第10話 紫苑
むせかえるほどに濃い藤の香が、
涙に濡れた視界に映る、押し潰された藤の花。そのすぐ側に、白い着物の裾が音もなく翻る。そこから先はあっという間だった。
大きく仰け反った喉元が苦しげに上下し、半開きの口から唾液が零れ落ちる。呼吸すらままならず喘ぐ男を氷の眼差しで見下ろした鬼は、凄まじいほどの殺気を纏いつつも一言も声を発しない。
無表情のまま見下ろされる恐怖。激しい怒気に揺れる
鬼の手の下で響いた鈍い音をかき消すように、雨脚が一瞬強くなる。
萎れた枯れ枝のようにぐったりとした男の体を部屋の隅へ放り投げ、
「……
声に反応して、
髪を撫で、背中を撫で、落ち着くまで何度も何度も名前を呼ぶ。
熱を持たないはずなのに、
***
目を開けると、
柔らかく香る藤の匂いに顔を向ければ、傍らに寄り添う鬼が
「……貴方が、ここへ?」
「藤の香を辿って戻った。……少し眠れ」
雨音は未だ激しく屋根を叩き付けていた。乱れた着物もそのままで、肌を這った
「もう少し……そばに、いて下さい」
男に触れられた体を、記憶を、鬼の手で上書きして欲しかった。儚い力で胸に縋る手を優しく包み込み、鬼が少しだけ強引に
「助けて下さって、ありがとうございます」
「……間に合って良かった。私の――」
どちらからともなく見つめ合う距離を寄せ、
「
返事も待たず襖が開けられ、
乱れた着物の
「何をしているっ! お前は誰だ!!」
「お父様! 違います! 彼は私を助けてくれて……」
「こちらへ来なさいっ、
有無を言わさず腕を掴んで引き離される。
「今すぐここを出て行け。二度と
項垂れたままだった鬼がゆるりと立ち上がり、白い髪を妖しく揺らしながら
「その言葉を聞くのは二度目だ」
頭に生える二本の角。恐ろしいまでに冷たく光る
「お前は……っ」
声を詰まらせ、鬼の姿を映した瞳が恐怖に大きく見開かれた。
「……
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