3話 慣れ
19世紀のロンドンという荒唐無稽な場所での生活は、あっという間に一月が経過した。もちろん、ただ時間が経ったわけじゃない。動揺もした、混乱もした。だが、どうしようと、この悪夢のような事実が消えることはなかった。
「では、ひとまず話をまとめてみましょう」
古びた机の周りをグルグル回っているエマが、あごに手を当てながらそう言った。
ボサボサの赤毛に丸眼鏡が特徴的な彼女は、俺より年上で、すでに成人もしているらしいが、ずいぶん身長は低く、どう見ても年下にしか見えない幼い容姿をしている。そんな彼女が、それらしい格好をして考え込む姿は、まるで子供が探偵ごっこをしているようだった。
彼女が窓の近くを通るたびに、舞いあげた埃が光の道筋を浮かび上がらせる。今が一九世紀であることを考えても、この部屋にあるあらゆるものが古ぼけて感じる。北側に位置するこの部屋は薄暗く、本や器具、インクが散乱している様は、まるで廃墟のようだった。これでも掃除した方なのだが。
エマがぴんと指を立てる。
「まずここは、一八五一年五月三〇日のロンドンです。そしてあなたは、今から約一五〇年後の西暦にいたはずが、おそらくは一冊の本によってここに来てしまった」
「そうだ」
外を見てみると、この時代のロンドン特有のよどんだ空気と空。そして、いつもより賑わう人々。一八五一年五月といえば、世界最初の万国博覧会であるロンドン博覧会が開催された時期である。各国各地域から人を呼び、連日大盛況により成功を収めることになるこの万博のおかげで、ロンドン市内は今日も賑わいを見せている。
タイムスリップの可能性を考えた。すくなくとも理論上ではタイムスリップは可能なのだ。なぜ、それが俺に起きたかは別として。それならば、無理矢理とは言えまだ説明がつくのだ。しかし……しかしだ。今起きていることはそんな次元の話では無い。
「それも不思議な話ですが、今は置いておきましょう。それよりも、もっと不思議なことがあります」
「ああ、そうだな」
エマは足を止め、俺を凝視した。
「どうしてあなたが、私の先生、名探偵エイゲート・ハリソン先生であると思われているかです。私以外の、すべての人間に!」
これだ。これに対してはどう考えても、何の説明も付けられない。集団催眠? 不特定多数の人間に? 一月以上も長期の間? いや、問題はその点じゃない。
エイゲート・ハリソン。この名は、紗友が俺に渡した小説に出てくる探偵だ。俺がここに現れた時から、今に至るまで、誰もが俺のことをエイゲート・ハリソンだと思っているのだ。
「思われてるだけじゃない。そのエイゲート・ハリソンなる人物の記憶らしきものが、俺自身の頭の中にもある」
助手兼弟子という、エマ・ワイズマンのことも、今まで解決した事件のことも、すべて。だからこそ急にこんな世界に飛ばされようとも、この一月不自由なく生活できたのだ。行きつけのバーからこの世界の常識、そしてこの時代、この場所での言語、すなわち英語まで。現代と比べれば不便だと思うことも、「それがあたりまえ」と思えてしまう。この広いがボロい部屋は、ハリソンが借りているアパートの一室なのだが、この雑多な部屋の中の、どこに何があるかまで、完璧に覚えている。それどころか、ロンドンで生まれ、ロンドンで育ったというエイゲート・ハリソンの記憶のせいで、このロンドンにはじめから愛着すらわいていた。それに帰りたいという哀愁が塗りつぶされそうになるのが、たまらなく嫌だった。
「そうですね。先生と私しか知らないようなことまで、あなたは知っていましたし」
「そうだな……人捜しの依頼でお前が迷子になったり、バレてるのに戸棚の奥に菓子を隠し続けていたり……」
「うわあぁ! わざわざもう一度言わなくていいです! っていうか『お前』って! 私の方が年上なんですよ!」
「いや、ハリソンの記憶のせいか、どうしても下に見てしまってな……」
「下に見るってなんですか! そう言うならあなたは老け顔すぎです! 十八歳に見えません!」
エマが帽子から覗いた赤毛を逆立てた。
「いや待て待て落ち着け。今は俺の記憶の話だろう」
「むぬぬ…………まあ、いいでしょう。話を続けましょう」
不満そうなのがありありと見て取れたが、一応は逆立てた毛を納めてくれた。探偵ハリソンは、エマの扱い方をずいぶん心得ていたようなので、俺自身にも引き継がれている。簡単に誘導することができた。
「紗友……俺の幼馴染みが言っていた、ロンドン塔爆破事件も謎の奇術師事件も、その全てが俺の記憶の中にある。それはすべて――」
「事実です」
何度もうなずきを繰り返しながら、エマはそう言った。事実であると。だが……。
「事実であるはずがない……」
ロンドン塔は、爆破なんかされていない。少なくとも、俺の前にいたはずの世界では。だがしかし、俺の中のエイゲート・ハリソンの記憶では、確かにロンドン塔は爆破されており、実際今もまだ再建設中、時計の針も動いていない。
これが意味することは、いやがおうにも1つの可能性を指し示している。それは……。
「俺は……本の世界に入り込んでしまった……?」
……あり得ないだろ……。
この一ヶ月のうちに、何度も帰結してきた事実に、理解が追いつかず思わずうつむいた。その上に不安そうなエマの声が降る。
「だから、そんなのおかしいですよ。だったら、私たちが小説の中の人ってことになっちゃいます」
「…………」
わかっているつもりだ。そんなもの誰も認めたくない。だがそうでないとしたら、俺が今まで経験してきたもの、会ってきた人が、夢か何かだということになってしまう。両親も友人もそして、紗友も。俺だってそんなもの認めたくはない。
(胡蝶の夢って知ってる?)
高校1年生の時だった。紗友がいつも通りの能天気な声で、唐突にこう言ったのを覚えている。
(荘周って人が、ある時自分が蝶になったと夢を見たんだって。その時自分は荘周だってことを忘れてて、目を覚ました時にようやく思い出すの。その時に、自分は本当は蝶で、気づいていないだけで荘周の夢を見ているだけなんじゃないかって思ったんだって)
あの時は何も思うところがなかったが、今ならわかる。荘周の不安が。存在しているはずの自分がいつか虚空に溶け、消滅してしまうかもしれないというこの不安が……。
どっちが現実で、どっちが夢なのか。
どっちが現実で、どっちが小説なのか。
現実だ。俺の今までの記憶は現実だ。夢なんかであるものか。俺には、その確信がある。ポケット探り、気に触れる四角い物体。スマートフォン。ここに来た時に、あの本も鞄もなくなっていたが、唯一服とその服に入っていたものは身に付けたままだった。
そうだ。夢であるはずがない。俺の世界が現実だったであった証拠が、今ここにある。今服はこの時代のものを着ているが、タンスの中には学生服も残っている。
ここの小説の世界だ。そして俺は、エイゲート・ハリソンなる人物に成り代わった。今の科学ではありえない話だ。だが、それならそれでいい。今の科学で説明できないと言うのなら、俺がこの現象を科学の前に引きずり出し、解明してやる。
「あの、シドーさん。他に何か――」
「部屋の掃除をしよう」
俺は、勢いつけて立ち上がり、埃っぽいカーテンを開け放った。ロンドンの気候には珍しく、今日は晴れ間が差し込んでいた。刺さる日差しがが目に痛い。
「へ? え、いやあの、状況の確認は……」
「俺の中で、もう結論は出た。それに、これ以上重要な事実はもう無い」
「それはそうですけど……でもどうして急に掃除なんですか?」
「この部屋は汚すぎる! 俺はハリソンと違い、綺麗好きなのだ! こんなところでいつまでも暮らしてはいられん!」
そんな俺の様子にしばらく、ぽかんと口を開けているエマだったが、すぐに感心と怪訝が混ざったような声を出した。
「随分前向きなんですね……。シドーさんとっては、随分ととんでもないことが、起きてるように思えるんですが」
「ウジウジ、グダグダするのはもう一ヶ月もやった。そろそろ次のステップへ行ってもいいころだ。だから、ひとまずは掃除なのだ。帰るまでは、ここが拠点になるのだから、快適にしないとな。手伝ってもらうぞ助手よ! まずは部屋の掃除! その後に整理整頓だ!」
「ハ、ハイッ! …………って、私はあなたの助手になった覚えはありませんっ!」
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