3月:幸せエピローグは惨苦の後で
「痛っ」
僕が月兎の存在を大きく感じるのは、例えば下校中に鳥の糞がジャストヒットしたときだったり、会計であと2円だけ足りなかったときだったり、それにコンビニへ置いた傘が誰かに盗まれたとき等々。
僕の氏神であるところの月兎がいなくなって以来、以前と比べて僕の運気はがた落ちしていた。本当に神様っているんだなあ。
──まあ笑い事で済む範囲だけれど。
たった今もしもやけで腫れた足の小指をタンスにぶつけ、僕は泣き笑いする。
「うぅ……。あー、あはは」
こんなことならもっと格式高い神様を信仰しておけばよかった。
……なんて冗談で言っても、もう返事は返ってこない。
僕はいつも通り”月ウサギのストラップ”をリュックサックに付けて、中学校生活ラストの登校準備を終えた。
**********
2度目の卒業式は意外と……というか当然なのだが何事もなく終わった。
ここ1年間の行事はほぼ全て妙な”イベント”が絡んできたから、久しぶりに訪れた平和に僕は若干ホッとする。
声を合わせて歌をうたうことも、眠くなるような校長の話も最後だと思えば感慨深く、それは例え2度目だとしても軽く目尻に涙を溜めさせた。
”前史”は佐紀と同じ高校に進学するということが決まっていたから、それについての安心感はあったのだが今回は違う。
もう1週間も前に受験は終わり、僕ら”応援団”組はそれぞれ別の高校へ進学することが決定した。ここからは1人で学校と戦っていかなければならない不安感も僕の心を揺らしたのだ。
その佐紀は朝に「私は絶対泣かんわ」などと大口をたたいていたのだが、入場の前にはもう半泣きになっていて微笑ましかった。
……”前史”の佐紀は入場前に泣いてたから一応お前の勝ちだぞ。
そして佐紀の親友であるありさは突然”折ったスカート”で登場。
先生の度肝を抜く中、余裕で笑って見せるその胆力はさすがなもので、似合わないのにイキっているわけではなく、小慣れた雰囲気でそれを着こなし、彼女の”本性”を知らない他生徒からの反応は凄まじかった。
真面目な委員長の裏の顔を見たって感じ。
それが好印象かどうかは置いといて。
少なくとも彼女はそんなことを気にしていないということだ。
最後は誠。
たゆまぬ努力によって県内屈指の進学校に合格した彼は、圧倒的な存在感や人望はそのままに文武両道、つまりパーフェクトヒーローへ向けて一直線。
それに最近は──というか文化祭を超えてからやけに悟った雰囲気を纏っているというか、まるで大人の階段を昇ってしまったような老練ささえ感じられる。
騒ぎすぎて卒業式だというのにゴリラに叱られる等々、未だにアホなところは抜け切れていないがそれも彼の魅力の1つだ。
面と向かって好敵手だと宣言されたはいいものの、僕は彼の成長具合に正直ついていくことができないでいる。
別に張り合うつもりなんてさらさらないのだが、我が校サッカー部のナンバーツーを担っていた男の感情は、彼に吹き抜ける青春の風を少し羨んでいた。
「──なにボケっとしてんの? もしかして感傷に浸ってる?」
目元が真っ赤な佐紀が僕と同じように、よく解らないノリで胴上げされている誠を眩しそうに見やる。胴上げして欲しいのか? たかいたかーい。
……殴られそうだから口に出すのはやめた。
「ちょっとな。……もう泣き済んだか?」
「別に泣いてないし。メイクミスっただけ」
「そうかい。……僕はいつもの方が好きだけどな」
お前に泣き顔は似合わねえ。なんて言ってみたいないつか。
気持ち悪いだけだな。
「……チッ。そうやってすぐ「好き」とかいう男あんま好きじゃない」
「今日くらいいいだろ。お前と一緒の学校行くのも最後かって」
舌打ちをかましておきながら緩んでいる、佐紀の頬を見られればそれでいいし。
それに、伝えたいことは言葉にしないと。……次の瞬間トラックが突っ込んでくるかもしれないのだから。
「……まだいくらでも会えるじゃん」
「まあね。生きてるし」
「なんか最終回みたいに締めようとしてるけど、大事なイベント忘れてない?」
「はあ?」
なんかあったっけ。
「焼肉っ。忘れたん?」
「ああ。ね」
卒業パーティー──つまり、”応援団”組最後の打ち上げが今夜開催されるのだ。
**********
「……それが……どうしてこうなった」
『両手に華』という言葉は大抵良い意味で使われることが多いけれど、抱えている花がバラだったのならば、反射ダメージで擦り傷だらけだ。
「こーじ君。私たちももう高校生だねー」
「あ、うん……」
左手にはまるで、酒に酔ったような勢いで僕に絡んでくるありさ。
艶やかな鴉の濡れ羽色の髪に、相変わらず彼女の私服は胸元が緩く、彼女持ちの僕であっても引き寄せられるブラックホールを襟元に作っている。
端なく目線が下がっていくとギリギリと万力の力で僕の足を踏みつけ、今にも超新星爆発する邪悪なオーラが右側から当てられる。
「アリサぁぁ……」
それは壁と僕の二の腕で圧縮されながら、羞恥と嫉妬で狂い始めている佐紀。
……ヤキモチ妬いてくれるのは嬉しいけど、生憎僕の足は耐久力無限じゃない。
「サキ。ちょっと狭いから対面に座ってくれる?」
4人掛けテーブルに腰掛けた奥から佐紀、僕、ありさ。
どう考えてもありさが余りなのだが今日は頑として譲る気はないらしい。
「ねえちょっと、マコト。なんとかしてよ」
ありさの幼馴染であるマコトに佐紀は救援要請する。
ここで彼氏の僕に助けを請わない辺りが相当クレバー。
こういう時に僕が役に立たないってのを彼女はよく知っている。
「おいおい、困ってるぞアリサ。……コージが」
誠は大股を広げてソファーを占領し、アッハッハと笑う。まるで対岸の火事だ。
「マジで。今日の所は勘弁してくれ。マジで。僕の足がもうもたない……」
──ギリギリッ。
本当にギリギリで保ってる感じがする。あ、なんかツボ入った痛、気持ちいい。
「罰だよ、こーじ君。夏祭りでサキのことは好きじゃないって言ってたのに──」
心なしかありさの色っぽさというか、外見的な色気が以前にも──夏休みの頃から増している気がする。文化祭頃からずっとそんな感じだ。
必死さが見えないというか、余裕というか、大人の階段の上から一足先に見下ろされている気がするのだ。つまり僕の視線がブラックホールへ吸い寄せられる。
「──って。こーじ君……へんたい」
「うっ」
目ざとく気づいたありさがねっとりと囁く。
まんまと僕が罠に嵌められて、彼女は対面の席へ満足げに帰っていく。
もしかすると、彼女にとって最後の反撃という意味もあるのかもしれない。
それにしても一撃が重すぎるが。
「……ふぅ」
一息吐き、ピンク色の気が充満する空間から解放され、僕が佐紀とくっついた二の腕を引きはがそうとすると、佐紀の指が僕のシャツの裾をキュッと引っ張った。
暖房がかかった店内は僕と佐紀の顔を赤く染め、柔らかい佐紀の肩から伝わるぬくもりが僕の身体を循環してまた佐紀へと戻っていく。
「……何?」
「なんでもない」
僕がそう戸惑いながら問うと、佐紀はツンと乙に澄まして、「え? 何もしていないけれど」と言わんばかりの平静を装う。
「あっそう」
「……うん」
分かりづらいのが逆に分かりやすくて、僕はしばらくそのまま彼女にくっついていることにした。僕にとっても得な話だしな。
まあ逆に距離感が近すぎても機嫌を損ねられることがあるので、猫の心は秋の空ってやつ。
「初心だなあ、お前ら」
頭で手を組んで暢気に誠は言った。
「お前が言うかお前が」
確かに僕らは月兎神社での1件以来まだ1度も手すら繋いでいない。
下校中だって肩と腕がたまに触れ合う程度で、こんなにも密着したことが”この歴史上”にはない。
しかしだ、まるで自分が『経験豊富』とでも言いたげに僕らを茶化す誠は、夏休みから文化祭──佐紀と付き合っていた頃はタジタジだったじゃないか。
「いやいや。俺はもう達観してんのよ結局」
語りながら誠は自分と、そして隣のありさの皿に焼肉のたれを入れた。
「何言ってんのバカワネ……ってもう川根の方が頭いいのか」
連動するようにこぼれたたれをおしぼりでありさがふき取って、何事もなかったように会話が続いていく。まるで夫婦のチームプレイだ。
「……やっぱお前らなんか仲良くなってない?」
「ねえな」「ないよ?」
僕が彼らの異常な親密度の伸びに僕が疑問を呈すると、彼らは慌てる様子もなく毅然とした態度で否定した。
──おかしいなあ。
と胸の内の違和感を精査していると、佐紀が僕の肩を突いて離れさせる。
どうやらもう補給は十分らしい。
「じゃあお肉もまだ来ないし、卒アルの写真見て笑う大会やろーっ」
返す刀で佐紀は鞄から卒業アルバムを取り出して開く。
「それ10年後とかにやるイベントじゃない?」
「いいのー。ほらっ、これ2年の桜木。目が死んどる」
ケケケと僕の顔を覗き込んで佐紀は笑う。
それはキャンプの写真。画面に向けてピースを決める僕の顔は笑っていて、しかし目のハイライトが消えかけていた。そんなに深海魚みたいな表情だったのか。
「そんなに楽しくなかったの、こーじ君」
「まあ。色々あってな」
ずっと佐紀との思い出と、自分の現状を比べて嘆いていた暗黒時代。
「俺に言えばよかったじゃん」
「お前には迷惑かけたくねーの」
そもそも言えないよ。「未来から来ました」なんてさ。
「……なんかアホっぽいねー。マコトー」
話題は2つ隣の写真で大暴れしている誠に移った。
何故だか知らないがスプーンとカレー皿を持って、サッカー部員と決闘ごっこをしているところが激写されている。
「アホは一生モノらしいし」
僕は若干それを願いながら言った。
誠がこれでアホまで完治してしまったら正直やってられない。
ボスキャラってのは弱点があってこそ攻略可能なのだ。
「……俺はな、15か年計画でスーパーマンになる予定だ」
「なにそれ」
「今はまあアホでも馬鹿でもよくて、お前らと30歳になってまた会ったとき、超絶スーパーウルトラマンに俺はなっている、計画」
口調は知性の欠片さえ感じられないモノだったが、僕は誠がそれを成し遂げてしまうと何故か解っていた。”超絶ウルトラスーパーマン”が何かは知らないけど。
「おっしゃーっ。やるぞーっ」
と言いながら彼はトイレへ駆けていく。
「ホントに男子っぽいねー。マコト」
「アホで正直なだけなんだよね」
女子2人組が思い思いの感想を漏らし、僕はちょっとだけ悔しかった。
誠が帰ってくる前に”塩カルビ”が席に届くと、佐紀はアルバムを閉じ僕らはひたすら飲んで食べて沢山話す。
中学のこと、高校のこと、将来のこと。それは例えば他の生徒の恋バナだったり、髪を染めるか染めないか、高校で入る部活のことだったり、漠然と描いている将来設計。
それらをお酒に呑まれたかのように語り尽くした。
──本当に、”応援団”があってよかったと思う。
「マジで沢山食ったーっ」
「お腹いっぱいだねー」
食べ放題のコース180分をしっかりと使い切り、僕らは店の外へ出た。
この季節になればこの時間でも少し肌寒い程度で、熱気を溜め込んだまま退店した僕らは腰にジャケットを縛ったり、腕にコートを掛けている。
焼けた肉の香りが漂う店の前で僕らは少し屯した。
「もうこれで終わりかー」
佐紀がポツリとこぼした。
「またいつでも集まればいいじゃん」
「俺はまた部活が始まるから、そんな自由なくなりそうだけどな」
春を待ちわびるくすぐったい風は寂寥感を倍増させ、一息吸い込めば”新しい何か”を感じられるような希望が肺を満たす。
しかし新しい景色のフレームへ一緒に入ることは叶わず、僕らは別々のアルバムを作っていくわけで。
「──まだ、帰りたくないなあ」
佐紀は僕の顔をチラりと見ながら呟いた。
「だってよ、彼氏様」
「私達この後予定あるんでー」
ニヤニヤしながら誠とありさは僕らを茶化す。
「いやいや”応援団”組で残ろうって話じゃないの?」
なんなら僕と佐紀はいつでも会えるんだから。
そんな反論も許さずにありさと誠はまくし立てる。
「ごめ、マジで予定あるんだわ。悪いなっ」
「うん。本当に1年間ありがとうね」
「確かに! マジで楽しかったわ。いつでも遊び呼べよ~。行けるか知らんけど」
疾風迅雷、速きこと風の如く、彼らは僕らにさよならを告げて行ってしまった。
ちゃんと挨拶ができなかったのは悔やまれるけれど、この1年間の騒乱を考えれば嵐のような終わり方だって、寧ろ僕達らしいのかもしれない。
「あいつら、行っちゃったけど」
「本当にそんなつもりで言ったわけじゃないのに」
佐紀は苦笑した。普通に考えれば4人で残ろうって魂胆だよなあ。
苦笑いを返すと佐紀は僕から目を逸らして言う。
「でもさ。……まだ帰りたくないのは、本当だよ?」
夜の7時。佐紀。彼女と2人きり。まだ帰りたくない。
おさげの毛先が風に揺られて、店のネオンが眼鏡に反射する。
「……溜まってたお前の”貸し”、全部返済な」
僕だってまだ帰りたくないから。
「し、仕方ないなー」
そうして僕らは向かう。
──人っ子一人訪れないことに定評のある月兎神社へ。
**********
世界が終末を迎えた後の月兎神社は、異常な速さで雑草に囲まれつつあった。
寧ろこれまでこの神社のみが小奇麗に文明を保っていたという方がおかしいのだ。神様ってのは妙なパッシブスキルを持っているらしい。
僕たちは崩れかけた社殿の石段──2月のあの日に座ったように腰掛け、肩を並べてアルバムを覗き込む。
もちろん灯りなど一切なくて、月光とスマホのライトで照らされた写真は焼肉屋で見た時よりもぼんやりと僕の目に映る。
「今年が今までで一番速かったー」
「ホントに」
「タイムワープした前よりも?」
「そりゃあ。命が懸かってたし」
「あーね」
人里離れた……というのは表現がおかしいのかもしれないが、ここには木々のざわめきと、耳をすませば聞こえる遠くを走る高速道路の雑音しか存在しない。
どれだけ叫んでも気づかれない、そんな僕だけの──今は僕と佐紀だけの秘境。
「色々あったなあ。今年は」
「12月より前は去年ですー」
「それ揚げ足取りって言うんだぞ」
「4月、初っ端から”応援団”で一緒になって」
僕らは浮かぶ星座を数えるように、空を見上げ一緒に過去を追想する。
「そういえばどうして急に立候補したんだ?」
「……あれ? 私が立候補したんだっけ?」
「そうそう。柄じゃないのに珍しいなって思ってた」
月兎が”虹色作戦”などと言い出して。
「あー。アリサがさ、君のこと好きだったんよ。それで無理やり引っ張ったの」
なんだ、僕目当てじゃなかったのかよ。
「なんだ、僕目当てじゃないの? って顔してる」
「……!」
僕の顔を覗き込んだ佐紀がズバリと内心を読んでくる。
「あの頃はさ、残念だけど桜木のこと一切好きじゃなかったよ。なんか避けられてる感じであんまいい印象なかった。小学校の時はそこそこ喋ってたのに」
「まあ、それはさ」
「仕方ないって解ってるよー。”制裁”、でしょ? でも、今日の焼き肉屋のことは許してないからっ。アリサばっか見てー。別に私を見ろってことじゃないけどねっ」
佐紀はドーンと体の側面を僕にぶつける。
「ごめんて。そんなありさばっか見てた?」
「うん。……まあ、いいけど。君に浮気とかする度胸があるとは思えないからさー」
そう言って佐紀は拳を強く握って、僕らの力関係の優劣を示す。
自分がドMとは思わないけれど、彼女の拳の重さは信頼の重さのようで、ある種気持ちがいいのだ。僕は多分他の誰からもその快感を得ることはできない。
「その通りだよ。度胸とかじゃないけどな」
普通に好きなだけ。言わないけど。
「それならよろしー」
佐紀は満足してふんす! と頷いた。
「よろしーか」
お前がよろしーなら僕もよろしー。
スマホのライトをパッと消すと、本当に真っ暗になって何も見えなくなったので待ち受けだけつけておいた。写真はデフォルトの画像だ。
佐紀とのツーショットでも設定しておくべきだったのかもしれないけれど、恥ずかしくてそんな勇気は出なかったのだ。
「あ。……初対面で殴った話はしたでしょ?」
「とんでもないサイコ野郎の話な」
「あの時はマジで申し訳なかった」
「じゃあなんで今反省してないんですかね」
「そりゃ桜木だからよ」
理由になってないし。
淡い光に照らされてぼんやりと映る佐紀の顔と、くっきりと見えるようになった雲の流れる夜空が視界を彩る。
「それでさー。自然にパンチが出るぞおかしいな? ってなったわけじゃん?」
「そりゃ人間は自然にパンチ出さないようになってるからな」
「……チッ。一々ツッコんだら話が進まん」
反論がないなら僕の勝ちだが?
──ギュッ。
「ギブ。ギブ。……もう武力行使してるよ」
冷たくなった耳をつねられて僕は悲鳴を上げる。
悲しいことにここは人里離れた山奥。叫んでも助けは来ないのだ。
「いいから黙って聞いて。……って急に飽きたあ。話終わりっ」
何じゃそりゃ。
佐紀は立ち上がって深呼吸をする。
急に熱心になったり、スイッチが切れたかのように飽きたり、自由奔放に振舞う彼女の姿は時にその小さい体の何倍もの大きさに見える。
今の話の続きだとか、なぜ誠と付き合ったのかだとか、”Tik-Tak-Rock”同盟についてだとか、彼女と話したいことは山ほどあって、でも気が向いたときにしか佐紀は喋らない。
そういう面はたまに……よく敵を作ってしまうけれど、それが佐紀の最大の魅力だと僕は思う。
だから。
「まあ。いいか」
僕は月明りに照らされた彼女の横顔を眺める。
いつだって今を一番楽しんでいる、大好きな表情だ。
「なんか言った?」
「いいや、なんも」
「……変なの」
そう言って佐紀は僕と5㎝くらいの間隔を開けて座った。
……だから僕は無言でその5㎝を詰めてみた。
微かに触れた彼女の肩がピクッと反応して、段々とそのこわばりが解ける。
スリープモードに入ったスマートフォンが、真っ暗闇を演出して僕は夜空を見上げる。石段についた手の人差し指の先っちょが彼女の指先に触れていた。
月と、一等星二等星ほどまでしか見えない空が木々の間から望める。
午後10時半を回った頃だろうか。
しばらく僕らはお互いの体温を感じ、そして微妙な星空を無意味に眺めた後、静寂を切り裂いて佐紀が口を開いた。
「……ねえ、桜木。ちょっとスマホ貸してよ。チャット」
「まあ、いいけど」
浮気チェックか? 別にやましいことなど一切ないが。
スマートフォンを佐紀に警戒しながら渡すと、彼女は慣れた手つきで操作する。
『今日、友達の家に泊まっていくから
明日の朝帰る』
「そーしんっ」
ピピピッと女子特有のタイプスキルで文章を書き上げると、僕の母にそれを送信してしまった。
「何やってんだっ」
「アハハー」
スマートフォンを僕から遠ざけるようにしてニヤける佐紀へ、覆いかぶさるようにスマホ奪取を試みると──体格差から僕は佐紀を石段へ押し倒してしまう。
「うわっ」
「きゃっ」
腕を突っ張って自分の身体は支えたけれど、目と鼻の先には佐紀の目と鼻があって、加速した鼓動が送り出した僕の吐息が彼女の唇にかかる。
チェシャ猫のように気まぐれな佐紀も、今だけはまるでケージに囚われたようにピクリとも動かず、レンズ越しに僕の目を見つめる。
「あのさ──」
「──今日はちょっと。朝まで帰りたくないかも」
僕が口を開きかけた時、被せるように彼女は呟いた。
その震えた声は官能的に響き、頭がショートするように電流が走る。
「それって」
「……ん」
佐紀は目を瞑り唇を軽く突き出した。
白雪姫が王子様を待つが如く、死んだように動かない。
もうストップ高だと思っていた心拍数が再加速する。
──かわいいかわいいかわいいかわいいかわいい。
僕は覆いかぶさるように顔をゆっくりと近づけて──唇を合わせた。
──身体は密着して、しっとりとした感触が敏感な神経を刺激した。
「……なんか。変な感じだー」
数秒口づけした後、僕が起き上がると佐紀は仰向けのまま言った。
僕の下手くそなキスは彼女のメガネをずらし、乱れた茶渕のメガネと無防備に寝転がる姿は淫らに映り、悶々と僕の性欲を刺激したが、その先をする勇気も意思もなかった。
僕らはまだ中学生なのだ。
「変な感じ?」
「うん。実感が湧かないというか」
「階段すっ飛ばして上ったからな」
「なるほどね」
手も繋いでないしハグもしてないし。
「ねえ。起こして」
「はいよ」
「ありがとー」
僕は”わがまま女王”のように振舞う佐紀を、抱きかかえるように起こした。
柔らかい肢体をもろに感じる。本当に佐紀って小さいんだ。
そんなことを雑感していると出し抜けに、彼女は自嘲気味な口調で語り始める。
「……私はさー。君のことなーんも知らないのよ」
「何も知らないって?」
「桜木がもう一人の私と過ごしてきた3年間を私は知らない。……だから君が当たり前にしてくれる沢山の嬉しいことを、私は君に返せない」
「そんなこと──」
「──それが私は嫌」
ガンッ。
佐紀は僕の胸に頭突きをした。何度も喰らった優しい頭突き。
僕の鼓動を聞くように彼女は耳を心臓に当てる。
「だからさー。ずっと、一緒にいようね。大人になるころには、私だって君にとって嬉しいことを、多分してあげられるからさ」
「……おう」
僕は佐紀の頭を撫でる。
柔らかい髪の毛が指の間を擦ってくすぐったい。
「や、むちゃくちゃ恥ずかしーこと言ったわ。さっきのナシで」
佐紀は耳を真っ赤にして恥じらう。
「ナシにはならんよ。……ずっと一緒だ」
ダメ押しをすると真っ赤な耳がさらに赤くなった。月明りでも確認できる程だ。
「……うう。なんであんな中二臭いこと言ったんだろ」
「しょうがないね。……冬だし」
「確かに。冬だからしゃーなしだ」
そう理解不能な合点をして、僕らは顔を綻ばせた。
あわわ~。と佐紀は欠伸をする。
「もう、眠くなってきたわー」
そう言いながらとすん、と佐紀は僕の太ももへ横顔をダイブさせた。
──もしかして僕の膝の上で寝る予定だろうか。
「桜井さん?」
「んー? おやすみー」
呼び掛けると安心しきった顔で目を瞑ってしまった。
僕は開けてはいけないパンドラの箱を目の前にした気分になる。
警戒心0の顔がすやすやと眠っていると、彼女の僕に対する信頼度と生物としての本能がせめぎ合って、思考CPUのキャパがオーバーしてしまうから。
──お前の無防備な姿を襲いたくなってるってことをお前は知らないんだよな。
「……おやすみ」
まあでも。いつかでいいよ、それも。
今は幸せそうな寝顔を見られるだけで十分なのです。
邪魔そうだったのでメガネを外してあげると、くすぐったそうに「ありがと」と言った。もう一度僕は頭を撫でた。
「髪がくしゃくしゃになるだろー」
「ゴム、外しといたほうがいいか?」
「よろしくー」
髪の毛を引っ張らないように慎重におさげをほどいていく。
真っ暗闇だというのに、世界が虹色に色づいていく。
これから数時間もすれば春めいた風が木々の隙間を縫ってやってきて、僕らに季節の変わり目を告げてくれる。そうさ、僕の春はここから。
──長かった冬を超えて。じきに、ずっと続く春が始まるよ。
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