第1章 ヤンキー百合 16
白洲の鞄を手に走る荒木を追いかけてほんとに約二分で駐車場近くのさほど大きくないトイレにたどり着く。コンクリと木造の混交建築で、白洲の水晶玉で見たトイレ個室の背景にも丸太の壁が映り込んでいたから神様がよほど意地悪でない限りここで正解だ。「ミミちゃーん!」名を呼び女子トイレに入った荒木を見送り、少し走り負けていた白洲を待って共に女子トイレに踏み込む。蛍光灯が明るい内部。水晶玉が映した暗さは、映りが悪かっただけかと首を捻るが迷いなく一番奥の個室の前に立った荒木は確信に満ちている。
荒木が扉を握り拳で勢いよく叩く。強い衝撃。荒木はこういうところはまるで気が回らない。「ミミちゃん! 返事して! ミミちゃん!」
「ミミ!」姉が呼び掛ける。が、返事はない。
私は唇に立てた人差し指で二人に秘匿を要求し、ドア鍵が掛かっている赤色を確認してから横向きの土下座姿勢で床に頬を寄せ、扉の隙間から見える足を確認する。白洲妹が穿いていたパンツに下足。本人だ。関係者通路で別れてから楽屋に寄らずにここに逃げ込んだのだろう。あとはダンス用の靴に履き替えれば仕上がる、バレエのような複雑な衣装でなくて助かった。
立ち上がり、二人に頷く。ここにいる。あとはどう説得するか。
私は腕時計に目を遣り、蛍光灯に明るく光る文字盤から時間を逆算する。文化会館に戻るのに二分、舞台裏で準備が整うまで二分として、残り六分程度。思いの外時間がない。
「ミミちゃん! いるんでしょ? 出てきて! 鍵開けて!」荒木が叩くとドアはガンガン軋み、それでも堅牢に向こう側を閉ざす。「荒木さん」私が肩を掴むと「でも」と言う。いいから任せて、と目で説得すると、素直に引き下がる。
「ミミちゃん」私はドアに左手を触れ、穏やかに語りかける。「私たちの不安が伝染しちゃったんだよね、たぶん。ごめんね。でも、ミミちゃんは」踊れるよ、と言おうとしたのに舌が言葉を拒否した。「踊らなきゃいけないんだ」代わりに強い言葉が出た。返事はない。余計に追い込んでいるのかもしれない、それでも。「とにかくやってみよう。やらないと、道は拓けない」
待った。
唐突に蛍光灯が消えて水晶玉で見たのと同じ暗いトイレになる。驚いて天井を振り返った瞬間、また点灯した。動作を感知して点灯・消灯する仕組みなのか、それとも電気回路に不具合があるのか。
「ミミ」と白洲が切り出した。眠る赤ん坊の額を撫でるようなやさしい声。「もしかしたら私が話を大きくしてしまったのが良くなかったのかもしれないわね。もしそうなら、ごめんなさい。不安、なのよね? なら、もう一度、今度はきちんと占ってみましょう、ダンスが成功するのかどうか。もし成功するようなら、出てきてくれるかしら?」ね? と言って白洲は荒木が持つ鞄を譲り受け、一度床に置いてから珠のように大事に取り出したのが昼に占いに使ったタロットの束。
「きちんと手順を踏んで本格的に占うわね」と、床に片膝ついた白洲に私は「待った」を掛ける。「え?」理由が分からない、というように白洲が私を見上げる。
「きちんと手順を踏んで本格的に占ってる余裕はないと思う。もっとすっぱり一撃で分かる方法にしよう。オカルト研究会広報記事第二弾で発表予定の、カードで円を作って、一枚裏返して占うやつ」
「でもあれは、単純すぎて確度が低いわ」白洲が少し怒ったように首を振る。「今必要なのは説得力よ。なら、きちんと占わないと」
「白洲さんは私たちをここに導いた霊力をカードに注いで欲しい。そうすればオカルティックな力は宿るだろうから。偶然が偶然以上の意味を持つ。あとは」私も片膝をつき、白洲と目線を合わせる。「ミミちゃんに自分で自分を占ってもらう。どのカードを裏返すか、自分の命運を自分で選択してもらう。他の要素が混じらないためにも」
「他の要素?」白洲は切れ長の目をより鋭利に細める。「それは、天体の位置のような、別条件の話かしら?」
「多少教わったとはいえ私は占いに詳しくない」力は込めた?と白洲に問うと、白洲は困惑したように、え、ええ、と答え、無意識に私から少しカードを遠ざけた、その手を上から握り込む。「白洲さんはそうやってミミちゃんを守ってきた。それは尊い行いで必要な行いだった。でなければミミちゃんは根性論の前に完全に心が潰れていたと思う。私は白洲さんの庇護を否定しない、むしろ肯定する」
「おい花咲、時間がないんだろ、分かりにくい話は後でやれ」荒木が俗称ヤンキー座りとなり三人の目線の高さが揃う。
「マジな姿勢を見せれば人の心は動くっていうのがヤンキー式荒木月理論」私は目線を白洲に向ける。「裏返すと、偽りでは人の心は動かない。ならこの場に嘘が介在してはならない」
頭脳明晰で自らの超常の力に確証を持ちそれを妹を支える頼みにしてきた白洲が今日の成否を事前に占っていないわけがない。午前に占っていないと即答したのは嘘を隠すための力み。本当は失敗を、もしかすると惨敗を示すカードが出ていた。昼の練習を経て星が動いた可能性はある、そう思って再度占った。一番上に来たカードの、背の模様で判別したのか、あるいは「視た」のかもしれないが、特訓後も運命を示すカードに変化はなかった。だから白洲はカードの一番上を捲ったように見せかけて一番下のカードを引き抜いて裏返して見せた。真実を避け、偽りを提示した。時にそういう手段を用いて妹を勇気づけてきたのだ。白い嘘。
私が何を言っているのか察した白洲は、悄然と黙った。
「だから意味が分かんないっての! で、どうすりゃいいんだよ!」語気を強める荒木に「こうするの」と、私は白洲の手から奪ったカードを個室のドアの下を潜らせて白洲妹に届ける。白洲は青ざめた顔でそれを見つめながら、取り返そうとはしなかった。
私は再び横向き土下座姿勢で頬を床に寄せて隙間を覗く。「ミミちゃん、そのカードをシャッフルして欲しい。発表会のことを思い浮かべながら。納得出来たら一旦止めて」
白洲妹の細く弱々しい指がカードを拾い上げ、シャッフルする音と共に彼女は正座の足を外に逃がした、俗に云う女の子座りで床にぺたっと座った。カードとカードが擦れる音が止み、私が指示を出すべく口を開くのとほぼ同時に白洲妹は迷いのない手つきで背を向けたカードを床に置き、円状に広げた。一瞬ドア元に近づいた指には細長い手入れされた爪が見えた。
私は身を起こして、片膝立ちに戻る。白洲に確認を取りたかったが、もし私の推論が確かなら。
「ミミちゃん、裏返したカードを、ドアの下からこちら側に、見せてくれないかな」
裏返す音がした。が、カードは出て来ない。荒木がドア元をじっと見つめ、白洲は物憂い目つきで、ドア元を見ている。
ふっ、と再び蛍光灯が消えた。回路の故障の可能性はゼロではないがたぶんこれは私が所属した吝嗇会社のトイレと同じで節電の大義名分の下人の動きがないと早々に電気が消えるよう設定されている。逆に、人が動けばライトは点く。
待った。
小窓から差し込む自然光に目が慣れ、暗く思えたトイレ内が明かりなしでも隅々まで見えるようになるがドアの向こうの白洲妹の状況はまるで見えない。でも、私の推論が正しければ、何度も見た姉の占いを容易に再現できる妹は、示されたカードの意味も当然把握している。それを出して来ないということは、裏返されたカードは失敗を暗示するものだ、白洲がイカサマを用いてでも隠したかった真実。
時間が気になる。腕時計に目を遣りたい。だがこの膠着には崩し難い緊張感がある。誰も動かない。時計の針が嘲笑うように回転する様が脳裏に浮かぶが払拭するのに頭も振れない。崖を踏み外す恐怖に慄きながら減り行く時間の中で最適解を探す棋士は毎回この苦しみを味わっているのだろうか。果たして私は正解を見つけられるのだろうか。
「死神、よね」白洲が息を漏らす。諦めとして。
姉の声に導かれるようにドアの下からカードが差し出される。点灯したライトに映し出されたのが、馬に跨る骸骨騎士。名前と絵を見れば知識が浅くともその意味するところは見当がつく。私は目を閉じ、ため息が口から漏れた。これが真実。これを突きつけられて、どう動けば正しいのか。
蛍光灯の明るさの中で、白洲が死神の意味を解説する。多様だがひっくるめれば破滅。白洲自身も挫けてしまい負の意味の列挙を止めてしまった。無駄だよ、と死神の笑い声が聞こえた。
「これってさ」荒木がおずおずと口を開く。「たしか、ウェイト版、だよね? なんか、基本ネガティブな意味だったけど、なんか、死と再生って意味もなかったっけ?」
消沈していた白洲が今更何を話すのかと言う風に「ええ」と応じる。
「白洲さん、死とか破滅破綻のほうばっかりに目が行ってるけどさ、ちゃんと、再生の芽があるってことじゃない?」荒木の腰が浮き始めている。
「そう、かしら?」白洲は迷った様子で首を捻る。「そうと言えなくもないけれど……」
「そうだよ、もう一回立ち上がれるってことだよ!」握り拳で荒木が立つ。「終わりじゃなくて始まりなんだたぶん!」拳をドアに打ち付ける。「ミミちゃん! 行こう! 辛い思いをするだろうけど、ここで逃げちゃだめだ! 踏ん張り切れなかったら、腐っちゃうから!」
怯えたのだろう、カードを見せていた白洲妹の手がしゅっとドアの向こう側に引っ込む。「荒木さん」と肩を掴んだ私を、しかし荒木は今度は跳ね除けた。「ミミちゃん! あたしは死神のカードに賭けるから!」
一瞬の出来事だった。荒木はドア上部に両手を掛けたと思うと、ドアを二蹴りで駆け上がりアクション俳優が椅子を飛び越えるような軽やかさで向こう側へ飛び入ってしまった。
ズダン!と着地の音がすると同時に「きゃああ!」と悲鳴がした。白洲妹の悲鳴だ。片膝をついていた姉は枷を外されたばね仕掛けのように立ち上がる。「ミミ!」
すぐに「うらあ!」と荒木の雄叫びがしてまた「きゃああ!」と白洲妹の悲鳴が聞こえる。まさか小学三年生に頭突きしてるわけじゃないよな、と不安が過ぎるが、荒木の意図は何となく察した、任せるしかない。「ミミ!」と悲痛な叫びを上げてドアノブを掴んだ白洲の手首を握り込んで、任せてあげて欲しいと訴える私も歯を食いしばっている。白洲は今にも泣きそうに瞳を揺らしている。不安と期待の綯い交ぜを、私もドアの向こうの荒木に向ける。
もう一度荒木の雄叫び、そして白洲妹の悲鳴。さらにもう一度。「その感覚で、もう一回叫んで!」荒木の命令。「きゃああ!」と白洲妹の怯え。「もう一回!」「きゃああ!」「良い感じ。もう一回叫んでみて」「きゃああ!」「いいよいいよ。その感じ」荒木の声から険が抜けていく。強制でなく労わり。「感覚掴めてきたでしょ。もう一度お願い」「きゃああ!」「いいね。今度はジャンプしながら。はい!」「きゃああ!」荒木よりだいぶ軽い着地音。怯えから興奮に切り替わっている白洲妹の叫び。「できるじゃーん。連続ジャンプで、息が続く限り叫んでみよっか」「きゃあああああああああ!」何度も床を踏む音。「おっけ。それをやればいいわけよ。はいもう一回!」「きゃあああああああああ!」途切れて、すぐさま「きゃあああああああああ!」と連続する。
見たことがないのに、白洲妹の笑顔が見える気がした。白洲の手首を放すと、白洲もドアノブから手を放した。ただただ驚いて、目を瞬いている。
間もなく、ドアが開いた。魔法に掛けられたような、なんだか自分が自分でなくなったような、それが不思議でたまらないといった様子の白洲妹が出てきた。「ミミ!」両膝を床に着いて胸に受け入れようとする姉に、妹は首を振り、「大丈夫!」とやや調子外れの声で答えた。
私は腕時計を見た。残り時間四分ジャスト。ぎりぎり。
「荒木さん」足元のタロットを急ぎ掻き集めている荒木に声を掛けると彼女が顔を上げる。早口で指令する。「それは私が回収するから。荒木さんはミミちゃんの付き添いとして文化会館までダッシュして、舞台裏のコーチと話つけて。白洲さん」両手を広げたままで固まった白洲に目を向ける。「カードと鞄は私に任せて、同じく文化会館に走って。さっきと同じ席を確保してくれると助かる。バラバラにならないために」
「よし来た! 超特急で行くよ!」宣言して妹をお姫様抱っこで抱え上げた荒木の後を立ち遅れた姉が追う。「ごめん白洲さん、急ぐから!」駆け出した荒木を女子トイレ出口で見送る。足の遅い白洲により誇張されている面はあるが、明らかにここに来た時より荒木は速い。案内のために往路は加減していたのだ。これで発表会の舞台に間に合う目途はついた。私も白洲妹のダンスに立ち会うためにさっさとカードを回収して走ろう。トイレに戻るとライトが点灯した。
オカルト物品を過積載した鞄は思いの外重く、小ホールに駆け戻った時点で私は肩で息をしていた。舞台では煌く照明の下少女たちが必死の踊りを見せている。グループDだ、もう終わりかけている。まばらに座る保護者と地域住民に頭を下げる思いで上体を屈めて小走りに戻った席に、白洲が座り、その左で荒木が腰を前に滑らせただらしのない姿勢で座っている。着席した私に目を向ける。「おう、間に合ったな」目に見えて疲れている。往路で鞄を持ち、復路で白洲妹を抱えてスプリントすればそうなるのが条理か。
「コーチ、どうだった?」切れ切れの息を無理に束ねて小声を出す。
「当たり前かもしれないけど、ブチ切れてたよ」と光の宿らない目で荒木。「フォーメーションは弄れないんだから云々、長くなりそうだからあたしがすいませんでしたー!の先制パンチで黙らせた」
「ミミちゃんは、大丈夫なの?」怒声に委縮しなかったの?という意味で訊く。視線を荒木に固定したまま、白洲の前の座席の背に設けられた収納スペースに鞄を入れる。ありがとう、と小さな白洲の声。
気怠さを滲ませ、でも荒木は口元に笑みを浮かべた。「はい、ミミちゃん! って促したら、きゃああ!って叫ぶかと思ったら、ちゃんと、すいませんでしたー!って、金切り声で謝ったよ」謝ったって言うのか分からないけど。「コーチがさ、飼い犬に手を噛まれたみたいな顔してて、噴き出しそうになった」
「写真撮ってくれたらよかったのに」私が冗談を言うと荒木は鼻で笑った。
音楽が鳴り止み、拍手と共に舞台上の少女たちが下手に捌け、スタートラインを切ったランナーのようにグループEの子たちが一斉に駆け込む。配置に着いて、真ん中の子以外は皆戸惑いを浮かべて白洲妹に顔を向けている。一瞬だが真ん中の子も盗み見た。たぶん、出てくる前に奇異なことを白洲妹がした。例えば、叫ぶ、とか。
荒木が深く腰掛け直すと同時に音楽が始まり、皆が同じ何かに向けて踊り始めた。
白洲妹の踊りは溌溂としていた。やけくそと言い換えても強ち間違いでなかった。昼の練習で修正したはずのいくつかの問題が特訓前のダンスに戻っている。重心移動を誤って一歩余計にステップした。全体に動きが過剰で、所作の一つ一つに力が入り過ぎてどこかロボットダンスの滑稽を帯びてしまったきらいもないでもない。でも。
型をなぞるだけの抜け殻ではない。白洲妹は今、感情を剥き出しにしている。表現している。我が子だけを見に来た親たちも、今日のお祝いディナーの席で真ん中の子と白洲妹のダンスに言及せずにはいられないだろう。二人は抜きん出て、命の煌きを放っている。
音楽が止まり、蜘蛛の子散らすグループEの中で余韻に少しだけ出遅れた白洲妹が、慌てて舞台端へ駆ける。その横顔は充実を表していた。
誰もいなくなった舞台を白洲は眺めている。グループAが舞台上に雪崩れ込んで所定の位置に着く。音楽が始まり、踊り出す。
「あなたたちの言った通り、気持ちが込められているかいないかで、随分違うものね」テレビで流れる絶景映像を眺めるように白洲は、感動の中にどこかガラス越しに見る他人事の気配を匂わせた。それを否定的と捉えた荒木が「いや、ほんとは文化会館まで走らせて、敢えて疲れさせることで入り過ぎた肩の力を抜くことも考えたんだけど、時間がなかったからさ」と言い訳を始めた、その右肩に白洲が顔を埋めて。
音楽で聞こえない。でも肩の震えが、彼女が泣いていることを如実に示している。驚いた荒木が、なんで?と私に助けを求めるが、私は人差し指を唇に立てて黙って受け止めろと指示する。荒木は戸惑いながら、その蛮勇に比して繊細に造られた手を、白洲の頭に乗せた。
「きゃあああああああ! エモい! エモすぎですわ! 辛かった! 辛かった子が泣く! それを黙って抱き止める! 激エモ百合テンプレだわ! 支持されるからこそのテムプレート、乃ち王道なのよ……」脳内に湧いた発話欲求を全て脳内で起爆処理して私は口からは何の言葉も漏らさず彼女たちを静かに眺めた。だってそうでしょう? ここで垂れ流すなんて、野暮の極み、ですわ。
それに、ただ単に嬉しくもあった。ずっと重い荷物を背負ってきた白洲が、誰にも頼れずに戦ってきた彼女が、誰かに身を預けて泣いている。その絵だけで、胸に満ちる温かさがある。
グループEの二週目の出番が来たら教えてあげよう。それまでは。
私は舞台が宿す星々の輝きを見つめた。
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