10話 信じられない技術と事実

 紗友が言ったように、エイゲート・ハリソンは化学にも精通していた。アパートの一室は、研究室になっており、そこに必要な機材は、全て揃っていた。


 研究室の一角に、必要な道具や材料をまとめ、早速俺は実験に取りかかった。


 使うのは、今朝紅茶を飲むときに使ったティーカップ。これを、暖炉の火へ近づける。距離は熱が届く程度でいい。


 ティーカップが完全に乾くまで、数十分ほど待ち続け、次の作業へと移る。次の作業には、スマホ……のカバーを使う。俺のいた世界が夢ではないことを物語る、俺のスマートフォン。そのカバーはプラスチックでできている。プラスチックが最初に作られたのは、一八六八年……。ゆえにこれは、この時代には、まだ存在しない物質だ。俺はそれを、用意しておいた毛糸のシャツで擦りまくった。そう。静電気を発生させている。パチパチと音を立て始めたら、それを、さっきのティーカップの一部分へ近づける……。これを何度も繰り返す。


「……?」


 エマが小首を傾げて不思議そうな顔をしている。しかし、説明をするよりも見せた方が早いのだ。説明はもうちょっと待って欲しい。


 次に使うのは、エマの化粧道具と、アルミの粉末だ。


 なぜ化粧品を使うのか、というと、ファンデーションなどの粉末化粧品には、シリカと呼ばれる、超極細の穴が空いた粉が含まれているからだ。これが重要なのだ。


 アルミ粉末と、粉化粧品を混ぜ合わせる。割合や分量は適当だ。こればっかりは試して調整していくしかない。


 これをつけた化粧筆で、ティーカップの表面を柔らかく叩いていく。


 そうすれば、ほら……。




「指紋だ」




 成功した……。


 指紋。現代人ならば、その存在を知らないものはいない。


 古ぼけた四角い椅子に、どっかりと座り込み、深い息をつく。そして、相変わらず不思議そうな表情を俺へ向けたままのエマに、ようやく説明を始める。


「エマ、指紋って言葉、知ってるか?」


「いえ、知りません。それのこと……ですよね?」


 ティーカップに浮かびあがった俺の指紋を、エマは指さした。


「そうだ。指紋という言葉自体は、かなり古くからある。その最初の研究報告は、一六八四年、イギリス人の、ネヘミア・グルーによって記された。そこで彼は、指にある細かい溝の文様、指紋についての研究をした」


 エマが両手を広げその手のひらを凝視した。


「そして、その指紋を、個人の特定に使えるのではないか、という研究をしたのが、ヘンリー・フォーゲルなのだ。今から二三年後、彼は日本という極東の国へ行く。そこで、日本人が、証文に捺印しているのを見て、彼は指紋について研究。一八八〇年代ごろに、科学誌『ネイチャー』に、それについての論文を載せる。その研究により、指紋は人によって決して同じではなく、一生涯変わることはない、つまり、指紋によって、個人の科学的識別が可能だということが発表された」


「……! それって!」


 椅子から飛び上がってエマは声を上げた。


「そうだ。タイモンには、ハリソンが常々現場をそのままにしろと言ってある。凶器も保管してあるに違いない。つまりそこから――」


「犯人がわかるというわけですね!」


「そうだ」


 この技術がイギリスに導入されるのは、一九〇一年だ。論文の発表すらされていないので当然だが、この時代に指紋を気にする人間はいない。だからこそ、現場に凶器をそのまま残すなどという、現代の犯人ならまずしないような状況がある。


 だが実際は、いろいろな壁があるはずだった。日にちが経過しすぎていること、捜査員などの、犯人以外の指紋があること……。しかし幸運にも、これらのことは、心配に及ばないようだ。まずアーサーの首を刺したというナイフは、当然大量の血液が柄にまで付着していた。そうなれば、もはや指紋を取るまでもなく、そこには血で形取られた指紋があるはずだ。ラトウィッチの頭を突き刺したという鑿は、何度も頭を殴りつけた末にそうなったようだから、犯人は、相当強く鑿の柄を握り混んでいて、指紋は手の内側の部分まで、くっきりとついているはずだ。二つとも、他の指紋と間違える心配はない。


 ただ、問題は……。


「容疑者が全く絞れていないからな……」


「いえ、 大丈夫です! 前にも言ったとおり、犯人は、被害者二人の両方ともに、ある程度親しい人物になるはずです。だから、まずは、その人たちの指紋を採りに行きましょう!」


 指紋鑑定の便利さに、感激したのか、ずいぶんと興奮して急かしてくる。たしかに、推理も情報も枯渇している今、あとは総当たりが、最も有効な手段なのかもしれない。


「……よし! じゃあ、行こうか。遺留品から、被害者二人の指紋も採っておこう。もみ合ったときに、指紋がついてしまったかもしれん」


「はい!」


 すぐに上着を羽織って、出かける準備をする。


 これからやることを考えると、この世界に来て、一番忙しくなりそうだ。


 だが、これで光明が見えてきた。


 犯人さえわかれば、そこから密室のほうも……。


 後から考えれば、楽観的すぎる思いで、俺たちは部屋を後にした。


 


 そう……この考えは甘かった。


 犯人はすぐにわかったのだ。


 当てをつけた、被害者二人近辺の人間が犯人だったのだ。


 二本の凶器。ナイフと鑿。


 そこからわかった犯人は……ラトウィッチ・ブレッド、そして……ダリル・ノーランドだった……。

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