第6話 鬼の声

 眠れなかった。

 頭の中で多くの言葉が渦巻いていた。


 青磁せいじとの縁談。

 貰い手のない薄紅うすべにを、何の打算もなく嫁にと望む青磁せいじの真っ直ぐな思い。

 父、蘇芳すおうの滲み出る悔恨と、縁談話を自分の事のように喜んだ常磐ときわ


青磁せいじさんなら、きっとお嬢様を大切にして下さいます』


 満面の笑みでそう言った常磐ときわの言葉が、頭の奥で木霊している。

 東雲しののめの代わりに診療に訪れることもあり、お勧めの本を持って来た際、一緒にお茶を飲むほどには仲良くなった。優しく柔和な笑みが似合う青磁せいじに威圧を感じることはほとんどなく、春の陽だまりに似た長閑のどかな雰囲気に薄紅うすべにも少なからず好意は抱いていた。


 青磁せいじならば、共に穏やかな時間を紡いでいける。年を取った後も二人並んでお茶を楽しむ光景が、瞼を閉じれば当たり前のように浮かんだ。


薄紅うすべにお嬢様』


 脳裏に映る青磁せいじが、薄紅うすべにへ手を伸ばす。その手を取ればささやかな幸せを得ることが出来るのに、記憶の隅に滞った自分でもよく分からない感情に薄紅うすべにの心が牽制されている。


青磁せいじさんなら、きっとお嬢様を大切にして下さいます』


 縁談話を告げた際に、常磐ときわ薄紅うすべにの手を握りしめて泣きそうに笑った。



『――様のことはもうお忘れになって、幸せになって下さい』



 弾かれたように目を開けた。

 心臓が痛いくらいに鳴っている。呼吸が上手く出来ず、胸元を抑えて背を丸めると、下ろした黒髪が肩からさらりと滑り落ちた。


薄紅うすべにに似合うと思ったんだ。おいで。つけてあげよう』


 よみがえりかけた記憶の一片、藤のかんざしを持つ男の細い手が濃いもやに隠れて見えなくなる。聞いたことのない男の声は、けれど耳の奥を甘やかな刺激で震わせ、薄紅うすべにのこめかみに鈍い痛みを連れてきた。


 言われた覚えのない常磐ときわの言葉。

 記憶に残る見知らぬ男の声と、藤のかんざし

 胸の鼓動は薄紅うすべにをせき立てるように早さを増し、呼吸の追いつかなくなった薄紅うすべにの意識がそこでふつりと途切れてしまった。



***



 さとから隣村へ抜ける山道の脇に、一本の藤の木がある。屋敷の藤棚に比べると花房は短く、人目を引くほど華美でもない。けれどその下で寄り添う二人の男女は、地味に咲く藤を幸せそうに見つめていた。

 男が女の髪に、一本の藤のかんざしを挿している。恥じらい頬を染める女が、たおやかに笑う。

 髪に挿したかんざしに触れ、そのまま女の頬を優しく包み込んだ男が身を屈め、名を囁くと同時に触れるだけの口づけをした。


薄紅うすべに


 呼んでいるのは夢の続きか。


薄紅うすべに


 呼ばれているのはうつつ薄紅うすべにか。


 ひどく曖昧な意識のまま薄紅うすべにが目を開けると、庭の藤が妖しい光を纏って揺れているのが見えた。夜の帳に浮かび上がる淡い紫の光は、まだ夢を見ているのではないかと錯覚させるほどに美しく妖艶に薄紅うすべにを手招きする。

 ゆっくりと体を起こすと、髪に絡まっていた藤の花びらがはらりと零れ落ちた。


 名前を呼ばれていたような気がする。


 誰に、と自身に問うた答えは、いざない揺れる枝垂れた藤から返ってきた。


薄紅うすべに


 藤棚の下。さざめく花房の向こうから、あけの双眸が薄紅うすべにをじっと見つめていた。


薄紅うすべに


 鬼が呼ぶ。

 その度に薄紅うすべにの心が切なく軋む。


 聞いたことなどないはずの鬼の声音に、見覚えのない青年の姿が脳裏に浮かんだ。優しく微笑み返す青年を、なぜか懐かしいと思った。

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