2話 知らない世界


「ハッ!」


 気づいた時には、真っ白な視界は晴れ、周囲の景色は一変していた。


 左右に広がるひび割れたレンガの壁と、薄汚れた石畳が伸びるどこかの路地裏のような狭い場所。


 わけもわからず呆然とするが、一呼吸したときに鼻を突いた埃っぽい匂いに思わず咽てしまう。


 な、なんだ……? 俺はさっきまで通学路にいたはずじゃないか……。いったいこれは……、


 混乱をよそに事態は待ってはくれない。


 俺の目の前の曲がり角から足音が響いたかと思うと、筋骨隆々な白人の男が勢いよく飛び出してきた。


 くせ毛が目立つ茶髪の男は、曲がってきた勢いのままに、こちらへ走ってこようとしていたが、俺の顔を見た途端、目を見開いて急停止し、そのまま俺の目の前で膝をついた。


「ハ、ハハハ……。逃走ルートまでお見通しとはな……」


「は?」


 諦めたような口調で男が俺に英語でそう言うが、意味がわからない。


 ていうか、英語? 今こいつは英語を話したぞ。いや、おかしいのはそこじゃない。今俺は、こいつが話した英語をごく自然に理解できたぞ。そこまでのリスニング力は俺にはなかったはずだぞ?


 構わず男は続ける。


「さすが名探偵様だ。……観念するぜ」


「はぁ?」


 何を言っているのだこいつは? ていうか誰だ。何を勝手に納得している。


 というかなんだこいつの格好は。汚れているのはまだいいとしても、よれよれで柄も何もない薄手の茶色い服は、生地の荒さといい、どこで手に入れたのかも不思議なほど服としては粗雑なものだ。


「あのな……」


 と、口を開こうとしたとき、男が来た曲がり角からまたもドタドタと足音が複数響き、三人ほど男たちが息を切らしながら姿を現した。


 男たちは俺たち二人を目に留めると、やはり足を止める。彼らの格好もまた珍妙で、無骨な金属の鋲が目立つ黒い礼服のようなロングコート姿に、同じく黒色のボウルのような帽子を被っている出で立ちであった。


 ボウルのような奇妙な帽子には見覚えがある。確かあれは、カストディアンヘルメットと呼ばれる、一九世紀ごろのヨーロッパの兵隊や警察が装備していたヘルメットだ。ヘルメットの簡素さや彼らの格好から察するに、彼らが一九世紀の警官の服装を身に纏っていることはわかるが、そんなコスプレ集団に絡まれる覚えは全くない。


 「ハァ、ハァ……流石だな。先回りとは」


 そう言ったのは、コスプレ集団の先頭に立っていた、大柄の男であった。大柄と言っても目の前に跪いている男とは違って、体を覆っているのは見るからに脂肪であり、その体形はバランスボールもかくやというほどのものとなっている。


 普通に話しかけられているが、もちろん俺はこんなやつ知らな……いや、知っている。 なぜか俺の記憶の中にこいつの情報が存在している。


 こいつは、タイモン・クラーク。ロンドン市警察の警察官であり、俺の古い友人でもある……って、そんなわけあるか! どうして日本生まれ日本育ちの俺にそんな友人がいるんだ! 歳も全然違うだろう!


 混乱する俺をよそに、コスプレ男たちの二人が膝まづいていた屈強な男を大通りのほうへ連行していく。


「きみのおかげで、今日も難事件が鮮やかに解決! 流石、名探偵エイゲート・ハリソンだな」


「は?」


 大きな手で俺の肩を叩きながらそう言うタイモンの言葉は、明らかに俺に向けられている。


「エイゲート……? 何を言っている?」


 どこかで聞いたことがあるぞ、その名前……。いや、どこかでどころか、ついさっき聞いた言葉ではないか。


 名探偵エイゲート・ハリソン。


 紗友が好きな小説の主人公。


 なぜか俺がその名前で呼ばれている。


「ハッハッハッ。また何か小難しいことを言うつもりかね? 気分のいい今ならいつもより良く聞き流せそうだ! ハッハッハ」


 そう言うタイモンに背中を叩かれながら俺は細い路地から通りに出る。そして、俺はそこに広がっている光家に目を疑った。


 石畳を行き交う馬車。帆の張られた商店や、作りの荒いレンガ造りの建物が立ち並ぶ街の光景。道脇を歩く人々の格好はどれも茶や黒のシンプルな色合いの服装。


 どう見ても現代の景色とはかけ離れている。


「あぁ! ハリソンさん!」


 突然声がして、痩せこけた老婆が俺の両手を胸の前で握りしめた。


「ありがとうございます! あなたがいなければ一体どうなっていたことか……」


 彼女は涙ぐんでいるが、全く俺には訳がわからない……はずなのに、俺の脳裏に、全く手掛かりのないところから彼女の娘の誘拐犯を捕まえた記憶が浮かび上がる。


 周囲に集まってきた人々や先ほどの警官でさえ、口々に俺へ賛辞をくれるが、そのどれもがエイゲート・ハリソンへのものとして俺へ投げかけられている。


 なんだ。どういうことだ。こいつらには俺が、エイゲート・ハリソンに見えているのか? そもそもそいつは架空の人物のはずだろう?


「タイモンさーん!」


 と、甲高い声が空気を震わせ、一人の少女が輪に加わってきた。


 ボサボサの赤毛を無造作に帽子で押さえつけ、汚れた大きな丸めがねをかけたこの女はたしか……


「も、もう事件解決しちゃいましたか!?」


「うむ。エイゲート君がばっちりね。君は道にでも迷っていたのかね?」


「え、いやその……人ごみに流されてしまって……」


「ハハハ、困った助手さんだね」


 そう、ハリソンの探偵助手、エマ・ワイズマンだ。


「これで時たま君レベルに頭が切れるのだから、彼女も隅に置けないね、エイゲート君」


 当たり前のように俺にそう言ってくるタイモン。わけがわからない。


 どうしてどいつもこいつも俺のことをエイゲート・ハリソンだと――


「あの……その人……誰ですか?」


 小さな少女の声が、静かに空気を割った。

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