8話 19世紀のオカルト

「二人の遺体は部屋のほぼ真ん中に、散乱していた木に埋もれるように横たわっていた。アーサー・ノーランド氏は、喉にナイフが刺さった状態で横たわっていた。一方、経営者、ラトウィッチ・ブレッド氏は木を削る時に使うのみ鑿で刺殺されていた。こっちは何度も鑿で突き刺そうとした跡が、頭の至る所にあった。最終的には、こめかみのあたりに刺されていたよ。どちらも死体の腐乱状態から、おそらく死後三日くらいは経過していたと思われた」


 俺たち追いついたか確認もせず、大勢の人の中を悠々と石畳を歩きながら、独り言のように開口一番タイモンはそう言った。


 ロンドン万博のおかげで、通りの賑わいは、いつにないものになっていた。タイモンがでかくなければ、この雑踏の中で、はぐれてしまっていただろう。


 左右にそびえる、レンガの建物。敷き詰められた石畳。その硬い空間の中に満ちた空気に響く、いくつもの足音は、八方の硬壁に弾み、どれもが空へと飛んでいく。


「犯人の目星はついているのか?」


 タイモンは首を振った。


「いいや。アーサー氏は、気のいい青年で、恨みをかうような人柄では無いそうだ。それにブレッド氏は、言うまでもないだろう」


 確かに。ハリソンの記憶によれば、ラトウィッチ・ブレッドは、市民からの人気は高かったようだ。


 俺が居た世界でも、階級制度がいまだ残っていたイギリス。この時代における、階級による隔たりは、当然それよりも厳しかった。


 イギリスの上流階級には主に、王族や貴族、大地主や新興富裕層がいる。しかし、基本的に新興富裕層は、どれだけ莫大な富を築いていようと、上流階級者として認められないことが多かった。なぜなら、彼らは金で成り上がった、いわゆる成金であり、血筋や伝統を持つものからすれば、同列に見られたくはなかったのだろう。ゆえに、上流階級を目指す新興富裕層は、周囲から上級の存在であると認めてもらうために、慈善事業などの社会貢献をすることが、重要であった。ラトウィチ・ブレッドもその例に漏れていない。植民地の拡大により肥大化した貿易業の成功の波を主軸として、多方面の事業に広く手を伸ばし、富を得た彼は、上流階級に入るための慈善事業を数多く行っていた。そのため、近辺の町での、彼の人気は非常に高く、単純な恨みは買いづらい人間だった。


 が、タイモンはあっさりと主張を覆した。


「――と、思っていたんだが、最近に限ってはそうでもなかったようだ。ラトウィッチ氏は最近、各事業の機械化を図って、大勢の従業員の首切りを考えていたそうだ。それを事前に知った従業員達が、大規模なストライキを起こそうとしていたという情報を得ている。タイミング的に考えて、犯人はその中の誰かである可能性が高い」


「しかし、それでは犯人の特定は難しいだろう。容疑者が不特定多数いるということでは」


「いえ、そうとも言えないと思います」


 額に皺を寄せたエマが、指をピンと立てた。


「ラトウィッチさんはともかく、アーサーさんと二人ともが殺されているとなると、単純な衝動殺人、および誰にでもできた殺人ではないと思います」


 そう言うエマの態度に、呪いに怯えている様子は全く無かった。彼女の中で、探偵としてのスイッチが入ったようだった。その証拠に、帽子から はみ出た癖毛を、しきりに指で巻く癖が現れている。猪突猛進な性格のエマのことだ。事件に夢中になりすぎて、すでに呪いのことを失念しているのだろう。


「どちらかを衝動的に殺したときに、もう一方に見られたから殺した、とも考えられるだろ」


「それはそうかもしれません。でも、遺体をわざわざあの場所へ運ぶメリットはありません。となると、どちらかは、はじめからあの場所へ呼び出していた、と考えられます。つまり、それができる人物が犯人だということです。だとするとおそらく、呼び出され、殺されたのは、アーサーさんだと思います。ラトウィッチさんが先に殺されたとなると、ナイフを持っていたのに、わざわざ鑿でラトウィッチさんを刺殺したということになってしまいますから。つまり、犯人は、ある程度アーサーさんと親しい人物、もしくは、呼び出せるくらいの弱みを握っていた人物にまで絞られてきます」


 ……。……確かに。


  いつの間にか、賑やかな道を外れ、木のにおいが漂う通りまで来ていた。足音と反比例して、今度は、木材同士がぶつかる鈍い音が、どこからか聞こえてくる。


「さすが、エイゲート君の助手だな。君も鼻が高いだろう」


「…………だがな、それでもどのみち犯人の特定は地道に捜査するしかないだろう」


「そうなるな。しかし、私が君たちに頼りたいのは、密室のほうだ。この問題は切実だ。呪い騒動を真に受けているのは、市民だけじゃない。この事件の捜査員まで気味悪がっているありさまだ。……実際、捜査の遅れもある。ひとまず、君が密室だけでも解いてくれれば、そのあたりも収まると思うんだが」


 そう言うタイモンの顔には、疲れがにじみ出ていた。タイモンだって、この時代、オカルトが残っている時代の人間だ。完全に呪いを信じていないわけではないんだ。もしかしたら……と、頭のどこで思っているはずだ。疲れないはずがない。


 ハリソンの記憶の中に、タイモンが紅茶をやたらと飲むことに対する考察があった。それは人が酒の酔いで現実を濁すように、ハリソンは紅茶の香りでそうしているのではないかと。


 そんなことを考えながら、ふと通りを見てみる。まばらになった人は、どれも汚れの垣間見える作業着を着た職人たちばかりになっていた。筋肉質だが、しかし痩せこている姿は、元いた世界ではそう目にしないものだった。


 識外にアリスの声を聞いたのは、そんなときだった。


「あの……こっちです」


 彼女少し通り過ぎたところにある、建物の入り口を指していた。見ればその建物も木工所のようで、ただ木を組んだだけの薄い壁や天井で、重そうな扉の隙間から積まれた材木が覗いている。その木の壁にはまだ傷も少なく、高い壁面のどこにも、まだ はがれは無い、新しそうな建物だった。


 ここが事件のあった……。


「ああ、すまない。行き過ぎてしまったようだ。同じような建物が並んでいるとどうもな……」


 ポリポリと頭を掻きながらタイモンは言った。こんな時でも、こいつはどこか抜けている。


 アリスに先導されて木工所の中に入ると、立ち込めていた木のにおいが俺達を包んだ。中で作業を行われておらず、他から聞こえてきた作業の音は一切聞こえない。積まれた木。組んでいる途中の木。完成した家具。広い空間の中にあるどれにも薄く埃がかぶってる。


 奥へ進んでいくと、新しさを感じる壁面に、ぽっかりと大きな穴が開いている箇所があった。いや……穴では無い。これは入り口だ。


「この先が、古い工房となってます」


 アリスの声に震えを感じたのは俺だけではなかっただろう。


 そうだ。今いるこの工房は、古い工房に増設される形で作られたものなのだった。そしてここから先が、古い工房。その先は壁面もボロボロで薄汚れている。新しく人の気配がまだ残るこの場所から見ているせいで、この古い工房が、より古く寂れたものに感じる。陰鬱な世界の始まり、その入り口。この先で人が……。


 タイモンがアリスに向き直った。


「アリス嬢。ここから先は私たちだけでいい。事件のこと、話してくれてありがとう」


「……はい」


 短い返事とともに、アリスは、足早に去っていった。精神的に彼女も限界が近かったようだ。


 俺達は、だれも何も言わず、大きな穴へと入っていった。明かりなどないその場所は、昼間だというのに薄暗い。左右に並ぶ作業場の扉は傷だらけで、いかにも不気味だ。いや、こんなもの、普段なら何とも感じないはずだ。しかし、ただ何もかもが不気味に感じるほど、ここには陰惨な空気が満ちている。


 事件の現場はその奥にあった。


 一つだけ扉のない作業場。タイモンが先頭に立って、その中へ入っていった。


「君が常々言っているから、中の状態はほぼ事件当時のままにしてある。もちろん遺体は片付けたがな……」


 中の状態は、先に聞いていたとおりだった。


 古ぼけた木造の一室。壁には無数の木が釘で打ち付けてあり、それだけでも、うすら寒いものを感じる。


 床を見れば散乱した木々。薪に使われる棒状の木から、壁面に使われる木板まで、様々な木々が散らばっている。中には、ただの木の枝や、奇妙に曲がった木板まである。意味不明で混沌とした空間だった。


 不明は不安を煽る。呪いを連想するものがいてもおかしくない。ましてや、ここには死体があったのだ。


 人が死んでいた、殺されていた場所。そんな場所に俺としては、初めているはずなのに、たいした感情は湧いてこなかった。この世界に来てしまった時と同じだ。エイゲート・ハリソンとしては、こんなこと、別にたいしたことではないのだ。この体も、心も、俺自身のもののはずなのに、しかしこうして、俺ではないはずの片鱗が時々浮かびあがってくる。こんな時、やはり思ってしまう。俺という存在は、本当に……いや、考えるのはよそう。これは、いくら考えてもわからないことだ。今は、できることからやっていかなければ。


 改めて周りを見渡してみる。入ってきた入り口の扉は、アリスの父親とその従業員が、ぶち破ったそうだが、その扉は今、入り口の隣に立てかけてあった。見えている側には、板が打ち付けてあるので、こっちが扉の内側だった面だろう。扉に、ところ狭しと打ち付けられている板は、どれも途中で折れている。それにしても、ぶち破られた時にどれも折れたのだろうが、これだけの数板が打ち付けられている扉を破るには、ずいぶんと力がいりそうなものだが、さすが二人とも肉体労働を担う職人といったところか。


「そういえば、この扉はどっちに開くはずのものだったんだ?」


「他の工房と同じで、内側に開く構造だ」


 内側に開く扉を……いや、どちらに開こうと関係ない。どのみち内側から板が打ってあるんだ。板を打ち付けた人物も、中にいて扉を閉めなければ、板は打てない。仮にそうして板を打ったとして、それでは、自分自身も外には出られない。


 まさか、本当に呪いなはずはない。だったら、犯人はどうやって……。


「タイモンさん。最後に二人が目撃されたのはいつですか?」


 部屋を隅々まで見ていたエマが、タイモンのほうへ振り返りながらそう言った。


 タイモンは、胸ポケットから手帳を取り出した。


「えーとだな……。アーサー・ノーランド氏は、死体発見三日前の午後九時ごろ、工房で一人残って仕事をしていたところを、最後に帰宅した従業員が目撃していようだ。ラトウィッチ・ブレッド氏は、死体発見三日目の午後六時ごろ行きつけの酒屋で一服しているのを目撃されている。そのときは、『まだ一仕事ある』と言ったそうだ。彼は最近、広げた事業の見直しを行っていて、各事業の視察などを行っていたらしい。しかし、その日の彼の予定では、その時間以降に仕事は入っていない。彼の言っていた『仕事』とはなんだったのかは、わからずじまいだ」


「そういえば、ここでアリスの姉も自殺していたそうではないか」


「ああ。一応その件についても話しておこう。アリス嬢の姉、ハンナ嬢は、三年前、この場所で突然の自殺を図った。早朝に自分で喉を突き刺した遺体が発見されたよ。もともと彼女が、精神的に不安定だという事は知られていた。自殺の原因は、世間からの圧迫に耐えられなくなったのだろう、と考えられている」


 世間からの……?


「実はハンナ嬢は、今回殺されたラトウィッチ・ブレッド氏の息子、モリス・ブレッド氏と、近いうちに結婚する予定であった。しかし、新興とは言え、富裕層と庶民との結婚だ。世間から彼女への風当たりは強かった。多くの人間から、『金目当て』と詰られたそうだ。特に、ラトウィッチ氏は、こればっかりは断固として反対していたそうだ」


 まぁ、そうだろうな。わざわざ慈善事業をして、上流階級の仲間入りを目指しているのに、肝心の息子が労働者階級の庶民と結婚では……。


 しかし、なんという嫌な因果だ。姉弟揃って、同じ場所で、同じ殺され方をするとは……。


 タイモンも同じこと思ったのか、少し口元を歪めたあと、大きな肩をすくめた。しかし、言葉の続きを待っても、それきり何も言わない。一度エマと顔を見合わせて、先に焦れた俺が口を開いた。


「おい、他にもう何も無いのか」


「うん? うーん……そうだな。こちらで分かっていることのほとんどは、もう話したしなぁ」


 ないのかよ。ここに来ても、得られた情報は大して増えてないじゃないか。


「他に何か聞きたい事でもあるのか?」


「……」


 そう言われると、特に思いつくものはないが……。


 エマのほうに目を向けても、彼女も首を横に振っている。これ以上聞きたいことがないそうだ。


「なら良いではないか。では用も済んだことだし、ここを出ようか」


 言うや否やタイモンは、大きな腹と肩を揺らして、工房を出ていってしまった。


 ……なんてマイペースな奴なんだ。呆れてものも言えない。


 しばらく今と顔を見合わせて、俺達をすぐにタイモンの背を追った。


 早足で追いついたその背中に、言葉を投げつける。


「しかしだな、あまりにも情報が大雑把すぎるだろう」


 普通推理小説だったら、探偵がいる場所で事件が起きたり、事件の容疑者がある程度決まっているものではないのか。


 事件発生当時に、あの場所にいたわけでもなく、容疑者も全く絞れていない。こんな状態でどうやって犯人を見つけるというのか。


 無理だろ普通。


 しかし、タイモンは、楽観的だった。


「まぁまぁ。君のことだ。まだ仮説の段階だ、とか言って話してくれないのだろうが、すでに見当ついているのだろう?」


 いや、普通にわからん。


「私は、全く心配していないよ。それに言ったろう? 目下は、密室についての謎を解いてほしいと。まずは呪い騒動どうにかしないとな。まあ、そんなことはありえないとは思うが、万が一君が犯人が誰かわからなくても、容疑者の範囲は非常に大まかに絞れているんだ。君が密室の謎さえ解いてくれれば、あとはなんとかなるさ」


 ならん。


 古い工房から出ると、差す日差しがまぶしかった。吸う空気が軽い。


 そういえば……いつから俺はこんな風に感傷的なことを考えるようになってしまったのだろう。感情的になれば、事実が見えづらくなると思っていたはずではないのか。この一月の奇妙な経験のせいで、俺は変わってしまったのだろうか。それとも……俺がエイゲート・ハリソンとなってしまった影響なのだろうか。だとすれば、こうしているうちに、いつか内面まで俺のものではなくなってしまうのだろうか。


 早く、戻らなければ。


「ああ、これはこれは……お戻りですか」


 工房から出たとき、声を掛けてきたのは、細身の男だった。細い、といってもそれは、やつれからきているものであることは、明らかなくらいその顔には疲労を湛えている。しかし、浮かべている優しい笑みのおかげで、その男から陰鬱な印象は全く受けなかった。


 「おお、ダリルさん。今現場をハリソン君たちに見せていたところなんです。彼が来てくれたなら、綺麗さっぱり事件を解決してくれますよ」


 男はいっそう笑みを深めた。


「あなたが、あの有名なエイゲート・ハリソンさんでしたか。私は、ダリル・ノーランドと申します。アリスの父親です。あなたがいるのなら、私も安心です」


 心の底から浮かべられたことがわかるその笑みを見て、思わず心が痛んだ。彼は自分の子を二人も失っている。しかも、それは呪いだと騒がれているのだ。その疲労は、うかがえるだけも、計り知れない。


「娘があなたに依頼すると聞いたときは、断られると思っていました。なにせあなたは、近頃体調が優れておらず、依頼を受けていないときいていたものですから……。どうでしょうハリソンさん。解決できそうですか?」


「いや……うむ……」


 煮え切らない返事を返すことしかできない。ダリルは、困惑したような表情を浮かべた。


「ハッハッハ。いやいや、大丈夫ですよ。彼はいっつもこんなふうにして、最後の最後まで推理を聞かせてくれないんですよ」


 楽観の塊がそう言ったが、ダリルはそうではないようで、不安そうな表情が残ったままだった。


「本当に、大丈夫なんですか……? やはり、まだお体が、優れていないのでは……」


 体調の問題ではなく、そもそも事件に問題がありすぎる上に、俺はハリソンですらないのだが……。


 ダリルは、少しだけ考える素振りを見せた。


「博覧会のほうへは、もう行きましたか?」


「いえ……行ってません。最近いろいろあって、余裕がなかったもので……」


 そう答えたのはエマだった。おかしなことに、彼女は、依然として髪をいじったまま、ダリルを見ている。何かが彼女のなかで引っかかっているのだろうか。


「でしたら、気分転換に行ってみてはいかがでしょう。いろいろなところの技術や芸術が見られるので、大変楽しめましたよ。私はこんな仕事をしているものですから、家具などの木造品の出店に大変興味を惹かれましてね。是非見に行って見てください。それに――」「――気になっていたのですが……」


 再び暖かい笑みを浮かべるダリルへ、ついに、エマが切り出した。頬の高さに上げられた指は相変わらず髪を巻いている。


「あなたも、アリスさんも、呪いと言われているのを、全く相手にしていないように見えます。……どうしてですか?」


 突然、ダリルの顔から笑みが消えた。


「私も、アリスも、アーサーとハンナを失いました。しかし、ハンナは決して自殺するような子じゃなかった。アーサーだって殺されるようなようなことは、絶対していません。犯人はいます。呪いなんかでは、絶対にありません」


 その言葉は強く、感じるのは、彼の優しさから転じた、犯人への怒り。吹いた風が、白髪が目立つ彼の髪を、小さく巻き上げ逆立たせた。木の香りを含んだその風は、地面を凪いで木片を巻き上げ、俺たちの足にぶつかり、動きを止めた。

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