葉桜の君に 参
彼女は優等生でした。文武両道とは彼女のためにあるかのようで、そのどれもを卒なくこなしました。高等学校が生徒らに課す多くのものは、彼女にとってなんの障壁にもなっていない。そればかりか、本校のカリキュラムはむしろ、彼女によって試されているのではないか。そんな錯覚をするほど、彼女は特に優秀だったのです。
彼女はそんな自身の優秀さを、誰かに誇ったりはしませんでした。決して目立とうとはせず、むしろ、水が海水に溶け込むが如く、その存在をくらますことに才覚がありました。誰も不快にさせることなく談笑し、そしていつの間にかその場から立ち去っている。それが春川桜子という生徒でした。
そのあまりに薄い印象のせいか、私は奇妙な体験をしました。私は彼女のクラス担任として、時折話す機会がありました。用事があって呼び出し、たしかにそこで会話してはいるのですが、しかし一旦それが終わってみれば、果たして何の会話だったのか、途端に不鮮明になってくるのです。それは、一度や二度ではありません。こんなこともありました。日誌を教室に持っていくようにと呼び出したつもりが、いざ彼女が職員室から去ってみれば、それは未だに机に積み上ったままだったのです。
私はやがて、それは彼女が意図的に仕組んだ絡繰りであることを疑い始めます。彼女は敢えて、印象に残らないように、会話や間を選んでいるのではないかと。そうして人の意識外に自身の存在をくらませている。そう思うと、腑に落ちる点が多くあるのです。
考えてみれば、彼女の聡明さなら、私の用事に気づかないはずはないのです。呼び出された時点で、机に積み上がった日誌を見れば、少なからず、自分から持っていくことを提案できるだけの器量を持ち合わせているように思えました。多忙な教員が他愛もなく印象にすら残らない世間話をする為だけに生徒を呼び出すはずはないと、彼女なら理解できるはずなのです。つまり彼女は、敢えて気づかないふりをしていると考えるほうが、よほど自然なことのように思えてくるのです。
しかし私はそれ以上考えることを辞めました。
なぜならそれは、彼女が私達を試していることに他ならないからです。我々は、春川桜子という少女に、試されている。
思えばあの日、私の原稿を読まなかったのは、宣戦布告だったのかも知れません。彼女が一番最初に矛先を向けたのは、クラス担任である私であった、と。
それは、人間関係に無頓着である私にでさえ、悔しさだとか、恥ずかしさだとか、そういう負の側面をもった、憤りとも言える感情が込み上げてくるのを自覚させるほどのものでした。いち生徒に対し、教師がそんな感情を抱くだなんて、尋常ではありません。不健全の象徴です。
ですから私は、それ以上のことを考えるわけには、いかなかったのです。
それよりも、私がこの時点で真に考えなくてはいけなかったのは、彼女のその文才であったのです。あの文句が、誰の手によって作られていたのか。それを先に考えるべきでした。
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