5話 探偵の運命


机の上に置かれた一冊の本。ただそこにあるだけなのに、このコミカルな絵柄の本から不気味なものが発されているような気がした。改めて見てみれば、この本の表紙に描かれている二人の人物、すなわちエマとハリソンの挿絵は、かなりデフォルメされているとはいえ かなり似ていた。


「棚に一冊だけしか本が置かれていない段があって、おかしいと思ったんです。それに、少なくとも今の時代にそんな綺麗な絵を印刷できる技術はないと思います」


 エマがそう言うのが、遠くから聞こえた。それに俺もうなずく。エマの言うとおり、この時代に、こんなものがあるのはおかしい。


俺が現実の世界で紗友に渡されたものと全く同じだ。


――――ただ一つを除いて。


表紙をめくってみる。ここは変わらす白紙だ。しかし、次のページは違う。ここには、はっきりと文字が書かれていた。活版印刷の文字ではない。まるで文字そのものが浮かびあがってきたかのような気味悪くのたくった字が、英語で書かれている。しかもその内容は俺がこの世界に来てからの大まかな出来事だ。


「行数にしてたったの数十行だが、確かな違いだ」


「そうなんですか。ここからだとよく見えませんが」


「…………さっきからなぜ そんなところにいるのだ」


廊下側の扉に隠れ、顔だけ覗かせているエマは、ぶるりと身を震わせた。


「だってその本は、あなたをここに連れてきて、先生を消してしまった呪いの本です。怖くて近づけません……」


の、呪いとくるか……。


産業革命によって爆発した科学の力により、世界で最も早くオカルトから脱した国、イギリス。今まさに開催されているロンドン万国博覧会は、その象徴でもあるのだが、一般市民に根付いた観念はそう簡単に変わらないらしい。


「いいか。呪いなどない。そう言われてきたものはすべて、後に科学で解明されてきた。大切なのは本質を見失わないことなのだ」


「かっこいい言葉で惑わそうとしても無駄です……!」


「はぁ……」


エマの表情は、口説き文句を警戒するそれだ。もうため息をつくしかない。


そうなのだ。オカルトが揺らぎ、科学の力が増してきたこの時代、科学というものは、かっこいいイメージを市民に抱かせていたのだ。この時代で、シャーロック・ホームズが人気を博したのはそう言った市民背景があったのだ。だが、俺はそれに乗っかった口説き文句を言ったわけではなくてだな……。


「ええい! まどろっこしい! お前はこの件に関する貴重な例外だろう! お前が来ないなら、こちらから見せにいってやる。ていうかお前、最初触ってただろ!」


 むんずと本をつかみ、エマに近づきながら本を突き出す。


「いやあああぁぁ! 呪われるー!」


「逃がすか!」


 廊下へ飛び出し、外へと向かっていったエマを全力で追いかける。


 その姿を振り返り見とめたエマは、『ひっ』と小さな悲鳴をあげた。


「助けてくださーい! 暴漢が! 暴漢がいますー! 殺されるー!」


「フハハハァ! 残念だったなぁ! この時間帯このアパートには誰もいない! 助けなど来んわぁ! 」


 エマが角を曲がり視界から消える。しかし、そちらは玄関。そこの扉は立て付けが悪い!玄関前でとっ捕まえてやるわぁ!


 角を曲がり全力で飛びかかる。


「観念し――」


「……何をやってるのかね」


警官がいた。


「……ろ……」


差し込む光を背に玄関前に立っている一人の男。その大きく横に広がっている腹の後ろに、エマが隠れていた。


彼の名はタイモン・クラーク。俺がこの世界に来て早々に出会った人物の一人。彼とは付き合いも長く、彼が警官という立場もあって、彼が持ち込んだ事件を解いたり、逆に彼から警察へ口利きしてもらったりと、お互いに助け合う仲であり、プライベートでも関係の深い相手だ。もちろん、エイゲート・ハリソンにとっては、だが。


手入れに相当気を遣っているという自慢のちょび髭をさすりながら、気まずそうに目を目を上に向けた。


「あー。久しぶりだ、エイゲート君。ここのところ体調が優れないようだと聞いていたが、どうやら……あー、本当だったらしいな」


「う、うむ」


 そう、この世界で俺がエイゲート・ハリソンとなったそのときから、俺の元に来る数々の依頼を、体調不良という形で断っていたのだ。そこにタイモンが来たのは、友人として心配して来たのか、それとも……。


「しかしだな……どうにも、君に聞いてほしい話があるんだ」


 やはり、事件か……。しかし、こちらにそんなことに関わっている余裕はない。しかも、俺は名探偵エイゲート・ハリソンではないのだ。引き受ける気は全くない。タイモンには悪いが、話を聞くまでもなくこの話は断るつもりだ。


 だが……


「あのー……」


いつの間にか、タイモンの背後から出てきていたエマが俺たちの間に遠慮がちに入ってきた。


「立ち話もなんですし、ひとまず、お茶でもどうでしょう?」

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