6話 名探偵はどこにもいない

 イギリス人の紅茶好きについて、ここで説明しておきたいと思う。


 イギリス人は誰も彼もよく紅茶を飲む。朝、昼、夜、ちょっとした休憩時、食前、食後、就寝前。とにかく余裕ができれば紅茶を飲むのだ。そもそもの始まりは、薬用としてたしなまれるようになったことだが、一方で紅茶というのはイギリス人の気質によく合っていた。イギリスの冬は冷たく厳しい。そんな環境で冷え切ってしまった体を、簡単に温められるものが紅茶であり、そこに入れるミルクは冬場に必要な脂質を補ってくれた。酪農が盛んなイギリスで取れるミルクはおいしく、この国の土地特有の硬水が紅茶の味をさらに深めた。また、貿易が発達していくことにより、最初は貴族の嗜みであったものが徐々に民衆の手の届くものとなっていった。そうして民衆の中に現れた、貴族への憧れから感じる紅茶への気品が紅茶の広がりを後押ししたのだろう。


 必要性と味、文化。これらが重なりあい、イギリス人は紅茶好きとなったのだ。


 エマ、タイモンもこの枠に漏れていない。タイモンに至っては、無類の紅茶好きで紅茶のミルクのみであの腹ができていると言っても過言ではない。エマの誘いを聞くや否や強引に部屋まで入られてしまった。


 前と違い、掃除したばかりの部屋は三人くつろげるスペースが充分にある。傷の目立つ机に置かれた三つのティーカップ。それぞれから上がる湯気が、コクのある香りを鼻先へと運んでくる。


 タイモンは、エマが入れた紅茶を飲み、ゆっくりと一息ついた。


「それにしても、変わったね君」


「なに? そう思うのか?」


 俺をハリソンだと言っている言っている時点で、彼もまたエマ以外の人間と同じだと思っていたが。まさか、長年の付き合いから何か感じるものでもあるというのか。だとしたら、それもまた何かの糸口になるかもしれない。


「具体的にどこがそう思うのだ? 具体的に」


「具体的に? ふーむ、そうだな。……まず、こんな綺麗に部屋を掃除などしなかったし……ああ、そういえば声が違うな」


「こ、声だと?」


 声に違い、それが手がかりになるとして、いったい――。


「あーそれと、顔立ちも違うな。もっと鼻が高かっし、目ももっと鋭かったな。あと、身長ももっと高かったし、しゃべり方まで違うな」


 おいそれもう別人だろう。全く面影もないってことではないか! いったい何をもって俺をハリソンとしている!?


「ん? どうしたエイゲート君。頭でも痛いのか?」


「いや……理不尽さに嘆いているだけだ」


「ふーむ? まあ、変な奴であることは変わっとらんよ。それより、私の話をしていいかな?」


「もう好きにしてくれ……」


 タイモンは、足を組み替えてから額に皺を寄せた。


「いや、強引だというのは私もわかっている。君が万全でないということもだ。しかしな、それでもどうしても君の力を借りたいのだ」


「……」


「分かっていると思うが、話とは事件についてだ。君のことだ。五月の中頃に起きた木工所の事件のことは当然知っているだろう?」


 知らん。


「あの事件、やっぱり難航していたんですね……」


 なぜか怯えたような声でそう言ったのはエマだった。驚いたことに、いや、探偵の助手なら当然というべきか、エマはその事件について知っているようだ。そんなエマが、俺のほうをチラリと見たあと、わざとらしく声を上げた。


「あー確か、木材の加工企業を主として多方面で成功を収めた新興富裕層者のラトウィッチ・ブレッド氏とその従業員アーサー・ノーランドさんが、使われていない木工所で、遺体で発見された事件ですよね」


 俺に気遣っているつもりかどうか知らないが、俺はこの件受ける気は全くないんだ。だから事件内容知る必要もないわけなんだが……。


「新聞の一面に載ってました。ブレッド氏は有名な人でしたし……。私が読んだ記事では、その木工所が密室だったことと、あまりにも奇妙な状況だったことから……その……」


 急に歯切れの悪くなったエマに目を向けると、顔色の悪くなっている彼女の姿があった。そのエマの言葉を引き継いだのは、表情いっそう渋くしたタイモンだった。


「呪いだ……と言われてる」


 またか……。


 しかしなるほど、いかにも推理小説的な事件だ。この謎を解いてほしいという依頼なんだろう。それにエマが、本に呪いがあるとやたら怯えていたのは、その事件の後押しもあったのだな。だが、呪い呪いと……これだから一九世紀の人間は……。


「あのな。タイモン」


 と、タイモン話しかけてみて、一瞬これほどの年上に敬語を使わないということに躊躇いを感じたが、すぐに気安く話していた頃のハリソンの記憶が、それを上から塗りつぶしていた。


「本当に呪いなど信じているのか? お前警官だろう」


「もちろん信じてなどいない。何せ呪いやら奇術やら言われてた事件を君が解決するのを、何度も間近で見ているのだからな。今回だって、うるさい新聞記者共が、勝手に呪いだと話を大きくした部分が大きい」


「だったら――」


「――だがなハリソン。こうは思わんかね。どれだけ科学が発達して、不思議だったことが解明されていこうと、どこかに科学など超えてしまうものがあるのではないか……とね。そう思うと、呪いや奇術を完全に否定しようという気はは起きないんだよ……」


「………………」


 しかし科学は……しかし……しかし……。


「……」


「……どうした、エイゲート君。いつもの君なら、そのうち科学はそれすらも包括するだろう、とか言うはずだが?」


「いや、お前の言葉を聞いて、思い至ってしまったのだ。今の俺がそう言ったところで、全く説得力がないということにな」


「ん? 今日はいつになく変なことを言うなぁ。 本当に別人のようだぞ。なんてな。ハッハッハッハ……」


「……ならよかった」


 本人の知ることのなく多くの意味を込められたその冗談に思わず頬が緩んでいた。本当に久しぶりに笑った気がした。こんな自然に浮かべる笑いは、この世界に来て初めてかもしれない。それはきっと、ハリソンの記憶によって、俺がタイモンに気を許していたことよりも、俺と認めてしまったからだと思う。どれだけ理屈を、科学の知識をこねくりまわしても、今の現状の何もかもが訳が分からないということを。不思議と、そう思った方が焦るよりも、むしろ気が楽になった。


 ふと、紅茶の香りが鼻をくすぐる。見れば、エマが俺のティーカップに二杯目の紅茶を注いでいるところだった。鼻の奥まで通る香りを乗せて立ち上がる湯気の先に見える二人。揺らぎ隠れの波はここにも……。この世界に来てからずっとこうだ。ずっと現実味がない。それはあまりにも事態が大きいからなのか、まさに小説の世界に入ってしまったからなのか……。


「悪いな。タイモン」


 ただの言葉ではなく、本当に悪いと思った。随分と救われたような気になったのに、俺はタイモンの頼みを断らなくてはならない。


「本当にそれどころじゃないんだ。その事件に協力することはできない。ただ、その事件に関しては、おそらく本物の呪いではないだろうから、ちゃんと捜査した方がいい」


「そうか……」


 俺の様子から何かを察したのか、あっさりとタイモンは身を引いた。名残惜しげに最後の一杯の紅茶すすり、タイモンは立ち上がった。


「君がそういうのなら、よほどの事情なのだろう。今回の件は、私は私で頑張ってみようと思う。……では、エマ君、エイゲート君。ごきげんよう」


 来た時も唐突ならば、帰る時はすぐだった。ああ見えて、今日は時間が押してしていたのかもしれない。


 そんな彼の背を見送りながら俺は思う。やはりこの世界は小説の中の世界だと。タイミング良く、俺の心切り替えさせる存在が現れたり、『呪い』という単語をキーワードに、俺を、エイゲート・ハリソンとして、事件に関わらせようとする流れすら感じた。思い込みかもしれないが、不思議なことにその確信があった。


 しかし俺は断った。


 俺は、エイゲート・ハリソンではない。そこは断固として譲らない。たとえ彼の記憶や経験があってもだ。


 このひと月の間に、何度も記憶や経験が、俺のものかそれともハリソンのものかわからなくなる時があった。今だってそうだ。今だって、いつかその二つが融合してしまうことに恐怖を感じる。だから俺は、ハリソンとは違う道を選んだ。事件には関わらない。


 持っている本に目を向ける。たとえこの本が、俺にハリソンらしく振る舞おうとすることを望んでも、俺はそうしない。


 それはそれで新しい物語になるだろう。


 たとえ事件に関わらなくても。

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