葉桜の君に 九
その日の放課後、残業を終えて夕暮れの公園に向かえば、桜の木の下に、彼女はいました。残業は意識的にしたものではありませんでしたが、きっともう帰ってしまっているだろうと、できればそうであってほしいと、そんな淡い期待があったのです。しかし、艶髪が微かになびくその後ろ姿は、まるで来るはずのない想い人を待つような寂しさがあって、私は申し訳無さに、胸が一層苦しくなりました。私がそばに駆け寄ると、彼女は私の呼吸が整うのを待ってから、ゆっくりと振り返りました。
「あれは、先生が書いたものだったんですね」
透明な双眸が、私を射貫きます。あれ、とはまさしく、私の書いた挨拶文のことに違いありません。
「あなたは、あれをどう思いましたか」
「つまらない。――そう思いながら、この作者は書いたのだろうな、と」
彼女は一瞬の間をもって、私の真意を探ろうとしているようにも見えました。風でなびく髪を抑えながら、憂いのある横目が揺れています。
「本当はもっと素敵なことを言わせたい。ここにいる生徒が、教師が、奮い立つような感動的なものを、そういうものを書きたいのだろうな、と。普遍的で退屈な言葉では、届けることなんて出来やしないのに。――その想いが、至る所からこぼれ出ていました。だから私はあれを見て、思ったんです。だったら、私がそれを叶えて差し上げようと。その場にいるのかもわからない作者に、届けてやろうと」
彼女はそういうと、夕闇の桜を見上げました。
私はこの時、二つの相反する感情が綯い交ぜになった、不思議な感覚に満たされていました。一つは、十六歳という未成熟な少女が、斯様な考えで行動を起こしたという、驚き。もう一つは、理解されぬ作り手としての情熱を、彼女ならばきっと理解してくれるだろうという期待が叶った、安堵。
「結果、ぶさいくな文になってしまいましたけど」
目前の少女が、私を侵食していく。己にとって、強大な存在となっている。それは、学生だから、だとか、未成年だから、だとか、そういう年齢的な所でいう垣根を超えて、対等に向き合わねばならない相手だということを、私に強く認識させたのです。
「――白化粧の花弁を散らし――」
この時私は、彼女から逃げることを、辞める決意をしたのです。
「覚えて、いらっしゃったのですね」
「それはそうですよ。私から言えば、あれはちょっとした事件でしたから」
あの日以来、私は考えていました。もし彼女が、あの答弁を自分で考えていたのだとすれば。小説で語られた女生徒の価値観が、春川桜子自身のものだったなら。
「君は、大人になっていくことが、怖いのですか」
私はずっと感じていたことを、彼女のその背中に向けて、告げました。
それから少しの間、私達には言葉なく、かわりに風が葉を揺らす音だけが木霊していました。彼女は大きく息を吸っては吐いてを繰り返し、そしてようやくといった様子で振り向き、言ったのです。
「桜は、いったいいつから、葉桜になるのでしょう」
それは、喜びと、寂しさが、綯い交ぜになった、そんな表情でした。
「桜が散り始めた頃でしょうか。それとも、新芽が見え始めたらでしょうか」
彼女は揺れる髪を抑え、頭上の桜を見上げました。
「きっと、そこに答えはないのでしょう。大人になることは、年齢が決めるのか、それとも処女を捨て男を知った時なのか。似たような話だと言うのはわかっています。だけど振り返れば、両者には大きな隔たりが、たしかにある。私は、今のこの時期を大切にしたい。今私が感じた事を、何よりも大切にしたいのです」
彼女はそこまで言うと、私に相対しました。ピンと伸ばされた背筋、そしてその表情からは、今までにない力強さが感じられました。緊張、覚悟。そういった色が、たしかに感じられるのです。
「それが、君が小説を書く理由ですか」
彼女を象徴する、透明感。その正体を、私はこの時はっきりと認識したのです。
彼女の透明感の理由。それは、感情を放出しなかったから。彼女の行い全てに、想いという色が、抜け落ちてしまっていたからなのだと。
「先生。私は小説家になりたいんです。私の時間の全てを、それに使いたい。今のありのままの私を、伝えたいんです。先生なら、この気持ちをわかってくれると思います。文学を愛する、先生なら。私の小説を読んでも、向き合ってくれる、葉太先生なら」
でも今、そう語る彼女の瞳には、たしかに感情がありました。色があるのです。それは彼女が私に対して、初めて見せた、彼女の想いでした。
「私に小説を指導してくれませんか」
彼女はたしかに色づいている。他の誰よりも、光輝いている。その輪郭はいつになく明瞭で、私の瞳は彼女から逃れることが出来ないでいる。霞をまとわなくなった春川桜子は、こんなにも力強く、生きている。
「お願いします」
頭を垂れた彼女の姿は、それはそれは美しいものでした。もしかしたら、これは彼女にとって異性への告白よりも、ずっと大変なことかも知れません。自身の内面をさらけ出し、あまつさえ、指導を乞おうなどと。
ですから私は、そのあまりの眩しさに、目が眩んだのです。
「私に小説の才能はありません。――ですが、あなたの夢は立派だと思います」
ですから私は、こう答えてしまったのです。普段の私なら、絶対に言わない、こんな事を。
「現代文の教師として。それでよろしいのでしたら」
私はこの時初めて、『春川桜子』と出会ったのです。
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