、それを本人に問いただすことは造作もないだろうと。
しかし私はその言葉を聞くたびに、彼女の顔を思い出しました。今の彼女は再びその存在を薄めており、出会ったころと同じようだったのです。今問いただしても、あの色の無い瞳で言うのでしょう。先生はどちらだと思いますか、と。私の心は、それに耐えられそうにありません。
彼女との関係は、最初から、生徒と教師だったのです。
彼女が無事に三年に進学し、迎えた新学期のことです。最初の進路希望調査表の中に、彼女のものがありました。美しい文字で書かれたそれに、私は釘付けになりました。
――大学進学。希望大学は、一流大学。推薦の希望欄に、◯。
私はこの瞬間の気持ちを、未だに上手く言い表すことができません。
無理にでも言葉にするなら、普遍的な道を選んでくれた事への安堵と、そして本当にこれでよかったのかという不安と、己に対しての絶望と憤りが複雑に混ざり合っていたと言う他ありません。
そしてこの時、私はようやく思い出したのです。この結末は、彼女が選択したものではないということに。
私は彼女の言葉を思い出しました。
『桜は、いったいいつから、葉桜になるのでしょう』
それを決めるのは、観測者です。誰かが桜だと言えばそうであるし、葉桜だと言えばそうである。少なくともそれは、利便区別のために周囲が勝手にそう決めつけているだけであって、当の桜本人には関係がないこと。桜は桜であり、今がどの状態であるかなんて、考えていない。桜にとっては結実と生存のための一過程に過ぎず、それを美しいだとか論じるのは、周囲が勝手に騒ぎ立てていることだけなのです。
では、春川桜子は?
将来を期待された、優等生。誰もが羨む容姿と不思議な透明感を持つ少女。
周囲との乖離に苦しみ、小説にのめり込む、早熟で、危険で、未熟な少女。
あまりにも異なる二面性。ですがそれは、観測者が決めていること。周囲が勝手に、彼女をそのように分類しているだけ。見えている面だけを表として形容し、その裏側を無視する。しかし、彼女にはそんなことは関係がない。本人はただ一生懸命に生きているだけなのです。どちらも彼女の一部であり、彼女自身のはずなのです。
ですが、もしその一方を選ばなければならないとしたら?
そして、それを決めきれないとだとしたら。
それを誰かに決めて欲しいのだとしたら。
物語の結末を決めるのは、彼女自身でないとしたら――。
いったい誰がそれを決めるのか。
もっとも彼女を「観測」しているのは――
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