7話 密室殺人
というわけで事件の詳細を聞きに行こうと思う。
よく行くカフェのテラスに、俺はエマと並んで座っていた。真っ白のテーブルに真っ白の椅子。高級感漂うカップに注がれている紅茶は、透き通った味がとてもおいしい。珍しく晴れたロンドンの空に浮かぶのは、いつも恒久に輝く太陽が浮かぶ。あー忌々しい。世界に嘲笑われているようだ。やはりどうしたって俺は事件に関わらなければいけないのか。
どうしてこんなことになったかというと、それはやはりあの本に起因する。
タイモンに続いてエマが逃げるように帰った翌日。再び本を開いてみると、驚いたことに新たに文章が書き足されていたのだ。
内容は、タイモンが来てから帰るまで。しかも、俺のひと月の出来事が数十行足らずで書かれていたのに対し、タイモンとのたった一時間程度のことは一ページ以上にわたって書かれていた。こんなこと起きれば、単純な推測は立つ。やはり、俺はエイゲート・ハリソンとして、この世界に存在しているのであり、つまり彼らしいことすれば、物語としてこの本に書き足されていくのではないか……と。しかしその推測をエマは否定した。ハリソンだったら、すぐに事件を引き受けているはずであり、ハリソンらしいというよりもむしろ、俺が探偵らしいことをすればいいのではないか……。そして何より、もし、この本のすべてのページを埋めることができれば、もしかして……と
後の推論に至っては、何の根拠もなかったが、しかし、せっかくの足がかり。やってみなければ始まらない。できるかどうかはともかく、やれるだけはやってみようと思わせるものがその推論にはあった。
そこでタイモンに事件を受けるとの旨を伝えると、第一発見者が会いたがっているとタイモンが言うので、その人物を待つために今に至る。思えば俺はその事件の概要すら知らない。その申し出は、渡りに船だった。
「それにしても……イギリスの飯はまずいな」
それを言えば、この時代のヨーロッパ、特に宮廷料理は見た目重視の盛りまくり羽乗せまくりの冷めた料理で食べれたものではないらしいが。
「しかし……だとしてもこれは酷い……」
俺の目の前に置かれているのは、ゼリーの中に封印された ぶつ切りのウナギの姿だった。ご丁寧に頭まで入っている。その目の濁りは、自らの扱いの酷さに絶望しているようにしか見えない。生きたまま両断。傷口に塩を塗り込む。煮えたぎる釜で何時間も灼熱地獄。煮汁ごとゼリー詰め。一体何度ウナギを殺せば気が済むのか。ヤクザでももう少しおとなしいだろう。この料理を考えた奴はウナギが親の敵だったに違いない。
「シドーさん、食べないんですか?」
「あたりまえだ」
その見た目に何の意も解していない様子のエマが聞いてくるが、そんなもの食べる気はない。呪いなどを怖がるくせにこういうのは平気なのかお前は。
いや、この時代ではこれが普通なのか。この時代安易に取れ、かつ栄養価も高かったウナギは、庶民には大変ありがたいものだったのだ。だからこうやってウナギを調理して……いやいやいや、だとしても、もうちょっとなんとかならなかったものか……。これは酷い。全く食べる気が起きない。……残すか? いやいや、せっかく作ってもらったのに、一口も食べないというのは……。もしかしたら、こんな見た目でも実は美味いかもしれな……いやいやいや、ない。絶対無い。うまいわけないだろこんなの。いやしかし――。
「待たせたな。ハリソン君」
堂々巡りの輪を切ったのは、特徴的な唸るような声。タイモンだった。その後ろには女性も連れている。この時代でよく見かける余裕のある上着やスカートはともに深い赤。派手ではなくシックな印象をうけるのは、それを身につけている女性がいかにも平民的な顔立ちだからか。もしくは、あきらかに元気ではなさそうな雰囲気を醸し出しているからか。
胸に光るペンダントを揺らして、彼女は薄く微笑んだ。
「こんにちは……」
タイモンが彼女に手のひらを向けたのは、その言葉が終わると同時だった。
「彼女が、この事件の第一発見者。アリス・ノーランド嬢だ。事件の状況を話してくれるそうだ」
「ノーランド……?」
それって……。
「そうだ。殺されたふたりのうちの一人。アーサー・ノーランドさんの妹だ。ノーランドさん。こちらが、私の友人、エイゲート・ハリソンとその助手エマ・ワイズマンだ」
「お噂はかねがね聞いております。お会いできて光栄です」
タイモンとアリスは、空いていた席に座り、タイモンがウェイターに紅茶を追加で注文した。隙あらばティータイムをとるやつだ。注文を終えたタイモンは、すぐに俺の手元の皿に目を止めた。
「なんだ、エイゲート君。全く食べていないではないか。体調が優れてないとはいえ、食べなければ元気になれんぞ」
「食べたほうが元気がなくなる。欲しければやるから、お前が食べろ」
ウナギの骸をタイモンへ押しつけると、ちょうど紅茶のカップとポットが運ばれてきた。嗅ぎなれた、しかし初めての香りが四人の間に漂い、吹き抜ける風とともに緩く旅立つ。エマが全員のカップに注いでいくことで、さらに香りは強くなり、全員が一口飲み終えるまで、空気の弛緩を残し続けた。
時間に迫られて生きる現代人である俺からすれば、警官も探偵助手も第一発見者も、ずいぶんと のんきでいるようにしか見えないが、時間の概念自体が緩かったこの時代にとっては、これくらいのことはなにも不思議ではない。
ウナギを最後まで食らい尽くしたエマが、丁寧にフォークを置いた。
「それでは早速、お話を伺いたいと思います。アリスさん。思い出すのが辛くなったら、その時はお話をやめてもらって結構です」
「いえ……大丈夫だと思います」
若干不安そうな表情を浮かべたものの、アリスははっきりと返事をした。
カップを口へつけて喉を潤したあと、彼女はゆっくりと話し始めた。
「私の父は、木工職人です。殺されたブレッドさんが経営している木工所で、工場長として働いています。ブレッドさんは、単なる経営者なので、現場で木工所を仕切っていたのは父なんです」
工場か……
「失礼、工場というのは、主に職人が手作業で木を加工しているんだよな? 機械を使ったタイプではなく」
「ええ、そうです。うちの工場は、そういった最新式のものは、まだ取り入れていません」
なるほど。どうしても工場と聞くと、現代の機会にあふれた場所を想像してしまうが、この話の中での工場とは、そういったものはあまりない、現代で言う作業場のような場所なのだろう。
「あの……それがどうかしましたか?」
「いや、なんでもない。続けてくれ」
「はい。――それで、父がそんな立場ということもあって、私の家族は、工場のすぐ近くに住んでいます。ですから、工場休みの日でも、工場に入ることはよくあるのです。
「事件の日は、朝から何かがおかしいと思いました。なんだか、違和感のようなものを感じたのです。なんとなく……ですけれど。ただ家に一人でいるのが、寂しかっただけなのかもしれません。母は私が子供のときに死んでしまいましたし、父はその日、朝から出かけていたので。
「ともかく私は、工場の見回りに行きました。父がいないので、代わりに私がやろうと思ったのです。それで、父がいつもやっているように点検していると、変な臭いがすることに気がついたんです。最初は、何か木材が腐ってしまっているのかと思いました。でも、どの木材を点検しても、どこにも異常が見られませんでした。そして私は、この臭いが、古い工房に近づくにつれて強くなっていくということに気がつきました。
「その古い工房は、十年程前に新しい工房増設してからずっと使わなくなっていた工房でした。それで……その、怖くなって、人を呼びにきました」
「怖くなって? それくらいでか?」
思わず俺が口を挟むと、アリスは深くうつむいてしまった。
カチャリ、とタイモンがカップを置いた音がした。
「エイゲート君。今回の事件、どうして新聞記者どもが呪われていると言っているか、まさか君は知らないのかね?」
「…………」
少なくとも、ハリソンの知識の中には、それらしい答えはないが……。
「その古い工房では、三年前、人が一人亡くなっている。その人は――」
「――私の姉です」
うつむいたままのアリスの、か細くしかしはっきりした物言いは、自らの複雑な感情を押しのけているかのようであった。今回の事件で、彼女は兄までも失ってしまったのか。同じ場所で、自分自分の姉と兄が……。彼女の感情を推し量る事は、俺にはできなかった。
アリスが顔を上げた。
「すみません。話を続けます……。私は、たまたま早めに来ていた従業員、テッドを連れて、古い工房へ行きました。奥に進めば進むほど、においは強まっていきました。とても不快な、鼻やのどが詰まるような臭いでした。
「その時点で、私が感じていて嫌な予感は、最高潮に達していました。それでも、私の足は止まらず、遂に一番奥の……三年前私の姉が、死体で見つかった部屋へと辿り着きました。
「私もテッドも、この先でどんなことが起きているのか、もう一つしか考えられませんでした。テッドが、ドアを開けようと取手を押しました。でも扉は、彼がどれだけ力を入れても、少ししか開きませんでした。
「私たちの不安と不信は、まさか、まさかと思いつつも、もうほとんど確信に変わっていました。私がもう少し臆病だったら、あの場から逃げだしていたかもしれません。
「テッドが、どうにかして扉を開けようと工夫しているうちに、私たちの騒ぎを聞きつけたのか、私の父がすごい勢いで駆けつけてきました。父も、すぐに状況を悟ったのだと思います。息は切れているのに、顔色が悪く、ひどく動揺しているように見えました。
「『扉をぶち破ろう』と父はすぐに言いました。扉は木製なので、父とテッドが何度かぶつかると、簡単に破ることができました。それで……中には……」
ブレッド氏と彼女の兄アーサーの遺体が……か。
さすがに彼女にこれ以上話をさせるのは酷だと思ったのだろう。タイモンは一つ大きな咳払いをすると、彼女の話を継いだ。
「中の状況は奇妙なものだった。工房の中には大量の木板が散乱していて、壁の至る所にも木板が釘で打ち付けてあった。扉が開かなかったのは、内側から扉に釘で板が打たれていたからだ。入り口はその扉しかない。つまり……」
密室……か。
想像の中に現れたのは、ひどく陰惨な空気をはらんだ不気味な工房であった。散らばった木材。突き刺さった釘と板。隅に張った蜘蛛の巣は、ないはずの風に揺られている……。確かに、呪いなどないと思っていても、あまりに不気味な光景だ。
小さな沈黙の中で、最初に口を開いたのは、それまで真剣な顔をして、あごに手を当てたまま黙っていたエマだった。
「タイモンさん。現場を見に行く事は出来ますか?」
「ああ。実は今回アリス嬢を呼んだのは、そういう意図もあったのだよ。彼女の父親も、この事件に協力的でね。私たちが、事件のあった工房へ、向かうであろう旨もすでに伝えてある」
タイモンは、大きくうなずきながらそう言うと、のっそりと立ち上がった。
「紅茶は名残惜しいが、話のキリがちょうど良くなったところで、そろそろ行こうか」
言うだけ言って、のっしのっしと体を左右に振りながら、歩き始めたタイモンの背を追って、俺たちは急いで会計を済ませ、席を立った。
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