第15話 約束を、いま

 裸足のまま庭に出ると、近付く薄紅うすべにを喜ぶように藤がさざめいた。

 ゆっくりと一歩踏み出す度に、薄紅うすべにの記憶に色が付く。


 初めて紫苑しおんを見た瞬間に心奪われた恋のはじまり。

 思い合う幸せが永久とわに続くのだと、淡く短い夢を見た。

 共に生きることを願って手を取ったはずなのに、薄紅うすべにだけが取り残されている。二年もの間、正気を失ってまで生にしがみ付いていた。


 はらり、はらりと。


 舞い散る藤の花びらに誘われて、薄紅うすべにの頬を熱い雫が滑り落ちる。それはあの夜、頬に受け止めた紫苑しおんの血痕と同じ熱を持っていた。


 藤がざわめく。風が鳴く。

 長い白髪はくはつをしなやかに揺らし、あけの双眸を愛おしげに細めた鬼が、薄紅うすべにに向かってゆっくりと手を差し伸べた。


紫苑しおん様」


 そっと伸ばした手が触れるよりも先に、鬼が薄紅うすべにの手首を掴んで引き寄せた。少し強引な力にたたらを踏んで傾いた薄紅うすべにを攫うように抱きしめて、きつくきつく腕の中に閉じ込める。頭を撫で、艶やかな黒髪に指を滑り込ませた鬼が、薄紅うすべにの隠れたうなじに指を這わせた。熱を持たない指先が、触れた箇所から熱を持つ。


薄紅うすべにようやく、重なり合った」


 耳元で囁かれた鬼の声音は、今まで聞いたどんな言葉よりも一番人間らしい響きを纏って零れ落ちた。

 鬼への恋慕で声を持ち、記憶を取り戻す度に鬼の感情があらわになる。鬼の名を知り、鬼にまつわる自分の過去を全て思い出した薄紅うすべにの前で、鬼はようやく「紫苑しおん」として形を成した。


紫苑しおん様」


 紫苑しおんの胸に頬を寄せたまま、薄紅うすべにがその着物の襟元を指でなぞる。

 かつて蘇芳すおうによって切り裂かれた胸元。駆け落ちが失敗した夜の惨事を思い出して、薄紅うすべにが悲痛に睫毛を震わせた。


「胸の傷は……」


「痛みはもうない」


 当たり前のことを口にして、紫苑しおんが儚く笑う。涙のあとを優しく拭ってやると、薄紅うすべにが甘えるように紫苑しおんの手のひらに頬を寄せた。


「お待たせしてすみませんでした」


「君が戻ってきてくれたのなら、それでいい」


 生前と変わらない優しげな口調で告げると、紫苑しおん薄紅うすべにの手をそっと持ち上げた。その手に握られた藤のかんざしを抜き取って、いつかと同じ甘やかな熱を孕む視線に思いを込めて薄紅うすべにを見つめ返す。


「おいで。付けてあげよう」


 薄紅うすべにを腕に閉じ込めたまま、紫苑しおんが慣れた手つきで緩く纏め上げた髪に藤のかんざしを挿してやる。


「やはり君には藤が良く似合う」


 そう囁けば、あの日と同じように薄紅うすべにが笑った。


 さぁっと、より一層強く風が吹いた。

 庭に満ちる藤のと、沫雪あわゆきのようにはらはらと舞い散る紫の花びら。月のない夜を照らすように、ひとときの夢のように、庭の藤棚が淡い光に包まれる。


「愛しい薄紅うすべに。――私と共に、逃げてくれるか?」


 はらり、はらりと。

 またひとつ、役目を終えて藤が散る。


「――はい、紫苑しおん様。今度こそ、連れて行って下さい」


 約束を叶えるための口づけは静かに交わされ、重なり合う二人の姿を覆い隠すように藤の花びらが一斉に夜を舞った。




 蘇芳すおうたちが異変に気付いたときにはもう、庭の藤は全ての花を散らして、薄紫の海の中でひっそりと枯れ果てていた。

 薄紅うすべにの名を呼ぶ蘇芳すおうの声に常磐ときわが慌てて庭へ出ると、暗い夜の闇の中、ぽつりと灯る明かりが見える。藤の花びらに埋もれた一枚の文が、青白い炎を纏って燃えていた。

 それはまるで闇路を照らす鬼火のように妖しげに揺れ――やがて蘇芳すおうたちが見ている前で静かに燃え尽きてしまった。



 この夜を境に、薄紅うすべにの姿は屋敷からもさとからも完全に消えた。

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