8月:鉢合わせた感情と『それから』

「桜木クン。君は自分が受験生だってことを分かっているのかい?」

 僕は例の如くペンを回す。月兎は宙に浮く。

 参考書は白紙、買っただけの問題集が机の隅に積み上げられて、受験生たる雰囲気を醸す。

「……まるでいい神様みたいなことを言うね、月兎さま」

「”前史”の方がどう考えても勉強してるから心配なんだ」

 僕のことをどれだけ知ってるんだアンタは。

 もしかして僕のこと好きなのかな。

「……まあ、あの時は一応目的あったし」

 冷房が効いた一人部屋、僕は完全に燃え尽き症候群に罹っていた。

 夏の大会からそのまま夏休みに突入したはいいものの、八月に入ってもなお受験モードに切り替えられていない。

「考えれば君の”前史”において桜井佐紀がどれほど偉大だったか」

 本当になー。

 受験勉強とかこつけて会っていたから、一応それなりに勉強はしていたのだ。

「それは間違いね―な。感謝しとこ」

 チャットアプリに『あいがと』とだけ書いて送る。

 直ちに既読がついて、そして返ってくることはなかった。

「──チッ……つれねーなあ」

「意味不明の怪文書送る方もどうかと思うよ」

「にしても既読スルーよ。既読スルー。現代社会において重罪っすわ」

 暇なら少しくらい付き合ってくれてもいいのに。

 ポーイ。

 スマホをベッドへ放り投げる。

「……随分と仲良くなったもんだね」

「まーな」

「ボクは結構怖いよ。近づきすぎているような気もする」

「特に、問題はないと思うけどな」

 最強の防護壁、”Tik-Tak-Rock”なるものがあるので、佐紀と付き合うルートというのは今のところ見えない。

 僕は誠の恋を積極的に応援していこうと決めたし、そもそもこの世界の佐紀はあの桜井佐紀ではないと、何度も自分の中で結論がでている。

「そうかい。別にキミがそれならいいけれど」

「何か言いたそうじゃん」

「いや、いいよ。ここからはボクの都合だからね」

 月兎はくるくるーと天井から螺旋を巻いて机に落ちていく。

 ……もうおやすみの時間か。

 この神様、一に睡眠、二に睡眠という程には睡眠好き。

「……月兎さまの都合? なにか悪いことでもあるの?」

 そう訊くけれど返事は返ってこなかった。

 ──神様が寝るってなんだよ。

 そんな体たらくで神様が務まるのかと問い詰めたくもなるけれど、事実成り立っていないのがあの月兎神社の惨状だ。

 僕はストラップを一撫でする。

 突然一人ぼっちになった部屋はいつもより広く感じた。


 ジリジジジ……。

 ──蝉時雨が鳴るだけの空間に取り残されると、あの夏が恋しくなる。


 一年生。初めて手を繋ぎたいと思った夏。

 二年生。初めて手を繋いだ夏。

 三年生。慣れた風に佐紀が僕の手を引く夏。


「おやすみ、月兎さま」

 誰にも繋がれなくなった掌に、僕はどこか物足りなさを感じていた。 



 **********



「やっぱ夏と言えば花火だな」

 老若男女がそうしているように浴衣を着た僕らも河原に腰掛け、空に打ちあがる色とりどりの華を眺める。

 彼女の小さな右手は、すっかり僕の手のひらを特等席に指定して、我が物顔で収まっていた。

「……で、模試の結果はどうだったの」

 こういうムードの時こそ大人しく感動してくれればいいものだが、佐紀は痛いところは逃さず突いてくる。

 ──実はあまり芳しくなかったのだ。

「ま、まあまあかな」

「落ちて違う高校行ったら、先輩とかにすぐ目移りするからね」

 佐紀は頭を僕の肩にぶつける。

「……それはいやだなあ」

「嫌なんだ」

「だって君は僕の彼女じゃないですか」

「つまり?」

「すきーだよ、佐紀」

 掌の中の彼女の手がピクッと震えた。

 言いなれていない言葉はやっぱり変な発音になるな。

「……も一緒に来ようね」

 佐紀は上を向いて言う。


「……当然。次は制服デートな」


 ──この時の僕たちは来年が来ないことを知らない。

 **********


 

『行こうぜ! 祭!』

 誠からのチャットは実に簡潔なモノだった。

 毎年顔を見るのが嫌になるほど遊び倒す彼も、佐紀と同じ高校を目指すとかどうとかで、夏期講習に通い始めてからは連絡を取ることもなくなっていた。

 そういう面において川根誠という人物は、”何かに燃えていないと落ち着かない”性格だから、生きやすくて羨ましいと思うし、純粋に尊敬する。

『桜井はちゃんと誘ったのか?

 なんなら2人で行って来いよ』

 正直僕はあまり夏祭りへ行きたくない。

 あの場所には蘇る情動をたくさん置いてきてしまったから。

 ピコン。

『馬鹿野郎か? そんなのどうやって間を持たせればいいんだよ』

 バカはお前だクソ野郎。

『大体二人で間を持たせられなくてどうやって付き合うんだ』

『うるせえ

 とにかくもう誘ったから

 ありさも来るぞ

 ちなお前も来ることになってる』

 ポコン。ポコン。ポコン。

 もう誘ってんのかよ。

『……今日、告るんだろうな

 じゃなかったら行かない』

 半分は「いい加減覚悟決めろ」という発破のつもりで送る。

 もう半分は純粋に行きたくない感情。

『もちろんだ』

 ポコン。

 即そのメッセージが帰ってきて、僕はしばらく空目を使い天井を見つめる。

 ──そうかい。

『行くわ

 何時?』

 まさか昼の時間からってことはないだろう。

 だからそう急ぐ必要もないのだがとにかく、に着られる私服を探す。

 女っ気のない3年間はそう私服に気を遣う必要もなかったから、ジャージとスポーツウェアが僕の正装であったのだ。

 ──ポコン。

 僕はスマホを手に取る。


『親父』


 そしてスマホをベッドに投げる。

 もう寝ようかな。 



 **********



「あぢい」

 祭り会場の待ち合わせ場所へ一番に到着した僕は、狂ったような日本の夏の暑さに辟易としていた。

 頭がなんかふらふらするし、変な汗出てくるしダメだわ、これ。

 あまりにも外に出ていなさ過ぎて、外界にまだ体が適応していない。

 ──ちょっとくらい走るか。……明日から。

 夏の陽も相当傾き、暑さのピークは過ぎたはずなのに、半袖半パンを貫通する温まった空気の塊が僕を蒸す。

 耐え切れなくなって僕は自販機でサイダーを買い、日陰の駐車ブロックの上に腰を掛ける。

 周りを見渡せば屋台の景品を持って走り回る子供たちや、クソ暑いってのに腕まで絡ませて歩くカップル、甲高い声を響かせてマスコットに群がるクソガキ共──そんなに捲ったら中身が見えちゃうでしょうが。

「なんも変わんねーな」

 今ふと後ろを向いたら、佐紀が「ゴジラにストーカーされた」などとくだらない言い訳と共に表れて、一応遅れたのを悪いと思っているのか自分から手を繋ぎに来る。

 そんな景色が見えたっておかしくない。

 僅かに地面に浮いた陽炎が、寂しがっている僕の手のひらに付け込んで、存在したはずの幻想を見せる。

 だから祭になんか来たくなかったんだ。

 

「──待ったー?」


 あの夏の幻聴が聞こえたその声のまま、幻覚が見えたその姿のまま佐紀は現実にやってきた。

「……さ、ぁくらい」

「また佐紀って言いそうになったでしょ」

「間違えたんだ。また」

「なんかこしょばいよ、こっちからすると」

 そう言って佐紀はおさげの片っぽをいじる。

 彼女の衣装はもちろん気合の入った浴衣などではなく、この前見たようなホットパンツにTシャツの組み合わせ。

「谷口は一緒じゃないのか」

 ごまかすように僕は訊く。

「あー、ありさ。期待しててよ、すごいから」

 何がすごいのか全く見当もつかない。

「そうかい」

「かわねは?」

「知らね」

 ここまで一緒に来ようかと思いチャットしたけれど、既読さえつかないのだ。

「そっか」

 僕らは暑さからか黙りこんだ。別に話すこともないし。

 誠は5分くらいしたらやってきた。

「──待たせたな」

 浴衣を着て。

 いや浴衣て。

「ちょっと作戦タイム」

「なにそれ」

 怪訝そうに睨む佐紀を横目に僕は誠を連れ出していく。

「待たせたな」

 誠はキめた声で言う。

 低くて良く通るボイスはゲームの声優に適役だ。

 ……段ボールとか被るのがいいんじゃないかな。

「あのさ、周りに浴衣着てる中学生男子いるか?」

 女子は結構浴衣着ているけれど、男子は全くいない。

「いないな」

「やる気があるのはわかる。けどTPO的に浴衣って逆にアウトじゃない?」

 それじゃ空回りだよ。スポーツウェアの方が100倍マシだ。

 寧ろ、がっちりとした体形の誠にはベストと言えるだろう。

「それはどうだか」

 僕の憂慮をものともせず、誠は楽観して佐紀の下へ向かう。

「桜井、急な誘いですまんな」

「全然いいよー。私も暇だったし」

 お前勉強できるもんな。なぜだか。

「かわね浴衣似合ってるじゃん、いいね」

「お、おう。ありがとう……」

 誠は急に褒められて言葉尻がすぼんでいく。

「あとはありさだけかー」

「何やってんだあのバカリサ」

 誠はぼやく。

 サッカーの時は視野が広いのに、日常生活ではそうでもないらしい。

 川根、後ろー。

「──誰がバカリサよ」

「うおっ!」

 噂をすればなんとやら、谷口は影から這い出てきたように現れた。

「……遅れてごめんね」

「……」

 しおらしく謝る谷口に僕は思わず息を吞んだ。

 紺色の生地に花弁が散りばめられた浴衣を彼女は身に纏っていたのだ。

「その浴衣かわいーっ」

「……ありがと、サキ」

「ねね、桜木も何か言いなよ」

 すぐに僕に飛び火させる。

「に、似合ってるんじゃ、ないか?」

「そんなんじゃモテないよー。ちゃんとかわいーって言ってあげなきゃ」

 ……余計なお世話だ。

 しかしなんだ、本当に似合っている。

 谷口の落ち着いた雰囲気はピンク系の衣装より、シックな色の方が合う。それに真っ黒なロングヘアに差された赤色の飾りがピンポイントで映える。

 ただこれ以上は褒め慣れていないのでもう一人の男子に投げることにする。

「なんで僕だけなんだよ。ほら、誠っ」

「お、俺っ?」

「ちょっとありさと隣に並んでみてよ。浴衣ップル」

 すかさず佐紀が茶化しに入り、誠は思考回路がショートした。

「俺がありさとカップル? いや、そんなわけが。浴衣ップル?」

「何で川根が真に受けてんのよ。サキもこれ以上茶化さないで」

「くくっ……川根っ。面白過ぎる……」

 ──誠と佐紀って相性最悪4倍じゃない?



 **********

 


「ねえ、ねえ。こーじ君。ねーえ」

 ありさは猫撫で声でもって、本を読み進める僕の邪魔をする。

 どちらかと言えば、飼い主に構ってもらいたい犬みたいな感じだけれど。

「……小説読んでる間は相互不干渉ルール」

「久しぶりの休日にそれは冷たくないー?」

 不満そうに僕の隣にピタリと引っ付いて座る。

 ──僕が話しかけたらいつも怒る癖に。

「ん」

 それでも僕の甘さというか、結局僕は本を畳んで彼女を膝の上に乗っけた。

 綺麗な茶色に染まったロングヘアを指で梳く。

「ん、今日はそういう気分じゃなくて」

 そして首にキスをすると、くすぐったそうにしながらそう言った。

「……なんだ、珍しいね」

 このまま夜までベッド生活がいつもの、新卒1年目の休日だったのだが。

 飲み会に誘われることも少なく、割といい就職をしたなと思っている。

「……私を性欲お化けだと思ってない?」

「実は思ってる」

 佐紀は不満げに言うが僕は即答した。

 文学作品のプレイをそのまま試そうとしてくるんだからな。

「否定はできないけど。……じゃなくて今日は漱石の旧邸? みたいなところ行かない?」

 お出かけの提案だった。

 かなり涼しくなりそうだからちょうどいい。

「あれ、初めてじゃない? そこに2人で行くの」

 小さいころに行ったことはあったけれど。

「そうだよ、漱石記念館は行ったけどね」

 修学旅行を思い出す──中学校生活が懐かしいな。

「あいつら元気かな」

「あ、今度佐紀と会うよ」

「そりゃ楽しみだな。誠も呼ぶか?」

「川根は忙しいから厳しいかもね」

「確かに。この家で集まる?」

「こんなに本散らかってるのに? 無理よ」

「だよね」

 本以外を床に置くのは怒られるけれど、家全体が本棚と言わんばかりの我が家ルール。

「……まあ、とにかく。出かける準備するか」

「うん。サンドウィッチ作るね」

「お、なんかピクニックっぽい」

 僕らはそう言い合い、手をつないでキッチンへ向かう。

 ──今日も日常が回っている。



 **********



 いつも通り二列縦隊、しかし今日は誠と僕がポジションを入れ替えた形──前衛に僕と谷口を置いた形で祭り会場を進軍していく。

 この時期になれば話題が受験のことにシフトして、川に釣りをしに行った話などはもう誠の口からも出てこない。

 楽しかったんだけどな、川遊び。 

「あと30分くらいだっけ、花火」

 佐紀はもうずいぶんと明度を失った空を見上げ問うた。

「おう、18時45分から45分間、まず最初は『スターパレード』って演目から次は……」

「ちょっと詳し過ぎじゃない?」

 こまごまと花火の詳細を語りだす誠に谷口がツッコむ。

「……まあ俺、花火マスターだから」

 ──きっと沢山調べたんだろうなあ。

 僕は気づかれないように口元を緩ませた。

「うわー。結構混んどるね」

 僕らは屋台エリアに入り、人混みはさらに密になる。

 肩と肩が触れ合う谷口と目が合って、僕は気恥ずかしくなり逸らしたその先に。

 『漢のフランクフルト』

 ──環境型セクハラじゃねぇのこれ。

 そんな雑感とは裏腹にお腹が鳴った。

 屋台から流れてくる合いびき肉が焼けた匂いに、食欲をそそられる。

「なあー」

 僕は他のメンバーに呼び掛けた。

 若者の喧騒の中では声を張り上げなければまともに会話できない。

「なんだー!」

 そして誠が返す。

 それにしても良く通るな、誠の声。

?」

「……お前そっちの趣味あったなんて聞いてないぞー!」

「あんまり大きい声で言うんじゃねえ!」

 どう曲解したらそうなるんだよ。

 周りの人がこっち向いてる……最悪。

 僕は指をさしてジェスチャーしてやっと彼は得心したらしい。

「……ああ。そういういみのおとこのふらんくふるとかー! おれかんちがいしてたわー!」

 そして僕の名誉を回復しようと大声で主張してくれているが、それは逆効果だぞ。寧ろ目立っている。

 お茶目だなあ、誠は。殴るぞ。

「すみませーん、1つください」

「はいよ! 焼き時間5分くらいかかるけどいい?」

 えーっと……。

「いいよ。私、あそこの焼きそば食べたいから先行ってる。川根も来る? 来るよね?」

「……お、おう」

 誠に1対1のチャンスを渡せるのはいいけど、僕が見回した先に焼きそばの屋台なんか見えないけどな。身長が低い佐紀ならさもありなん。

 考えてる内に誠を引きずって佐紀は退場してしまった。

「じゃあ一本お願いします。……谷口は? 焼きそば行く?」

「……いや、私もソーセージ一本欲しいかな」

「はいよっ!」

 僕は1000円札を取り出して店員に渡す。

 谷口は「私が払うよ」と言ったけれど、首を振って固辞する。

「ありがとう」

「いつもお世話になってるからね」

「そればっかだよ桜木。なんかお中元みたい」

 確かに、いつも「お世話になっているお礼」は味気ないな。

「……じゃあ友達料ってことで」

「私をなんだと思ってるの?」

「今月はこれで勘弁してください」

「なんで奢った側が謙ってるのよ」

 谷口はそう言って髪をかき上げ笑った。

 あの時見たのと同じイヤリングと、インナーカラーで染まっている青色が間から覗いて、それはまさに妖艶という他なかった。

 普段決して見えないからこそ、煌びやかな宝飾に飾られた彼女の小さな外耳にかぶりついてしまいたい衝動が、確かに僕の中に湧き上がって静まらない。

「……まだもう少し時間ありそうだから。私からクイズね」

 突如谷口はそんなことを言いだした。

「まだ公立の過去問全然回ってないけど」

「勉強のクイズじゃないよ。きょ、今日の私。どこがいつもと違うでしょう?」

 そして谷口は含羞を帯びた笑みを浮かべる。

「難しいな……そのインナーカラーとかではないんだよね」

「あ、気づいた? でもそうだね、これが答えじゃないよ」

 谷口は細い指で長く艶がかった髪を梳く。

 それじゃないなら……。

 僕は赤い飾りがあしらわれた彼女の頭のてっぺんから、和風のサンダルより覗く朱で塗られた爪の先端まで、まじまじと眺めた。

 谷口の変化を見まわしただけでは気づくことができず、「ギブアップ」ともう一度上に視線が戻ると、彼女の顔は茹でだこのようにのぼせ上がっていた。

「暇つぶし程度のクイズだからそんなに、深く考えないで……」

「……ごめん、真剣に探したわ」

「いや謝る必要はないよ。ないけど、ちょっと恥ずかしいかも」

 上目遣いでそんな風に恥じらうから、僕の体まで火照ってきてしまう。

 一々仕草があざといな、この子。

「で、答えは。なんだったの結局」

 体に溜まった熱を逃がすように僕は言う。

 あまりの高温に中てられて半歩後ずさってしまった。

「うん、うん。答えだよね。答えは、。だよ」

 谷口は答え合わせをしながら僕に半歩詰め寄る。

 ──熱が、引かない。心がチクっと痛む。

「た、たとぅー?」

「勿論タトゥーシールだよ、桜木。ビックリした?」

 ……僕は正直話の内容よりも、彼女の距離感にビックリしている。

 谷口の顔の角度はほぼ60度。

 もう一歩踏み込めば、容易く彼女を押し倒せるような、そんな距離。

「……結構、驚いた」

「私の太ももにね。結構小さめのやつなんだけど」

 即座に中学3年生の肢体に、健康的な太ももに──例えば蜘蛛の刺青が彫ってあるのを想像してみる。それは人間の生気を吸って生きる毒蜘蛛だ。少女が激痛に顔を歪めるほどの痛みを吸い取り、その大蜘蛛は青く輝いているのだ。

 ──そこには背徳感と倫理観の欠如が生み出した美しさがあった。

「へ、へぇ」

 僕はそっけない様子を見せて頷く。

 しかし頭の中は初めて『刺青』を読んだ時のような、官能的な感情に支配されていた。寧ろその作品を知っているからこそ僕は、脳内を巡るサディスティックな妄想を止められない。

「──おまちっ! ”漢のフランクフルト”二本ねっ!」

 丁度良く、美しさとはかけ離れた下品な品名で僕は現世に帰ってくる。

 シャンプーの匂いか、香水の匂いか。とにかく僕を覆っていた女性の蠱惑的な匂いは、谷口が僕から離れることによって霧消した。

「立って食べるのもなんだし、どっか移動しよっか」

「そうだね。……っと、まずアイツら探さない?」

「焼きそばって言ってたけど、どこだろうねー」

 高校生と混ざろうが決して低くはない身長の僕が、背伸びをして見渡しても『焼きそば』という文字はない。

 果たしてどちらへ向かえばいいのだろうか。

「私たちで先に花火の場所取りしない? 後でチャットしとくよ」

「……りょーかい」

 隣で歩く谷口は、誰から見てもテンプレートの真面目な女の子に見えるだろう。

 しかし彼女の中に燻る過激性を僕だけが知っているのだ。

 そして真っ黒な宇宙に幾筋の青い天の川が彼女の髪に流れ、綺麗な色彩に見蕩れた僕は一々調子を狂わされる。

 ──そうして今日はなぜだか、心が痛む。



 **********



 高1の今日、僕は一人で夏だった。

 右手を広げて、閉じて。

 彼女の感覚を思い出してはみるけれど、僕は一人で夏だった。

 もう一度あの日をやり直せたら。……時間を巻き戻せたら。

 これから何年経っても妄想を続け、ずっと佐紀を思い続けるのだろう。

「お前の好きな花、ちゃんと訊いとけばよかったな」

 僕は花屋で買ったヒマワリを供える。



 **********



「既読が、つかないのだけれど」

 花火が打ち上がる5分前、僕ら”応援団”組ははぐれていた。

 僕は胡坐で、谷口は体操座りで川辺に腰掛け、花火を一目見ようと後ろには既に、沢山の人が列になって空を今か今かと望んでいる。

 今から来ても一緒には見れないかもな。

「あいつら一体どこまで行ってるんだ……?」

 もしくは、誠がうまく佐紀をどこかに連れ出してるか。

 ……あの2人なら本当に遭難している可能性も否めないから不安。

「まあ、川根はサキのこと好きだから。頑張ってるのかもね」

 谷口は幼馴染の奮闘を希求して微笑む。

「……知ってるんだ」

「当然じゃん? 何年腐れ縁やってきたと思ってるの」

「最初はさ、誠が谷口のことを好きになってると思ってたんだ」

 あーよく言われる。と谷口は言った。

「付き合いだけは長いからね。幼稚園から一緒だし、家もすぐそばだし」

「……それで谷口も誠のことが好きだと思ってた」

 群衆がそうするように、僕も何も描かれていない夜空のキャンバスを漠然と見やる。

「私が? ありえないよ、別に嫌いじゃないけど」

「──

 何の気なしに言った言葉だった。

 しかしそれが結果的にトリガーになる。

「そうだよ。だって──」

 ぼんやりと薄く青がかった夏空を見上げる僕の袖を谷口は引く。

 何事かと思い彼女の方を向くと、赤い髪飾り、紺の浴衣を身に着けた完璧な女の子が、僕の目をじっと見つめてくる。

 ──素直にかわいい、無茶苦茶綺麗だ。

 彼女の状態は言わば、熟れに熟れたトマトの完熟状態。

 あと数秒もすれば壊れてしまうような、危なっかしい瞳でもって僕を見る。

「だって私は──」

 ──花火が開演します、最初は『スターパレード』。

 女声のアナウンスが耳の中で反響する。

 谷口は僕のシャツを力強く握る。

 僕が見て見ぬふりをしてきたこと。

 ずっと気づいていたこと。


「──桜木のことが好きなんだ」


 ──ずきり。

 心に深く槍が刺さる。

「ね、ダメかな?」

 この痛みの一体正体はなんなんだ。

 一発、一発。花火が弾けるごとに心臓に杭が打たれていく。

 誰もが空を彩り始めた華を見上げ感嘆の声を漏らす中で、僕ら2人だけがまるで異世界に飛ばされたように、見つめ合って動かない。

「えっと、僕は、谷口の……。今日は特にかわいいと思うし、綺麗だと思う」

 頭の中では考えが纏まらないので無理やり言葉に出し伝える。

 潤んだ谷口の瞳は庇護欲をそそり、ちらりと光るイヤリングは中学生らしからぬ色気を発している。黒い髪に咲く一輪の髪飾りは、幼気だけでなく垢抜けた魅力を醸していた。

「ありがとう。気合入れてよかった」

 右手は僕の袖を握ったまま、左手で口に手を当てほっとしたように笑う。

「……こっちこそありがと」

 僕の為に準備してくれて。

 ──ずきり。

「どういたしまして。……花火、綺麗だね」

 谷口は僕から目を逸らし空を見上げる。

「……うん」

 僕は胸を刺す痛みの正体を、段々と掴むことができていた。

 河川敷から打ちあがるスターマインが地平線を彩っていく。

 僕らはしばらくそれを無言で眺めて。

 ──続いての演目『きらめき』。

 尺玉が宙に上がった時、谷口は意を決したように再び口を開いた。

「……もし、付き合ってくれたらさ」

「うん」

 そして谷口は僕の耳元に口を寄せた。

 

「──えっちなこと、してあげれるよ」


 ゴクリ。

 僕の喉が唾を飲み鳴る。

 強烈な単語に目が眩む。

「……誰にもこういうこと言うわけじゃないからね! 桜木だけ。……告白も初めてだし。もちろん──」

 もう一度彼女は僕の耳に向け小さな声で言う。

「──セックスだってしたことない」

 センシティブな単語を公衆の面前で言わないようにしているのだろう。

 しかし、それが逆に僕の脳を震わせた。

「……どう、かな?」

 自分の手札を全て切り、自信を持った表情で谷口は僕を見る。

 ざくり、ざくり。彼女が僕に向ける感情全てが、僕を傷つける。

 最初から僕の中で答えは出ていた。

 でもずっと見ないふりをしていた。

 答えを出したら、答えを言わなければならないから。

 この胸を刺す痛みの正体は──谷口ありさを罪悪感。

 ──もう3年も前に死んだ桜井佐紀を僕はまだ好きなのだ。

 だから谷口が僕に好意を寄せるたび、僕の胸はズキりと痛む。

 頼むから告白してくれるなと願っていた。

 それは今日だけじゃない。

 いつも彼女の気持ちに気づいて、知らないふりをしてきた。

「……ありがとう。本当に」

「うん」

 僕は誤魔化すように苦笑いするが、彼女は表情を崩さない。

「でも。……でも」

 ──ズキズキィッ!

 こんなに可愛い同級生が僕に好意を寄せてくれている。

 エッチなことまでしていいよ、なんて言ってくれている。

 もったいない。マジでもったいない。

 こんな機会は一生来ないだろう。

 でも、どうやっても佐紀が好きなんだ。

 心臓が捻転して、あまりの痛みに顔が歪む。

 それでも言葉は出さなければいけない。

「──ごめん。他に、好きな人がいる」

 絞り出した声は掠れていた。

 残響を花火の爆発音が吹き飛ばす。

 谷口は少し悲しそうな顔をして、やっぱりと呟いた。

「──知ってるよ、サキでしょ。桜木が好きなの」

「……それは絶対違う、マジで」

 断じて違う。今佐紀と谷口を選ぶとするならば、僕は確実に谷口を選ぶ。

 だからそれは盛大な勘違い。

 ──僕が好きな桜井佐紀は同姓同名の別人だ。

「だったらさ、それが誰か聞いてもいい?」

「……」

 今にも泣き出しそうな谷口の問いに、回答を用意することはできなかった。

 消えた世界線の桜井佐紀が好きだって? 言えるわけない。

「私さ、自分で言うのもなんだけど。桜木にとって好条件だと思うんだ。もう既に結構仲いいし、本の趣味も合うし、それに……えっちなこともしてあげられる。桜木の好きな子は、どんな子なの?」

 彼女の自己評価は過大ではなく、本当にそう思う。

 可愛くて、落ち着いていて、リーダーシップがあって、宿題も助けてくれて、漱石の話ができて、それにエッチなこともしてくれる。

 これを断れば後悔する日が来るだろう。

 でも、仕方がないのだ。

「もう、そいつには僕も会えないんだけどさ。……本当に変なヤツだった。目が合えば毒を吐いてくるし、文学を鼻で笑うクソ野郎だし、少し下ネタ言うとすぐ怒る。──でも、そこも好きだったんだわ」

 そこに理屈はない。

「……あー。思い出の中の人的な」

「そんな感じかな」

「……強敵だなあ」

 それから谷口は大きなため息を吐きだし、目尻を拭って宣言する。

「──でも、まだ諦めないよ」

 がんばれなんて言えないし、諦めろとも言えない。

 ただ、胸の奥がジリジリ痛むだけだ。

「……そっか」

 僕らは黙り込んで。

 幾らか経った後、白色の大きな花火が上がった時僕らは口を揃えて。

「「……銀冠ギンカムロ」」

 と言った。

 声がハモったのが妙におかしくて、僕は軽く噴き出す。

「……やっぱ知ってた?」

「私はこれだけしか知らないけど」

「僕もそうだよ」

 ──それから僕らは以前の僕らを装い会話をした。

 


 **********

 


 花火が終わり、会場の熱は途端に冷めていく。

 僕も谷口も夢から醒めたようにぱちくりと顔を見合わせ、さっきまでのイベントが本当に夢だったのではないかと僕は疑う。

 人々は祭り会場から排出され、そして僕らはその流れに逆行して進む。

「どこだよBブロックって」

「もう少しかな……あ、サキと川根だ」

 谷口が手を振ると、向こうも気づいて誠が手を振り返す。

「……どこ行ってたんだお前ら」

「えっと……」

 本当に焼きそば買いに行っただけなんだろうな。

 僕がそう問い詰めると、誠は目を逸らす。

 まあ、うまく玉砕したんだろうな。

 どうフォローしてあげようか考えていると、佐紀はこんなことを言いだした。


「──あ、私たち。付き合い始めたから」


 ……。

「「「ええぇ!」」」

 大きな声で驚く僕、谷口、誠。

 いやお前は当事者だろ。

「さ、さ……? まだって」

 ──サキ?

「別に付き合ってることには変わらないでしょ。

 ああ、今日一日が夢なんだ、きっと。

 じゃなきゃこんな波乱は僕の人生に起こりえない。

「ちょちょ、ちょっと待って。一体どういうこと?」

 ピンチに強い打者、谷口ありさ選手もこれには困惑の表情を隠せない。

 ──8月中旬夏祭り、”応援団”はバルカン半島が突如爆発するように、弾き続けたギターの弦が突然切れるように、燻っていた沢山の感情によって形を変えた。

 僕はこれを”花火事変”と呼ぶことにする。


 

 →『それから』



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