葉桜の君に 弐

 私が彼女を認識したのは、入学式の祭典中でした。

 それは取り立てて特別な入学式ではありませんでした。我々教師にとっては、毎年のように訪れる、恒例の行事の一つに過ぎません。もちろん、そこにいる生徒たちは新たな希望と不安を胸にしていることでしょう。私はそういう生徒達を見て、若者のエネルギーを感じながらも、しかし少し冷めた気持ちでその場におりました。その年は教員人生で初めてのクラス担任を任され、緊張が続いた結果、肝心の春を迎えた頃には、心身が疲れ果ててしまっていたのです。教師でありながら、人様の将来に加担するには、私の肝は小さすぎたのです。そんな居心地の悪さを誤魔化すことも兼ねて、その後に訪れるクラスでの挨拶をぼんやりと考えていました。そのような状態でしたので、私にはその式の様子なんて、ほとんど印象に残っていなかったのです。

 しかしそんな時です。式の終盤、学年代表生の挨拶として教頭が名を読み上げると、無機質な返事と共に立ち上がり教壇に向かう生徒がおりました。私はその姿に、視線を奪われたのです。

 それは私に不思議な感覚をもたらしました。私はその感覚の正体がいったい何であるのか、すぐに理解しました。それは、彼女の透明感でした。新たな環境に緊張し、強ばるのがこの年頃というもの。しかし彼女からは、それが感じられなかったのです。

 期待、不安、緊張や興奮。そういった感情のすべてが抜け落ち、肩は脱力し、歩みは軽やかで優雅、背筋はぴんと伸ばされて、一際艷やかな長髪と、長めに着こなされたスカートが揺れている。およそ女の自信をすべて詰め込んだような容姿と佇まいであって、しかしその存在は限りなく透明に近い。その目で捉えようとすると、途端にピントがずれてぼやけてしまうような、そういう儚さがあったのです。事実、その姿を目に追うものは他になく、客観的に見ても、彼女が目立つ存在とは、到底言えませんでした。

 しかしこの日、私はこの少女を強烈に認識しました。理由の一つは、個人的で取るに足りない理由です。目を奪われ、同時に動揺したことに違いはありませんが、今となってはそれは一つのきっかけに過ぎません。それよりもよほど重要だったのは、この後放たれた彼女の言葉でした。

「――桜が白化粧の花弁を散らし、新緑の柔肌が装いを新たにした、今日――」

 澄んだ声で告げられたそれは、慣例の文句とは異るものでした。それに気づいたのは、この場にいた者の中で私だけだったと思います。

 理由はこうです。新入生代表あいさつには原稿があり、それは現代文を担当する私が用意したもので、生徒はそれを読み上げるだけで良い、というのが恒例であったのです。

 ですから私にはそれがすぐにわかりました。彼女が語った文句は、私の原稿にはない。誰かがいつの間にか差し替えたに違いありません。

 私は反射的に彼女を見つめ、そして驚愕しました。

 彼女は、原稿を読んでいなかったのです。ただ水平に視線を向け、まるでその先にある校章に語りかけるが如く、よどみなく、迷いなく発していたのです。

 私はこの瞬間、本能で理解しました。彼女は文学を嗜むものであると。

 そして手元のしおりでその名前を確認し、息を飲んだのです。


 ――春川桜子。

 彼女は、私のクラスの生徒でした。

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