1話 胡蝶の夢
かの発明王エジソンはこう言った。『天才は一%のひらめきと九九%の努力である』と。が、これは嘘だ。エジソンはそんなこと言ってない。実際こうだ。『一のひらめきがなければ、九九の努力は無駄になる』エジソンはこう言ったのだ。
天才と言われた彼でさえ、結局はひらめきだと言っているのだ。しかし、今の時代となっては、この言葉ですら真では無い。
科学において、もはやひらめきの時代は終わった。あるのは膨大なデータと予測、そして偶然だけだ。ある個人のひらめきが、世界を揺るがす大発見につながることはほぼない。不味いリンゴの落下で万有引力を思いつくようなことも、食えなくなったチョコレートで電子レンジ思いつくようなこともない。
今や科学とは知識の時代だ。情報化と呼ばれる社会の中に飛び交う知識を連結し、統合し、新たな結果を生み出す。そういう時代となった。
ゆえに俺の知識を求める。ひらめきなど微塵もいらない。欲しくもない。膨大な知識とそれを繋げる力。それだけがあれば、偉大な科学者となれる。
「そして最終的には、世界は俺様の手に!ウワァーッハッハッハッハァ!」
「……俺の心中の独白にいい加減な言葉を付け足すんじゃない」
桜の匂いが鼻をくすぐるこの季節。花びら舞い散る桜街道に佇む俺の背後に、いつの間にか紗友が寄って来ていた。紗友はピョコピョコと小さなジャンプで近づいてきて、微笑んだ。
「おはよ、シドー。でも今そんな感じのこと考えてたでしょ?」
「ない。全くない。今まで人生で一度もない」
だいたい世界征服って言ったってそんなに単純じゃないのだ。世界を征服するとすなわち今まで人類の誰もが成し遂げることができなかった、全国家の国境をなくし世界を統一、統治することであり、まさにそれは人類が目指すべき――って何を考えているんだ俺は。
「そんなことよりもだ、もっと興味深いことを考えていた」
「興味深い? 何? どんな小説の話? それとも音楽?」
「違う!お前に興味深い話ではない! 小説や音楽など、くだらない」
それだけじゃない。およそ芸術と呼ばれるもの全てがくだらない。あんなもの何の役にも立たない道楽だと言うのに、それにうつつを抜かしたりする輩が多すぎだ。そんなんだから、それを一生懸命研究するやつ現れたり、国の税金がそれに使われたりなどの無駄が出てくるのだ。
「いまさぁ、私がハマってるやつはこれなんだよねー」
俺の真っ向から否定を聞こえなかったことにしたらしい。いや、本当に聞こえていない節が紗友にはある。超絶マイペース娘なのだ。ため息をついた後、仕方なく話に付き合ってやることにした。
紗友がスクールバックから取り出したのは、表紙に二枚目な男が書かれた1冊の文庫本だった。
「探偵物。特にこの本が好き! 一九世紀のロンドンの舞台の物語なんだけどー、主人公のハリソンがすっごいかっこいいんだよね!ロンドン塔爆破事件とか謎の奇術師事件とか華麗に解いて! 」
す、すごい内容だな……。
「ん? 一九世紀のロンドンの探偵? それって……」
「ホームズじゃないよ! っていうかホームズ知ってたんだ」
「当然だ」
「しかし、同じ舞台にホームズという希代の名作があるのに、よくそこで探偵ものを書こうと思ったな、その作者は」
「気にしなかったんじゃない? でもねー、この主人公もホームズみたいにかっこいいよ。科学に詳しくて自分の研究室持ってるところとかー。気になるならかしてあげようか?」
「いや気になるなんて……」
言い終わる前に、俺の手にその本を押し付け、紗友は先へと駆けだした。
高校三年生初めての授業が始まるこの日。透き通る空に浮かぶ綿雲とそれを彩る桜の花弁。桜色の雪をさらう風に煽られ、髪を押さえる彼女の姿に、たった数歩の距離がとても遠く、視界のすべてに映る春の濃さに思わず目眩を感じた。
……この時を、俺はこの後、何度も思い浮かべることになる、そんな気がした。
紗友の姿は、すでに見えなくなっていた。始めも終わりも唐突。まったくあいつは、昔から変わらない。
取り残された俺。そして1冊の本。紗友の話では探偵ものらしい。俺は小説自体が嫌いだが、はっきり言って推理小説は特に嫌いだ。なーにが推理やひらめきだ。あんなものただの発想の飛躍だ。今の時代にはひらめきなんていらないのだ。それを探偵という奴は……。
表紙を指先でつまんで見開きを開いてみる。
「ん?」
白紙だ。
なんだ? こういったティーンズの文庫が、見開きからまったくの白紙なんてことがあるのだろうか?
1ページめくってみる。
白紙だ。
次のページも……白紙だ。
次も、次も、次も、次も……。
紙を指で弾き全ページに目を通しても、どこにも何も書かれていない。
「な、なんだこれは……」 で
紗友のいたずらか? いやしかし、さっきそんな素振りは全く感じられなかった。普通に本を渡したとしか思えない。そもそも、そんな いたずらのために、わざわざこんな本を用意するか?
日差しを照り返す白の紙。異常なほどの白。
気味が悪い。
その時、その一片の汚れもない白に、突然色が現れた。桜の花びらが、本に乗ったのだ。そして信じられないことが起きた。桜が触れたその瞬間から、その白が本の紙の枠を超え、突然広がり始めた!いや違う、光っている!ありえない!
思わず本を取り戻す、しかし事態は止まらない。白に塗りつぶされてゆく空、道、そして桜。ついに眩しさに目を開けていられなくなり、俺は目を閉じてしまった。それを引き金するかのように、急激に襲い来る目眩。崩れ落ちる膝。しかしそこに感じるはずの地面を感じない。ついには意識までも遠くまで引きずられて行った。
薄れゆく意識の中で、らしくもなく俺はこう思った。
まるでどこか別の世界にいってしまうかのようだ、と……。
馬鹿げた考えだ。しかし俺は後で思い知らされることになる。それはどうしようもなく、事実であるということ…………。
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