第8話 鬼雨

 昼を少し過ぎた頃、突然訪れた薄紅うすべにを見た東雲しののめは心底驚いた表情を浮かべて、手拭いの入った桶を落としそうになった。

 病を克服してから半年、薄紅うすべにが屋敷の外に出るのはこれが初めてだ。薄紅うすべにの屋敷から東雲しののめの家まではそう離れておらず、体を慣らすため散歩に出歩くにはちょうどいい距離とも言える。加えて侍女の常磐ときわを伴っての訪問に東雲しののめの杞憂は一瞬で消え、代わりに薄紅うすべにの回復力を目にして今度は安堵の溜息をついたのだった。


「二人が一緒になってくれればと思いましたが、こういう話は無理して進めるものでもありませんからな。逆に気を遣わせてしまって悪いことをしました」


東雲しののめ先生のお心遣いには感謝しているんです。青磁せいじさんも私には勿体ないくらいで……本当に、私の気持ちの問題なんです」


 縁談を断る理由にしては曖昧すぎたが、鬼への恋慕を口にするわけにもいかず、今の薄紅うすべにが言えるのはこれが精一杯だ。ただそれでも、東雲しののめをはじめ蘇芳すおうでさえも、この曖昧な薄紅うすべにの我が儘を非難することなく静かに受け止めてくれたのだった。


「そうですか。いや、私も少し急ぎすぎました。青磁せいじには私から伝えましょう」


「すみません。私からも後日きちんとお話します」


 帰り際にいつもの薬を受け取って、来た道を常磐ときわと二人ゆっくりとした足取りで帰っていく。屋敷を出たときは晴れていた空が、山の向こうから分厚い雲を覗かせていた。


一雨ひとあめ来そうですね。屋敷に帰り着くまで降らなければいいんですが」


 常磐ときわひとりなら雨が降る前に屋敷へ戻ることも可能だろうが、今は病み上がりで体力の落ちている薄紅うすべにが一緒だ。東雲しののめの家まで普段の倍以上の時間をかけて歩いてきた薄紅うすべにが、あと半分は残る家路を早足で戻ることは難しいだろう。


 傘のことなど全く頭になかった自分を悔いた常磐ときわの耳に、獰猛な獣の唸りに似た遠雷が届く。慌てて見上げた額にぽつり、と落ちた一粒を合図に、空から零れ落ちた大粒の雨が激しく地面を叩き付けた。


「お嬢様、こちらへ!」


 薄紅うすべにの手を引いて走るも、運悪く通りには一軒の家もない。屋敷まではまだ遠く、辺りに雨宿りできる場所と言えば、通りから少し離れた脇道にある草木の生い茂った空き家くらいだ。

 普段であれば決して近寄らない陰鬱とした空き家だったが、薄紅うすべにを雨に濡らすよりはいいだろう。

 草木をかき分けて朽ちかけた家の軒下へ滑り込むと、常磐ときわが手拭いを取り出して薄紅うすべにの濡れた髪を拭いてやる。少し走ったせいで呼吸の上がった薄紅うすべにの頬が僅かに熱を帯びていた。


「すみません、お嬢様」


「大丈夫よ。出かけるときはあんなに晴れていたんだもの。常磐ときわのせいじゃないわ」


 そう慰める薄紅うすべにの頬は、さっきから熱がこもり続けている。ただでさえ体の弱い薄紅うすべにが雨に打たれ熱を出すのは容易に想像が出来た。今はまだ何もなくても、雨が止むまでの間に体調が変化するかもしれない。ならば雨が止むまで待つよりも、少しでも早く屋敷に戻った方がいいだろう。そう思った後の常磐ときわの行動は素早かった。


「お嬢様。少しの間、ここでお待ち下さい。屋敷に戻って傘を取って参ります」


「えっ?」


「私の足なら時間はそうかかりません。すぐに戻って参りますので、お嬢様は体を冷やさないようにお願いします」


 手拭いを渡すついでにぎゅっと薄紅うすべにの手を握り、ひとつ頷いた常磐ときわが土砂降りの雨の中へ身を翻した。


常磐ときわ!」


 走り去っていく背中へ呼びかけた声は、より一層近くで唸る雷鳴に重なって常磐ときわの耳に届くことはなかった。



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