11月:午後十一時、彼らは慰め合う。
「うんっ。正直このクラスどうなることかと思ったけど、なんとかなりそうね。サキちゃんいるし」
文化祭前日、音楽教師は僕らの練習を聴いてそう言った。
「ちょちょっ、俺忘れてないすか?」
「川根君が一番心配だよ。最初合唱になるか不安だったし」
相変わらず誠はいじられ、彼は様式美のように食い下がる。
「でも俺も上手くなったことなーい?」
「そりゃ愛するカノジョの為に頑張ったんでしょ」
教師がそう茶化すとボッと誠の顔に火が灯り、クラスがドッと笑いに包まれる。
僕がチラリと佐紀の方を見ると、彼女は苦笑いして首を傾げていた。
佐紀が何を想い、何を思っているのか僕は知らない。
「こーじ君、こーじ君」
「ん?」
放課後帰り支度を済ませた時、ありさは僕の前にやってきた。
「最近、お変わりない?」
「……? 元気だけど」
「……明日は文化祭だね」
僕の答えを恐らく聞かずにありさはまた問いをぶつけてきた。
「そうだね?」
摩訶不思議なありさの立ち回りに警戒して、僕は当たり障りのない返答をする。
彼女は長い黒髪を指で梳き、胡乱な態度を僕に見せる。
「お昼とかさ、ごはん食べるじゃん。人間」
……?
「そりゃまあ。生物だし」
「だよねっ。人間だけじゃないよね」
「でもお昼に決まって飯を食うってのは、人間が獲得した文化の一つだよな」
「だねー。そもそもサバンナじゃ決まった時間にご飯が……ってじゃなくて」
話を逸らされたことに憤慨してありさは僕を軽くにらむ。
ここで殴ってこないだけ桜なんとかさんよりかなり良心的だ。
そして一度彼女が息を吸って。
「──明日の弁当さ、私に作らせてくれないかな? 2人分」
悪いようにはしないからさ。と笑う。
「……ありがと」
僕は了承しながらも、なんとなく佐紀の視線を感じて後ろめたくなっていた。
別に好きでもないのにねぇ。
**********
制裁:僕はもう君と付き合えない
規約
・桜木浩二が桜井佐紀と交際することを禁じる。
この規約が破られた時、運命の修正が働き桜井佐紀は死亡する。
**********
「大変なことになった」
中学最後の文化祭当日。
朝一番に焦燥感を持ってゴリラが二足歩行で駆けてきた。
ぼちぼちとクラスメートが教室へ集い、これから最後の声出し練習というところで一体どうしたのだろうか。
「どうしたんすかー? 離婚の危機?」
男子生徒らはどうせ大したことじゃないと高を括りゴリラを茶化す。
しかし先生の二の句に僕らは驚愕する。
「──川根は今日、学校に来れないそうだ」
なんだって。
クラスがざわめく。なんたって、誠は僕らにとって唯一無二の指揮者。
「じゃあ、どうするんです?」
「……代役を、立てるしかない」
代役って言ったってねぇ。
ホイホイ出てくるものじゃないし。
そんなネガティブな声がちらほらする中で。
「だったらこーじ君がやればいいじゃん。休み時間ふざけて指揮やってたよね?」
ありさの発言にまた教室が雑音に包まれる。
──え、僕? 確かに”前史”の記憶を辿って遊んでたけどさ。
そんな適当な推薦文に誰も賛同したりはしないだ──。
「確かに、コージの指揮は様になってた」
「桜木君ならいいと思うよ」
「マコトとも仲いいしな! もうコージしかねえ!」
お前ら自分がやりたくないだけだろっ。
しかし僕を除いたクラスの総意を汲んでゴリラは僕に勧める。
「どうだ、どうしてもやりたくないなら辞退してもらっても構わんが。体育大会のこともある。……ここらで挽回しておく気にはならんか?」
体育大会のことを引き合いに出されて、薄情なクラスメートからはヤジが飛んでくる。──お前らのせいで優勝できなかったんだぞー。でもいい勝負だったぞー。
……うるせえやい。
「……分かりました」
流石だぜー。かっこいいー。とクラスから歓声が飛んでくる。
Noの選択肢を用意しなかったのはお前らだろーが。
「助かる。じゃあ桜井を主体にして最後の練習頑張ってくれ。桜木、頼んだぞー」
がっはっは。と鳴き声を残してゴリラは去っていった。
それにしても、あの誠が登校を諦める程の熱って本当に大丈夫かな。
多少の体調不良じゃ音を上げることなんてないだろうし、単純に彼の安否が気になる。
「じゃあ、やろっか」
ありさはクラスに呼び掛けながら、したり顔で僕に微笑む。
指揮を押し付けてきた彼女に一言二言──いや三言は不満を言いたかったが、僕はその感情を自分の内に留めた。
僕の胃袋は彼女が物理的に握っているのだ。
**********
我が校の文化祭は午前中が”歌声コンクール”、午後は演劇だったり、有志のバンドだったり、吹奏楽部の演奏だったりを発表する所謂”出し物”である。
文化祭は見て楽しむというのが今年のプランだったのだが、それも突如巻き込まれたアクシデントによって粉々に砕かれた。
何がアレって問題は。
──心の準備が全く間に合ってない。
せめて2、3日前にはピンチヒッターを通告して欲しかった。
そりゃあ野球だって突然代打が送られるけどさ。
1年生、2年生の合唱を聴きながら、僕は揺れる精神を落ち着ける。
「なに緊張してんの?」
「……」
隣の佐紀が僕に囁く。舞台のライトが反射して茶渕の眼鏡が淡く光っていた。
”歌声コンクール”に限り指揮者と伴奏者が隣り合って座るのだ。
「……リズム取れなくなったらさ、私の伴奏に合わせて」
そして勝気な表情で佐紀は言った。助けてやるよ、と。
──アホ言え。
「桜井、ちょっと手ぇ出してみ」
「手? ──わっ」
佐紀が出した手に僕が人差し指で『人』と書くと、彼女は小さな悲鳴を出す。
「……セクハラ?」
「最近の司法厳しすぎるよっ。……じゃなくて。膝震えすぎ、お前」
「あっ……アハハ……」
バレちゃうかー。と佐紀は苦く笑う。
その震えを抑えようとする小さな佐紀の手も、まるで蛇に睨まれた蛙のようにより小さく見えて、なんだか自分の中にあった怯えのようなものが段々と緩んでいくのを感じる。
勇気が出てくるのだ。
「……大丈夫だって。僕の指揮だけ見てれば。合唱の声なんて聴かなくても、余計な事考えなくてもいいからさ」
僕がどうして頑張れるのか。過去に月兎が語っていたのを思い出した。
あの時も、この時も、佐紀の為に……。
でも隣にいる佐紀は、僕が好きな佐紀じゃない。
佐紀、佐紀、佐紀。佐紀がゲシュタルト崩壊して、姿形が全く同じのAとBというボールを全く同じ袋に入れてしまったように、二人の桜井佐紀が混ざり合う。
気持ち首を横に振って自分に「この”佐紀”はあの”佐紀”ではない」と言い聞かせるのはいいものの、混ざり合った袋から取り出した”佐紀”が、一体どちらの佐紀を指しているのか全く分からなくなってきてしまっているのだ。
「……なんか、生意気だなー。桜木のクセに」
佐紀は肘で軽く僕の二の腕を小突く。
「桜井こそ「私の伴奏に合わせて」なんてらしくねー」
「……君にも言えるでしょ、それ。……あーあ、マコトだったらなー」
「急に惚気るのやめてよ。まあアイツ、本番の強さは折り紙つきだけど」
「別に惚気てないし。どちらかと言えばただの信頼度だし」
寧ろ傷つくわ。
──次は、3年3組です。
アナウンスが体育館に響けば、僕らはもう舞台へ向かわなければならない。
「じゃっ。最優秀賞を超えた賞、獲りに行こっ」
佐紀は自分の中に抱えた緊張を振り払うように勢いよく立ち上がる。
最優秀賞を超えた賞……ね。まだ足が震えてんぞ。
「おう」
僕と佐紀は3年ぶりにハイタッチをする。
掌が覚えていた感触はあの頃のままであった。
僕はライトに照らされた舞台の上でお辞儀をする。
観客席を見ている余裕はない。隊列を作るクラスメートに向き直り、一度深呼吸をしてから足を開くと、彼らも同じく静かな音を立てて”休め”の姿勢を取る。
そして次に佐紀を見る。
「……っ」
僕は佐紀のまっすぐな瞳に面を喰らった。
彼女は、僕だけを見ていた。僕の腕だけを見ていた。
少し口角を僕が上げれば、佐紀も同じだけ微笑み返す。
呼吸が合うような感覚がする。
僕は手を振る。ピアノが鳴る。
この曲は単調な4拍子、しかし抑揚のつけ方がキモ。
あの日──”前史”のこの日この場所この時間──初見プレイで見つけた反省点を一つ一つ潰していく。
そう、今こそ強くてニューゲーム。
美しく流れる序盤が過ぎていく。テンポは体に刻み込まれていた。
級友の旋律がたゆたう体育館に、絶妙に溶け込んだ佐紀のピアノ。
あのゴリラには4拍子を振っていればいいと言われたけれど、それだけじゃ物足りない──サビ前はもっと情熱的に、一拍一拍をもっと大切にっ。
ビシバシ腕を上下に振れば、クラスメートが驚きの表情を見せる。
「そんなことできたのか」と目でそう言っている。
──そしてサビ。
一気に盛り上がるこの曲の顔。
誠の指揮を見て思ったのが、まだこのクラスは力をセーブしているということ。
彼の正確で型にハマった四拍子は素晴らしい努力の賜物と言えよう。
しかし、まだまだ、もっと、もっと大きなエネルギーが生み出せる。
僕はうんと背伸びをして、目いっぱい手を伸ばして「もっと腹から声を出せ」と彼らの歌声に訴えかける。
呼応して彼らはより大きく口を開け、広い体育館に反響するほど声量が出る。
そうだ。教室ではあんなバカ騒ぎしているのだから。
──しかし今度は佐紀のピアノが負けている。
「あ、れ……?」
そう思った刹那、鍵盤が奏でる音圧がぐっと上がったのだ。
あまりの適応の速さに佐紀をチラリと見れば、彼女もじっとこちらを見ていた。
つまり……佐紀は僕の意思を僕の腕から全て読み取っているのか?
僕が穏やかに手を上げれば、佐紀が伴奏を美しく奏でる。
僕が激しく手を下せば、佐紀が情熱的に鍵盤を叩く。
──まるで一心同体。
佐紀の心の内側にまで潜り込んだかのような体験に僕は気づいてしまう。
精一杯目を背けようとしていたことから逃げられないことを悟る。
そう、
──桜井佐紀は、桜井佐紀なのだ。
ここ数か月”前史”の佐紀と何が違うのかを考え続けてきた。
姿形が同じで、声も同じ。癖や仕草も同じで、彼女は僕に勇気をくれる。
それでも僕はずっと無視をしていた。本当はとっくの前に解っていて、また”花火事変”の時みたく僕は真実を直視することから逃げていた。
本当は。本当の本当は。
僕は桜井佐紀が好き。時間を巻き戻しても、桜井佐紀が好きなんだ。
通じ合った魂が言っている。桜井佐紀は桜井佐紀だと言っている。
時間を巻き戻すならもう一度、今度は記憶をなくしてタイムワープをしたい。
贅沢は言わないから5分間だけでいい、この曲が始まる前まで。
そうすれば僕は機械的に四拍子を振るから。こんな気づいてはいけない感情には触らないようにするから。
しかしそんな超常現象が起こるはずもなく僕は情熱的に指揮を振り続ける。
だって楽しくて仕方ない。人生で一番快感を得ていると言ってもいい。
本当だ。男性パートに屈みこんで腕を振れば、地響きのような声がホールの底から湧き上がってくる。女性パートに大きな身振りで背伸びをすれば、汽車の汽笛、あるいはファンファーレの如く芯の通ったファルセットが返ってくる。
最優秀賞のその先へ、僕と佐紀は笑いながら演じた。
──そして曲が終わり、体育館が張り裂けるような拍手に包まれた時、クラスメートのやり遂げた顔の前で、僕はこれまでにないくらいの罪悪感に苛まれる。
僕の心を突き刺す拍手はしばらく鳴りやまなかった。
**********
制裁:僕はもう君と付き合えない
規約
・桜木浩二が桜井佐紀と交際することを禁じる。
この規約が破られた時、運命の修正が働き桜井佐紀は死亡する。
**********
僕は共に舞台から降りた佐紀と喜びを分かち合うことをしなかった。
喜ぶ気分にはとてもじゃないがならなかった。
──次は、3年4組です。
興奮冷めやらぬ僕のクラスメートも、次のクラスが合唱を始めるときには叫びだしたい情動を抑えながらちゃんと所定の席に座っていた。
しかしどうしても居たたまれない僕はゴリラに「トイレ」とだけ伝え外に出る。
熱気が立ち込めるホールの中から、肌寒い秋風が通りぬける外の温度差に悪寒がして僕を身震いさせた。
「さっむ」
ズボンのポケットに手を突っ込んで歩いても、自責の念が内側から僕を冷やす。
とりあえず校門を出てみようか。ああ、誠のお見舞いでもいい。
「いや」
──それはできない。のこのこと誠の前に顔は出せない。
「最低だ……マジで」
よりにもよって親友の彼女に恋をしてしまったのだから。
こんなことならば誠を応援せず徹底的に邪魔すればよかったのだ。
「……違う、それは違う」
首を横に振って自分の邪な考えを掻き消す。
どうしても僕が貫かねばならなかったこと──『2人の桜井佐紀は別人』だと認識する自分自身への命令を遂行できなかったこと自体が愚かなのだ。
でも具体的にいつどこを間違えたかなど見当もつかない。
自責と共に僕が校門の少し手前で項垂れていると。
「──あれ、こーじ君。どしたのここで」
ありさが通学リュックを背負ってやってきた。
「……ありさこそ」
「あ……これ」
僕の顔を見たが早いか、彼女は僕にハンカチを差し出す。
「なんで?」
「涙が、出てるから」
あれ?
受け取ったハンカチで目じりを拭えば、そこにシミがついていて驚く。
「……なんでだ?」
「気づいてなかったんだ」
「うん」
女子に泣き顔を見られるのはすごく恥ずかしくて、僕は強引に学ランの袖でごしごし顔を擦った後、涙声にならないように質問する。
「で、どうしてここに? 帰るん?」
「こっちの台詞だよこーじ君。……私は、うん。体調不良でさ」
見たところありさに異変はなさそうだが。
熱がありそうな様子もなければ、怠そうな雰囲気もない。
「大丈夫か?」
「うーん。ちょっと、ダメそうかも」
そう言ってありさは校門を出る。
「そっか。お大事に」
僕が別れの挨拶をすると、背を向けていたありさは左足を軸にしてターンする。
セーラー服のスカートがふわりと持ち上がって、一瞬パニエのようなボリュームを演出する。
そして彼女は口を開く。
「あのさー、こーじ君。もう一度だけ訊くけど。本当にサキのこと好きじゃない?」
僕は目を丸くした。突如喉元にナイフが当てられたような感覚がしたからだ。
ありさは僕のその反応から何を読み取ったのか一度目を伏せる。
木枯らしになびく彼女の綺麗な黒髪が太陽に反射して煌めいていた。
「こーじ君が2年生の教室で『それから』を読んでた時、同級生にこんなに趣味の合う人がいるとは思わなくて、嬉しくなった。それからかな、こーじ君のことを好きになったのは」
「……」
僕は何も言えずただ頷いた。
ありさの表情は、今にも散りそうな桜の花びらのように色づき、彼女は一歩ずつ僕に向かい近づく。
「私のことは嫌ってもらっていいよ?」
「どうして──」
嫌う理由なんてないじゃないか。と言おうとした時、
──ありさは僕の身体に収まるように僕を抱きしめた。
「だって。ファーストハグ、取っちゃったから」
しっかりと腰に手を回し僕の胸に頬を押し付ける。
シャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、押し倒さんとする勢いで僕に密着する。
──。
そうして数秒経ってから彼女は名残惜しそうに僕を開放した。
「本当に、ごめんね」
そして散ってしまった桜のように儚く笑う。
僕はただ茫然と枯れた桜並木を行くありさを見つめることしかできなかった。
最後まで彼女の足取りは体調不良者のそれには見えなかった。
**********
僕はありさと別れた後、何度も顔を洗い”いつも通りの僕”をもう一度作った。
「ずいぶん長いトイレだったな」なんてゴリラに問い詰められたけれど、人のトイレの長さを嗤うのは教育者にあるまじきことなので、僕は「はいそうです」とだけ答えて体育館に戻った。
”歌声コンクール”では僕らのクラスが最優秀賞。
総評で音楽教師が「今まで聴いてきた中で一番のクラス」だと太鼓判を押してくれたけれど、やっぱり”最優秀賞を超える賞”なんてものはないらしい。
クラスメートはそんな高望みなど知る由もないので表彰式でバカ騒ぎをするが、僕がふと佐紀の方を見ると彼女も不満げな顔をしていた。
誠からのチャットに気づいたのは、文化祭の演目が全て終わり教室で帰り支度をしている時だった。
『お前が指揮してるビデオ見た
おつかれ
サキいるなら通話したいんだけど』
「……」
『りょーかい
ちょいまち』
僕はとても後ろめたい気持ちになった。
恐らく顔を突き合わせて話していれば僕の狼狽が誠にバレてしまっただろう。
しかしスマートフォンの無機質な文字列は平静を完璧に装う。
「桜井。彼氏から」
──仕様がない。覚悟を極めましょう。
『それから』で代助は三千代と不倫をすることに決めたけれど、僕はそうはいかない。交際したら佐紀は死ぬ。これが世界の理だからだ。
現状、佐紀が誠と付き合ってくれているということがストッパーとなって、溢れだしそうな恋慕を心の内に押しとめることができていた。
「おっけー。スマホ、後で返すわ」
「ん」
佐紀にスマホを渡したとき、彼女の指と僕の指が軽く触れた。
彼女は気づかなかったのか、気づいて些事だと無視したのか、さっさと電話するためにトイレへと向かってしまった。
──はぁ。ダメだ、心臓がバクバクする。
過熱状態の水が突沸したかのように、僕の中で燻っていたその恋心が突如燃え上がったものだから、突然現れた感情についていけない身体が悲鳴を上げている。
3年前も同じ指先に触れていたハズなのにまるでおかしい。
盲目の少年が初めて世界の色を知ったかの如く、もっと彼女に触れたい、話したい、独り占めしたい──欲求が溢れて止まらない。
そして何分経っただろうか、僕が机の角を人差し指で数百回たたいた時、佐紀はヘラヘラした顔をして帰ってきた。喜んでいるわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、佐紀検定2段の僕からすれば『当惑顔』だ。
「どうだった?」
ご主人様が返ってきた子犬のような仕草だったかもしれない。僕はバッと音が出るくらいの速度で彼女に問うた。
「うーんとね」
佐紀はおさげの片方を指先で弄る。
「──フラれちゃったよ。マコトに」
「は……?」
昨日まで「サキにかっこいいとこ魅せるぞ~」なんて意気込んでいたのに?
熱で頭をおかしくしてしまったのかもしれない。
──とにかく僕は誠と話さなければならない。
「これで私もバツイチだね」
「え、それでいいの?」
だって”お試し”でも付き合ってたじゃん。そんなあっさりするものなのか。
「……いいの。マコトのこと、最後まで恋愛的な”好き”にはなれんかったからさ」
寂しそうに佐紀は呟いた。
いや、僕はそんなの認めない。
「……ちょっと誠と話してくる」
「うん」
佐紀を置いて僕はトイレへ向かう。
誠に対して僕がどういう感情を持っているのか、何を誠に話そうとしているのかはまだ頭の中で纏まっていなかった。
しかし『誠が佐紀をフッたから、今佐紀はフリーだ』と手放しで喜んでしまえるほど、僕と誠の繋がりは薄くないのは確か。
だから僕が誠にコールしてまず一番に言うべきは。
『もしもし』
「──何やってんだよてめぇはっ」
声量は控えめに、僕は誠に怒鳴りつけた。
第一に”誠の恋路応援隊”隊長として、勝手に諦めた誠に対して怒り心頭であった。
『……俺、ありさからビデオ見させられた』
「あ”ぁ?」
『……俺はお前に負けたくなかった』
誠は覇気なく語る。熱が出て弱っているところに今の状況、まさしく彼にとって泣きっ面に蜂というべきだろう。
「だったら」
『でもサキは俺と付き合うべきじゃないって思うわ。少なくともまだ』
「は? オトナぶってんじゃねぇよ。……付き合えてるくせに。簡単に手放すん」
『──うるせぇ!』
ゴホッ。ゴホッ。スピーカーの奥からせき込む音が聞こえる。
『……どうしようもないだろそんなの。……あの合唱。……まるでお前が伴奏しているように見えるんだ。……そんなハズないのに。そんなの見せられて、どうして「俺がサキの彼氏だ」なんて言えんだよ!』
は?
「無理してでも言えよっ! ……そこでどうして意地張らねえんだよ。どうして簡単に諦めるんだよっ」
だってお前らは望めば付き合えるじゃん。
妙な”制裁”で一生付き合えない境遇を考えたことがあるのか。
『……めてねぇよ』
その声はほとんど空気のような掠れた音だった。
「ああ?」
『今は譲るっつってんだ馬鹿野郎! ……俺は、お前よりいい高校行く。お前より金を稼ぐ。お前より何でも上手くできるようになる。その時、俺は……』
ゲッホ!
『──お前に勝ったって言えるんじゃないか?』
誠は息を切らしながら言い切った。
そのあまりの迫力に僕は端なく壁にもたれかかる。
誠はどんなときもまっすぐしか知らない。
「どうしてそこまで」
『……そりゃ、俺らがダチだからだろーが』
その声の奥からすすり泣くような音がした。
それは誠からではなく、誰か隣にいる?
『今度は俺が応援する番だ。サキが、好きなんだろ?』
──ドクン。
ああ、これが”制裁”か。
まっすぐに僕を見てくれる”ダチ”に嘘を吐かなくてはならない。
それが何よりも辛いことだった。
「いや、それはまだ。わからないんだ」
すんなりと偽りの言葉が出てきて吐気がする。
『……そうか』
「ああ」
そして通話が切れた。
電話の奥からは最後まですすり泣く声がしていた。
雑な推測をするならば、今誠の隣にはありさがいるのではないだろうか。
だから何、って話だけれど。
教室に戻れば佐紀はもう帰ったらしい──誰も残っていなかった。
空腹が僕の無力感を倍増させ、二階の教室から校庭を望めばこのまま飛び降りていなくなってしまいたくなる。西日が差し込んで視界が霞んで見える。
一つの恋心の発露が、沢山のモノを壊していった文化祭。
──うん、しかしまたじき冬になるよ。
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