序章 3


 深く大きく息を吐き出す音が鼻の根から聞こえ、吐き切ると同時に、雛が卵の殻を突き破ったように暗闇だった視界と意識に光が差す。弱々しいその光を逃がさぬように、私は瞼を勢いよく開いた。

 全体に暗かった。人の背がたくさん並び、それらはシンプルだがリッチな赤い布を張った席に座っている。席は映画館の客席のように整然とくっついて並び、その連なりの向かい合う先には木造の舞台があり、その中央で溢れんばかりの光を浴びて女性が、シスターのような服を纏いマイクで何か語りかけている。

 私は目を瞬いて、左右に首を振る。左右どちらにも女性が横列に並んで座り、左隣の女性は舞台だけに集中して、右隣の女性はそわそわする私の様子を横目で窺いながらもやはり意識は壇上に向いている。前も横も皆、濃紺のセーラー服を着用している。

 何かの発表会かもしれない。学校行事? と首を傾げ、はっとして自分の胸元を見る。濃紺を横切って白線の入ったタイ。つまり、私も皆と同じ制服を着用している。

 絞られた照明の中、指先を確認する。全体に脂を失い肉も削げて血管の顕らな、所謂老け手への入口を感じさせ私を恐々させていた手が、心なしか肉と脂と潤いとを取り戻し若返っているように見える。手を広げ、裏返しまた裏返して、矯めつ眇めつこれを眺める。若返っている。気がする。昔はこんなだった気がする。

 鏡で顔を見れば一発で分かると気づき触れた制服のプリーツスカートにポケットはないので手鏡やスマホを確保できない、周りに顔が映り込む金属様の物もないのでほぼ間違いなく若返っているに違いないが確認する手段がない! ともどかしさに掻き上げた髪はボリュームにハリ・コシ増している気がするがこれも定かでない。

「ねえ」

 右隣の女性、否、見た感じ女子高生の女の子が、不審に思ったのだろう、声を掛けて来た。

「どうかしたの?」

「あ、あはは、すみません、子供の頃から落ち着きのない子でしたもので」

 慌てて取り繕うと女の子は怪訝な顔で、うん?と首を捻る。

 あどけないその顔と、おべんちゃらで会話を合わせる様子のないコミュニケーション能力の青さから、これは本物の女子高生に違いない、と見極める。その彼女が倍近い年齢の私に臆することなく、同級生であるかのような口ぶりで話しかけるのだから、少なくとも今の私の見た目は三十路越えのおばさんではない、十中八九花も恥じらう乙女の季節、十五十六十七の女子高生だ。となると。

 三十一のおばさんが若返って女子校に転生。という設定か。

 話しかけてきたツインテールの女の子に弱々しく笑いかけながら意識を壇上の推定シスター校長に向ける。

「本校は良妻賢母の淑女を養成する勤めを担い、そして、不確かなこの世で真に信ずるべきに値する信仰とは何かを教育する――」

 語られている内容は教育方針、理念。それらは最初に伝えるべき項目だろうからこれはおそらく始業式、もしくは入学式。ツインテールの子は私の名前を呼ばなかった、ということはそれだけ親しい関係か、逆にお互い初見か。親しい関係なら私のおべんちゃらに何言ってるのと返すだろういつもと喋り方が違うのだから。うん?と首を傾げた、となるとお互い初見と推定され、ならばこれは入学式である可能性が高い。

 言語も、日本語で会話が成立している。異世界転生モノの定番「異言語」を踏襲しない雑さがやや気になるがその分状況把握が素早くなるのでむしろ幸運かもしれない。あるいは死んだというのが嘘で、百合神殿も夢幻に過ぎず、私はまた別の夢を見始めているのかもしれない、という考えさえ脳裏をかすめる。

 何にせよ、状況確認が必要で、状況確認のためには他人から情報を引き出すのが最良だ。幸い、ツインテールの子は私に関心がある様子、随分長く記憶の底に埋め込んでいた錆びた女子高生流の会話を掘り起こし、最も的確な質問を思い描いてから、フランクな調子で訊いてみる。

「ねえ、あなたどこ中?」

 高校の入学式、同じ新入生同士という仮定で話しかける。会話の足掛かりのない今、最も自然に振れる話は出身中学校の話と考えた。

 が、ツインテールの子は、不快な思いをした欧米人のように露骨に顔を顰めた。あれ? 何か間違えた? と気持ちが焦る。おかしな質問をしたのだろうか、それとも厳粛な式の最中にこんなゴシップを持ちかける奴を軽蔑の目で見ているのか。

「どこ中って」ツインテールの子が呆れた口調で言う。「ここに決まってるじゃない」

 一瞬理解が追い付かず、ん?と首を傾げる私をツインテールの子が訝しげに見つめる。もしかして、中学校の入学式なのか? 現代っ子は発育良好だな、と驚嘆しながら、いやいや、これは私の存在した現代とは違う世界なのだから現代っ子という発想は正しくなく、と考えながら違う違う今それは関係なくて、と頭を振る。面食らっている場合ではない、上手に情報を引き出さなくては不審に思われる、この場合に適切かつ女子中学生に相応しい応対とは。

 あれこれ思考の糸を伸ばして冷や汗を滲ませている私に、「あー」とツインテールの子が、合点のいったように急に大きな声を出す。周囲の女生徒が何事かと驚いたようにこちらを振り向き、一部は非難の視線だ。静かにしろという抗議だろう、だがツインテールの子はまるで頓着せずに顔を綻ばせて喋り出す。

「見ない顔だなって思ってたけど、そっか、ウチの子じゃないんだね、なるほどだからかー、だからそんなにそわそわしてたんだ」

 ウチの子、という言い回しが、銭湯の摺りガラスのように絶妙に事物の正体をぼかし可視化を避けるが、このまま放っておけばすぐにその正体は詳らかになるだろう、故に静粛を求める周囲の意向を無視してツインテールの子に語らせることにする。

「どこ中ってほら、ウチは中高一貫校じゃない? だから中学はここと同じ、希望ヶ丘女子学園だよ。まあ、キボジョに続く名称が中学校から高等学校に代わるわけだけど、正式には」ツインテールの子は知識の開陳に悦に入っているようだ。「あなたは外部受験の子でしょ? 外部受験ってよほど頭良くないと受からないって先生たち言ってた。どこの中学校?」

 困った質問が来た。「……名乗るほどの学校ではありませぬゆえ」と慎重に答える。転生後に偽りの来歴を練り上げなければならない異世界モノなんて知らない、精霊がどうので魔法がこうのでバトっちゃうノリのほうがまだ平明だったな、と思う。

 ツインテールの子は私の受け答えに、「武士かっ!」と、明るく肩を手刀でどついてきた。意外なほどノリノリな反応に驚きながらも胸襟を開くとはこのことか、ツインテールの子の友好的な態度に嬉しくなり、同時にほっとしている。武士という存在がこの世界にもあった、もしくは現在進行形であるという可能性をアスファルトに擦り付ける小石の跡のように淡く薄く脳の皺に書き込む。

「ねえ、英語が得意だったりする? あ、スペイン語受験っていうのもあるんでしょ? それともスポーツ推薦? スポーツできる女子って憧れるー」

 ツインテールの子は都心部で見かける通常よりやや素早いエスカレーターのペースで次々に言葉を発し妄想もエスカレーター様に高めていき留まるところを知らない、英語があってスペイン語があってと世界の情報がパイ屑のごとくぽろぽろと零れ落ちてくるのは僥倖だが当然受け答えなければならない質問が雪だるま式に膨張しているのであり、無難なプロフィールを頭の中で練りながら相手ばかりに手の内を開示させる方法はないかと悪辣な考えを巡らせていると。

「ちょっと」とツインテールの子の横に座る引っ詰め髪の生徒が上半身を屈めて顔を出した。「千恵、五月蠅いわよ。入学式くらい静かにしてなさい」

「えー、でも、外部受験の子だよ、話してみたくない?」

「千恵のそういうミーハーなところ、はっきり言って軽蔑するわ」

「ふーん。さよりはそうやって規律を遵守して、いつでも真面目で、いつまでも真面目で、やたらめったら正義を押し付けるババアにでもなれば?」

「バ……!」やたら強気なツインテール千恵に表情を険しくしたさより女史は、しかし挑発には乗らず、私に「あなたも、学園長の話をきちんと聞いて希望ヶ丘女子学園の生徒として相応しい心構えを憶えなさい」と声を掛けて冷静に幕引きを図る。

「えー、もう少し話聞きたい」と訴える千恵を「黙って学園長の話を聞きなさい!」と一喝してさよりは、これ以上の言葉は不要と言いたげに屈めた上半身を元に戻す。その背筋はバレリーナか剣道家のように甘えなく真っ直ぐに伸びていた。千恵も渋々口を噤んだ。

 前方に目を向ける。学園長が希望ヶ丘女子学園の理念を熱を込めて語っている。重要単語を聞き逃さないよう注意しながら私は頭の中で情報を整理する。

 中高一貫校の、外部受験で入学した高校一年生。女子校の入学式で、もはや死に体と思われた良妻賢母型教育が行われている。日本語に英語にスペイン語等があるからにはそれらの国と言語と文化がある。時代がずれている可能性はあるものの地球儀に大きな変更はない模様。右隣の元気なツインテールが千恵。その横が真面目一徹のさより。これが百合神様の統べる世界の一端。良妻賢母教育は解せぬが女子校なんて如何にも百合神様が用意しそうな舞台だ。

 情報源の学園長は淀みなく喋り、この学園の基本理念がキリスト教的な、というかイエスキリストやヨハネによる福音書等の引用から私の生きた世界と全く同一のキリスト教に依ることが知れる。百合神様、世界観の練り込みが随分雑だな。転生した異世界が割と日常と地続きらしいという推理にわくわくが失せてがっかりする思いと陣取りゲームで囲った絶対安全地帯のような安心感とが相半ばだった。

「皆さんの学園生活が実り多きものとなりますことをお祈りします」

 言って学園長は舞台を降り、来賓の紹介に引き続いて司会のアナウンスと共に在校生代表が舞台袖から現れる。途端。

 きゃあ。きゃあ。きゃあ。

 右横に座る千恵だけでなく方々から俗に言う黄色い歓声が上がる。

 舞台上に現れたのは短髪でボーイッシュな雰囲気の、とても背の高い女性だった。フィギュアスケート選手のように指先まで神経の行き届いた凛とした歩みで、先程学園長が演説した講演台に立ち、マイクの支持棒を伸ばし角度を上げ、マイクがきちんと音を拾うか試したくなるところをテストなしに声を吹き込んだ。

「新入生の皆さん、入学おめでとうございます」

 磨き込まれた金属の棒のような、確かな硬さと凹凸のない滑らかさを含んだ声。煌びやかさと親しみやすさが奇跡的に共存している。学校に王子様が降り立ったような、少しの不思議。

 王子様は張りのある声で、淀みなく挨拶を述べる。その姿は専用スポットライトでも当たっているのではないかと訝しむくらいに眩しく、有名女優か何かの存在感を有している。圧倒的だ。

「凄いでしょ、貴代子様」

 千恵が唐突に話しかけてきたように感じたが真実は私が貴代子様に見惚れて呆けていたのだと遅れて気づく。千恵はまるで自分の手柄のように誇らしげに胸を張る。確かに、フィクションみたいな王子様が現実に歩き声を発しているのだから、それを生で視聴できるだけで感激だ。胸がきゅうっと来る。

「以上を持ちまして、挨拶とさせていただきます。在校生代表、鷹宮貴代子」

 挨拶を終えた彼女が、光の粒子を後に残しながら舞台袖にはける。客席の、貴代子様こっち向いてぇ、という声に無反応だったのは、冷淡なのでなく儀式のマナーを優先してだろう。好意的に解釈させる魅力を彼女は持っている。

 ざわついた会場を抑え込むように、司会が「続きまして」と一文字一文字を強く発声する。

「新入生の皆さんを歓迎する、希望ヶ丘女子学園高等部聖歌隊による校歌斉唱です」

 生徒会と思しき制服姿の生徒が二人舞台上に現れて舞台袖へと講演台を押し退け、できた空白に三列で制服姿の聖歌隊が並ぶ。左奥に待機していたピアノに教員が着席し、ドの音を出し、一拍入れてから伴奏を弾き始める。聖歌隊が歌い出す。統制の取れたハーモニーでよく練習していることが窺える。できるなら小さな台を用意して後ろ二列が前列より頭一つ飛び出るようにしたかっただろうが台を配置するには時間と労力が必要なので泣く泣くカットしたに違いない。そこは惜しいな、と思いつつ歌う聖歌隊を眺めていると。

 ん?

 私の目が一点に留まる。

 座席が舞台から遠いので見間違えているのかもしれないと目を凝らす。裸眼視力1.2は目を細めずともクリアな視界を提供してくれる。あれは、見間違いでは、ない?

 聖歌隊の二列目の中央よりやや右寄りの子が、隣の子の制服の袖を、摘まんでいるように見える。前列に隠れる形で見えづらいが私の目には摘まんでいるように見える。

 どくん。と、心臓が一立方センチメートルに収縮する感覚。

 すぐに通常のサイズに戻り、脈動に合わせて血流が加速する。

 摘まんでいる子は朗らかに歌っている。摘ままれている子の顔は前列に被って見えない。

 でも、私には見える。

「あれは……あれは……新入生歓迎の校歌斉唱を任されて、不安で仕方なくなってしまった彼女。今更役を降りられないけどやっぱり不安。そんな彼女にあの子が言うの。大丈夫だって。ちゃんと練習してきたでしょ。でも彼女はやっぱり不安、失敗したらどうしよう、震える手、音の定まらなくなった声。そこで、心配したあの子がぎゅっと手を握って励ますのよ。大丈夫、困ったら私の声を追いかけて。彼女は頼もしさを感じるの。そして迎えた本番。やっぱりまだ体は震えてて、そこでちょこんとあの子の袖を掴むの。そしたら勇気が出てきて震えが止まり、歌えるようになったんだわ。摘ままれたあの子も、今だけは摘まませてあげるんだから、って思いつつ、でも実は好意を隠していたからこの状態がこそばゆくて仕方なくて今まさにデレ顔なのよ分かるすごい分かる、そして――」

「ちょっと! あなた座りなさいよ! ってか何ぶつぶつ言ってるの、気味悪い!」

 いつの間にか私は立ち上がっていた。千恵と左隣の名も知らない女の子が両腕を引っ張り私を着席させようとしている。「あ、しまった、ごめんなさい」と言いながら着席するも歌い終えてまだ袖を摘まむ様を見るにまた立ち上がってしまう。「見て! 見てあの子、袖摘まんでる! つまりね、不安でしょうがなかったの! 摘ままれる側は励ましているように見えてでも実は下心があって――」

「いいから座んなさい!」

 ひそひそ声で叱責して千恵は私の腰付近を掴み無理に私を座らせる。聖歌隊がはけていく。

「ねえ見た? 見たでしょ? 見たでしょアレ?」

 訊くと千恵が仰け反る。「何が? っていうか近いから! 離れて!」

 知らず知らず彼女の肩に乗せていた手を引っ込め、落ち着け、と自分に言い聞かせてから「聖歌隊の子が隣の子の袖摘まんでたわよね? ね?」と尋ねる声に冷静さは皆無だった。

「そこまで見てないけど、摘まんでたら摘まんでたでいいじゃない、歌ってる最中に立ち上がって喋り出すほうがよほどの不作法よ!」

「でも摘まんでるのよ? そこに意味がないわけがないじゃない!」

「いい加減黙りなさい!」

 さより女史の怒声を受けて私はようやく黙った。黙るには黙ったが、身の内にはまだ言葉がこんこんと湧き出ていた。みんな平静な顔してるけど、目の前で百合が行われたのよ?! 生の百合見ちゃったのよ?! なんとも思わないの? それとも単に気づいてないの? どっち?!

 思えば百合愛好者として辛い人生だった。小中高大と共学で、男子が大概うんこうんこ連呼している教室は退廃というより原始社会の趣だった。女子は仲良く笑い合っていたが意識は男子に向き常にモテが探求される、明け透けに言うと商品としての陳列棚の様相だった。ヘテロ愛と野蛮さと付属品としての生き方に踏み荒らされた土壌に繊細な百合が生えるはずもなく、私はフィクション以外で、つまり現実世界に百合を見たことがなかった。

 高校時代のある日、戦友善子と交通系ICカードとありったけの夢を手にレズビアンカップルが往来すると聞く都心の路地を歩いた。春一番が吹いて、乱れ咲く百合の園への期待値はヘリウムガスを詰めた風船のように自然上昇していたのだが、日が悪いのか何なのか、女性カップルと一度もすれ違わなかった。男女カップルが行き交うばかりで、しかし諦めず何度も路地を往復するうちに日が傾き夕景になってようやく、頼ったネット情報が夢幻、つまりデマでしかなかったと悟った。

 レズビアンカップル、いないね。ね。百合ってフィクションなのかな。それは違うと思うけど。ていうか、女子二人で何往復する私たちこそ百合の標本、みたいな。でも、私と善子は、なんかそういうんじゃないよね。うん、女なら誰でもいいみたいな風評、むかつくよね。ね。

 私たちは現実の壁にぶつかった。その後善子がリアル百合と出会ったかは知らない。だが少なくとも私は現実世界で百合と邂逅するチャンスを得なかった。

 それが。

 百合を目前に敢行されて。

 興奮せずにいられるものか。

 いいや、興奮するに決まってる。

「感動を伝えたい方は、是非、聖歌隊の用意したアンケートに記述をお願いします。彼女たちも手応えを感じて喜ぶと思いますので。それでは、これで入学式を終わりたいと思います。ありがとうございました」

 司会が私の暴走を巧みに織り込んだアドリブを付け加えて、場をポジティブな印象に変換してから式の終わりを告げる。新入生が順に退場を始めて少しざわめく、つまり小声なら話しても良いという許し。

「ねえ、摘まんでたよね?」

 改めて問うと千恵はうんざりといった様子で顔の中央に皺を寄せた。「知らないし」

「ねえ?」と左の名も知らぬ生徒を振り返ると、妖怪変化に祟れないようにといった風に顔を背けられた。

 ねえ聞いてよ善子、と探った制服にスマホがないことを思い出し、百合語りをしたい衝動と異世界での立ち位置を探るべきという正道が葛藤して二度百合が勝ったが正道が三度勝ったため極めて残念無念だが仕方なくの態で、怪しまれないように一歩引いて普通の生徒を装うことにした。

 退場する順となり、左隣の子の後ろについて歩く。超豪華なホールを出たところで一列に整った列は波に揺られたように左右にずれ始め、建物の外、校舎と直結しない造りのため歩くこととなる煉瓦敷きの道に繰り出した段階でぐずぐずに分解しおそらく中学校時代からエスカレーターで進級した仲の良い子たちで結集、不揃いの塊として再構成され三々五々に歩く。高校受験組という設定の私のそばに留まる者はなく、話を合わせる必要のなさは安心材料だったが完全自由の刑に処されると所在ないというか、寄る辺がなく、私の他にも浮いている外部受験者がいるはずとあちこちに振った目に映るのが仲良しの群ればかりと知ると、さすがにおセンチな気分になる。ちゃんとやっていけるだろうか。今時の子は怖いと聞くが人間関係の凝り固まった女子校なんて、所属グループなしには生き抜けない修羅の世界に違いないのに単身状況を打開せよというのか。百合神様もなんとご無体な。

 嘆きながら、でも俯いてはだめだと気力を保つ。散った桜の花弁が眼前を過ぎり反射で目を閉じる。再び瞼を開いた先に、何かが見えた。

 ん? と思った。

 すぐさま、んあ?! と下がりかけた瞼を見開いた。

 手前を歩く女生徒二名が、身を寄せ合っている。肩と肩を密着させ、片方が頭を相手の肩に乗せている。そして、寄せ合った身の間で結びついた手と手は、何度目を凝らしても明白な恋人繋ぎ。

「あれは、完全に百合ってる、百合ってるわ。一見、頭を傾けてる子がネコに見えるけど実はバリタチつまり攻め、受けの彼女は、本当は皆の前では離れて、何でもない関係を演出したいのに攻めの彼女がそれを許さないんだわ! 二人だけに分かる駆け引き……それを、こんな公共の場で臆することなく敢行するなんて! 恐ろしいわ……」

 と息を呑んで、込み上げる歓喜に正気を失うのではという恐れにぶるぶると頭を振ると道の端に設けたベンチに座る女性二人が目に入る。苦しそうな黒髪の子。その背中を、黒髪を三つ編みにした子が優しくさすっている。「やっぱり貧血? これ飲んで」と手に水の入ったペットボトル。貧血の子がペットボトルを受け取り少しだけ飲み、三つ編みの子がキャップを閉める。

「ああ、あああ、黒髪の子が貧血持ちと知っての介抱。二人の付き合いは昔からで、三つ編みの子は朝礼の度に調子を崩す彼女にいち早く気づいて、以来辛そうだったらああやって介抱してあげてるんだわ、なんてきめ細やかな対応。でも恋愛的な意味では二人は付き合ってなくて、実は三つ編みの子の片思いなの、そしてこの後三つ編みの子は彼女のいない所で、善悪の彼岸と此岸の往復に煩悶しながらペットボトルに口をつけて間接キスを果たすのだわ! 恥じらいながら、しかし恍惚として。なんて背徳的で、耽美な百合なのでしょう……」

 眩暈がして足がふらつき何かにぶつかってしまう。三度瞬いて視野を回復した先には女子が怒った顔でこちらを見ている。私は「ごめんなさい」と謝って、海老が逃げるように後方にしゅっと飛び退いた。件の女子は私に振り返り、だがすぐにその存在を忘れたかのようにそばにいた女子に体を寄せる。「はいピースして、笑顔、いえーい」伸ばした手に握ったスマホで自撮りしている。「入学記念いえーい、むちゅ」と言いながら私とぶつかっていないほうの女子が、自撮りしている彼女の頬に口づけた。「ちょっとー、えー」「いいから撮って」二人のきゃははと笑う声を記録するシャッター音。

「おぉ、オーマイガッ。オーマイガッ」正視できず私は両手を顔に当て、しかし意図して開いた指の隙間から貪るようにその状況を見た。「ノリで女子が女子にチュー。しているだけでも貴重だけれどそれだけではないの、好意を抱くあの子がハレの磁場を利用してキスを敢行したのよ。これは婉曲的な好きのアピールなの! そしてもし、自撮りしてる彼女がチュー写真をSNSに上げたら? チューされてるのを見られて困る相手はいない、むしろ積極的に見てくれ。それってもうお互い好きってことでしょう! 両想いなのよ! ……オーマイガッ。オーマイガッド。そんな、そんな尊い事案が……」

 昂りに昂った神経が涙腺に泣いて感情を吐き出せと指令する。ぽろぽろと大粒の涙が瞬きなしに落ちる。まるで熟しすぎた葡萄が枝から落ちるように。音が聞こえそうな重み。煉瓦敷きの道にできた水の染みは入学式に相応しい春の日差しに春の温もりを以ってしても簡単には消えない確かさで濡れていた。

 そうか、そういうことか。

「あ! いたいた!」遠くに、早くも耳に馴染み始めた千恵の声がする。軽い足音が近づいてきてすぐそばに止まる。「あなた、もう行っちゃったのかと思った。私トイレ行ってて出遅れて。数少ない高校からの子だもん、いろいろ話聞きたいじゃない? ってどわぁあ」

 肩に手をかけ私の正面に回り込んだ千恵が驚いて身を引く。「めっちゃ泣いてるし。そんなに入学式が感動的だったの? やっぱ受験勉強大変だった――」

 ガッと勢いよく千恵の手を掴む。両手で彼女の柔らかで繊細な手をひしゃげそうなほどに強く握りしめる。

「百合の花が、咲き乱れてるの……ジャスティスなの……」

「は?」

「百合神様が私の百合への信仰を、実地に叶えてくれたのよ……」

「百合神様? あなた何言ってるの? ていうかまだ名前聞いてなかったよね? 私は雛窪千恵。あなたは?」

「花咲百合子。重度の百合好きおばさん」

「は?」

「重度の百合好きおばさんが転生した先が、百合の園だったんですの!」

 絶叫が空へ飛び立ち、また一枚桜の花弁が回転しながら落ちて来た。

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