第1章 ヤンキー百合 17
水曜日、荒木に呼び出された。お弁当を持って体育館裏集合。夜露四苦。メッセージが前日に入っていた。放課後オカルト研究会活動室に呼び出さなかった時点で白洲がいては出来ない話だと知れた。つまり白洲絡みの話。より正確には恋の話。
相変わらず人気のない体育館裏は、雑草が勢力を増したのか以前より緑に満ちて剥き出しの土の面積は減った。荒涼とした雰囲気は葉の陰に追いやられて生命の潤いが溢れている。既に待ち構えていた荒木の眼光も心なしか和らいだどころか乙女のそれになっている。嫌な予感がした。
「ごきげんよう」と私が挨拶すると、荒木はイネ科植物の興隆に弁当を置き、一拍置いて私の腰に縋りついた。
「ああああ、花咲ぃ」この恐慌はいつか聞いた恐慌。「助けてくれ! 助けてくれよ花咲ぃ!」
「順を追って説明してね。日本語で、簡潔に」簡潔に述べると荒木は冷血と受け取り「あああ切り捨てないでくれ花咲ぃ」と暑苦しいのではいはいはいとママンの大らかさで話を聞く。
ダンス発表会の成功を通してより深い仲になったはずの白洲が逆に余所余所しくなった。廊下で見かけた時小さく手を振ったら横をすり抜け行ってしまった。部活でオカルトの教えを乞うと本を手渡されて直接指導してくれない。「それどころか、まるで磁石の同じ極を突き合わせたみたいに私が近づくと離れるんだよ! 顔だってすぐ背けるし! 会話も必要最低限しかしてくれてない気がして、あたし訊いたんだよ、何か機嫌を損ねるようなことをしちゃったのかな、したなら謝るからって。そしたらなんて言ったと思う? いえ、何も。それだけ! 二語! 二秒! ああああ! あたしはどこでミスっちゃったんだ! 花咲、教えてくれぇぇ」
断末魔を上げる似非不良少女は想い人が世に謂う「好き避け」状態に陥っていることを知らない。
遡って月曜日。私は記事第二弾の内容を詰めるためオカルト研究会活動室で白洲と話していた。荒木は不在だった。
ダンス発表会の翌日ということもあって、本題に入る前に妹のその後を訊いた。
「日曜の夜、ディナーを食べて帰宅した後」白洲はその情景を投映するかのように卓に置かれた水晶玉の芯を見つめている。「居間のソファーでくつろぐ両親の前に立ち、ミミが、御手洗いでしたように叫び声を発したのよ。自らをトランス状態に持ち込み、今まで言えなかった本音を言うつもりなのだと私は確信したわ。両親は、当然水面下で私たちが行っていたことを知らないから唐突に叫んだ意味が分からず驚いていたわ」因みにトランス状態とは極度の興奮状態に自身を陥れることよ。ラグビーのハカや音楽を大音量で聴くという方法もあると荒木さんに教えてもらったわ。よくよく考えると降霊による憑依状態もポピュラーなトランス状態ね。ポピュラー、に私は敢えて突っ込みを入れなかった。「大声を出してミミは、突然、ダンスを踊り出したの。発表会の振り付けそのままよ。父も母も驚いていたけれど、ミミがついにやる気を出したと受け取って嬉しそうに眺めていたわ。私は、正直、何も分かっていないと冷めた目で見ていた。それで」白洲が間を置いて緩急を調整する。「踊り終えてミミが言うの」水晶玉をじっと見つめて。「頑張る、と」視線を私に移す。私も、白洲がそうであったように、驚きを禁じ得なかった。「私も耳を疑ったわ。ミミ、本当に頑張るの?と思わず尋ねてしまったわ。本当に頑張るのって、何を言ってるんだ紗理奈は、発表会のダンスを見たろう、今のだって、と、父が笑うの。母も満足げに頷いていた。私、もう一度ミミに尋ねたわ、本当にそれでいいのね?と。ミミは力強く頷いたわ。くどいとは知りつつも、私は、声に出して言って、と少し追い詰めてみた。ミミは言ったわ。褒めてくれた。頑張る。って」
後で自室に訪ねてきた妹に詳しく話を訊くと、コーチが褒めてくれたのだという。小道具で裏付けを取ると、妹の人間関係の向上が予見された。死神が示した通り、再生の芽が芽吹き始めている。「それで私は、ミミは誰のために踊るの?と訊いたわ。ミミはじっと考えて、首を横に振った。私が言葉を待つと、分かんない、と答えたわ」だからまた行き詰まるかもしれない、と白洲が愁いに目線を下げる。「けれど」と顔を上げる。「また上手に助け起こしてあげればいいのよね?」
「まあ」問題は表せないことだった。その障壁を取り払う魔法の呪文を習得したのだから、時々転びながらも行き着くところまで行き着くだろう。幸運にも運動の才能は持ち合わせている。オカルトの力を宿しているかは不明だが姉の真似で形式的占いはできるのでそれで周囲の関心を抱き込めば、案外人気者になるかもしれない。占い師を目指すのであれば形式でなく魂を込めねばならないが。
大意そのようなことを説き最後にオチをつけて私は言った。「まあ、困ったら何でも荒木さんに相談しなよ。勿論私も力になるけど、荒木さんのほうが身近で相談もしやすいし、何より運動神経は抜群だからね」
白洲はどきりとした顔を笑みで誤魔化し、しかし急に目線が彷徨い始める。仕切りに髪に触り始める。私は鳥獣を罠に嵌めて捕らえた狩猟者の陰湿な笑みを善良なる聖職者の笑みに貼り替えて白洲が自ら落とし穴の奥の奥へ滑り落ちるのを待っていた。
「花咲さん」うんと悩んで、悩み抜いた上でまだ悩んだまま白洲は言葉にしてしまう。「荒木さんには、その、想い人がいらっしゃるのかしら?」
「うーん」私は腕組みをして「なんか訊いたことあるようななかったような、うーん」と首を捻りながら真剣みをゆっくり注射器のピストンを引くように抜いて深く考えていない雰囲気を表す。「よく憶えてないかなあ」とおざなりを演出する。
「あの」強い踏み込み。「二つ目の記事の話なのだけれど、掲載予定の簡易占いで恋を占うことはできるのかと荒木さんに尋ねられたことがあって」視線を向ける白洲に私はふーんぐらいの興味を示す。「できると答えて手順を教えたのだけれど、念じてシャッフルする際に、た、対象を思い描く必要があるから、ど、なたか想い人がいらっしゃるのかしらと私は訊いてしまって……」私から相槌等何かしら反応を求めているが私は心を鬼にして無言の無間地獄に突き落とす。耐え切れなくなった白洲が奈落に落ちた。「荒木さんは、いると明言したのだけれど、そ、それがどなたか、花咲さんは、ご存知ない、かしら……?」
私は寄り添いとも無関心とも取れるルビンの壺のように多面的な表情で何も言わなかった。
頬を染めてぢつと答えを待っていた白洲は、沈黙の重さに耐えきれずに「な、なんでもないわ!」と立ち上がる。椅子が後方に転げて床を打つ音。「ごめんなさい、よく分からない質問をしてしまって。今のは忘れていただけるかしら、特別な意味は何もないのよ」椅子を直して「それでは、二つ目の記事について話し合いましょう」と冷静を装うがまだ少し動揺が抑揚に残っている。
「そうだね。簡易占いのことなんだけど」白洲は大仰に頷く。「その、試しにやった恋占いの話は荒木さんから聞いていて、確か恋人のカードが出たって聞いたよ」私は意図して話を本筋から脱線させ、講談師に学んだ間の伸縮により早口なしに割り込みにくい話法を展開する。「恋人のカードと言えば、発表会前の、お昼に占った時、白洲さんがカードの束の一番下から引き抜いたのが恋人のカードだったよね。白洲さんイカサマは良くないぞーって思ったけど、もしあれが偶然じゃなく必然だったとしたら? つまり、一番下のカードが解決の正解を予知していたとしたら? 白洲さんとミミちゃんを助けてくれた荒木さんが白洲さんにとっての恋人ってことになるのかな?」びくりと白洲が肩を震わす。「いやでも、素人だから分かんないけど。占いってたぶん暗喩であって直喩じゃないもんね。荒木さんの恋占いも白洲さんが手解きしたそうだけど、実は指導される荒木さんが白洲さんを意識しちゃった結果恋人のカードが出た、なんて、珍説かな?」素人が玄人に解説するなんて、ねえ、と笑ってみせる。白洲は後ろ髪引かれる、というより目の前に人参をぶら下げられた馬のように期待に目を見開く。荒木が自分を好きな可能性。を提示されて見せるこの反応。「うーん、でも」私は押して押してもう一押しに行く。「荒木さんが誰を好きかどうしても気になるなら、自分で占っちゃえば?」能力があることだしぃ? と悪魔のように囁く。
「だ、だめよ!」と白洲は反発した。「人の心の内を覗き込むのは悪趣味だわ! 他人の恋路を暴くなんて、それはあまりに下世話というものよ!」
「ミミちゃんのことはぁいっぱい覗いてきたのにぃ?」私は腹黒ぶりっ子の如く舌足らずにねっとりと喋る。「そぉれともぉ、私に言葉で訊くのはぁ、オッケーなのぉ?」
「そ、それは! それは……」言葉に詰まった白洲は白い肌をかじかむ雪国の子供のように真っ赤に染め、泣き出さんばかりに瞳を潤ませている。
「誰が好きかぁ、知りたくぅなあい?」転調して淫魔の如く甘く囁く私に白洲は「ずるいわ! 花咲さん、知っていてこんな意地悪をするのね!」と気色ばみ、その言葉の意味するところに思い当たった瞬間露わになる羞恥を隠すべく両手で顔を覆った。人呼んで、乙女の恥じらいである。
完落ち。
荒木の想い人が誰か話を振りながら慌てて撤回した時点で半落ち、一連の問答を通し執着を認めた現時点を持って完落ちを認定する。荒木が白洲の期待に応えた時点でデレが来ることは予想されていたが、これで相思相愛の裏が取れた。あとは事前に問題を詰めて骨抜きにしておく必要がある。
「もしもの話をするけど」過ぎた意地悪を淡々とした口調に移行する。「荒木さんの好きな人が、例えば同じクラスの誰かだったり」白洲が外した両手の向こうに強い反発を示す。「すると露骨に嫌がるわけだけど、ではもし」望み通りに、という台詞は秘す。「白洲さんを好きだった場合、白洲さんはどう応えるつもりなの?」
白洲の興奮は盛りを越えた花のように急速に萎んで神妙な面持ちに移ろい、「おかしい、わよね」とため息をつく。
「おかしい、って、何が?」中間式をだいぶ省略した返答を上手く捌くべく、私は手と手を組んで両肘を卓上に載せる。
「ソドムやゴモラのような話ではなくて?」白洲が持ち出した言い分はキリスト教徒的だった。
ソドムとゴモラ。男色等悪徳の栄えにより神に滅ぼされた町。「男色って、男が使う言葉だよね。女が女を嗜んだら女色って言うのかな? 既に男女の交わりとして女色という言葉はあるわけだけど」まだ高校一年生には早すぎる話か、白洲は明らかに引いている。「じゃあ、肉欲を介さない女性と女性の、プラトニックラブ、を、便宜的に百合と呼ぶことにしよう。百合は罪だと思う?」
「百合……」と白洲は口の中で新しい言葉の舌触りを試す。「やはり、いけないことではないかしら」
「なぜ?」待ち構えていた足払いに燕返しを掛けに行くように間髪入れず訊く。
白洲は惑いつつ思弁して、「やはり同性同士が好き合っているなんて、おかしいのではないかしら」と答える。
「うん」なるだけ上から抑えつける説教臭さを声音から排する。展開するのはあくまで論理。「本来なら、何々だからおかしいって答えないと理由になってないよね。生殖のために男女が番う、真砂のように増えよ、その秩序を乱してはいけないから、正しい家庭環境を守らなければならないから、あるいは、女性は男性をサポートする良妻賢母でなければならないから、みたいに、否定には理由が用意されるべきだと思うんだけど、今羅列した中に賛同できる理屈はあったかな?」
「……深く考えたことがないので即答はできないけれど」白洲の眉に力が籠っている。「良妻賢母はこの学校が掲げる教育目標、よね?」
「良妻賢母を目指すべきだから、白洲さんは自分が荒木さんを好きなことをおかしいと思うし、荒木さんと相思相愛になりたいと欲求するのは条理に反すると思う。のかな?」
「……いえ、そういう、教条を大上段に構えているわけでもないわね……ただ何となくおかしいのではないか、と……」白洲は、なぜ、の理由が本校の教育目標と関係ないと認識した。
「もう一度訊くけど」組んだ手を膝に下ろす。「女の子と女の子が好き合うのは、罪なのかな?」
白洲は黙った。
「人間、最後は勘になるのかもしれないけど」ここまでロジックを説きながらオチが勘なのはなんだけど、と自分でも鼻で笑ってしまう。「白洲さんは、どうしたい? 自分が荒木さんを好きなのだと認めたなら、どうしたい? どうなりたい?」
白洲は「私は」と呟いたまま水晶玉を見つめて動かない。ふと、不在の荒木に思いが向く。話し始めてそこそこの時間が経過したのに未だ現れないのは何かしらの用事をこなしているのだろう、それが何かは知らないが今この瞬間に部屋に飛び入るのだけは堪忍していただきたい。「私は」ともう一度言い、白洲は「恋人のカードだったのよ」と言い直す。「妹の件がとりあえずの落着を見せて、一安心で眠って、起きたところまでは何ともなかったの。いつもと同じ朝よ。ところが、登校する途中にふと、荒木さんに出会ったらどうしよう?という考えが、まるで雲が湧くように頭の中に現れたの。私は、そもそも今まで通学路で出会ったこともないのだし、出会ったら出会ったでこれまで通り接すればいい話よ、と思い直したのだけれど」言葉が止まる。その思考を再現するように。「思い直したのだけれど、今までどう接していたかが思い出せなくなっていて。ごきげんようと声を掛けるのさえどこか変に気取っているような気がしてきて、どう応対しても不自然な気がして、混乱した私は、もしかして、という予感を抱きながらアスファルトの上に鞄を下ろして、携行していたタロットを無作為で引いたの。出たのが……」
「恋人のカード」上手にパスを転がす。
白洲は頷く。少しずつ身振りが大仰になる。「驚いたけれど、でも、そうとしか説明がつかない、という思いもあったわ。でもまだ信じきれなくて。だって、同性にそういう好意を抱くのはおかしいし不自然だと思っていたから。私も発表会の昼に自ら引き当てた恋人のカードの意味を薄々理解し始めて、それでも否定すべくもう一度、制服のスカートを汚してでも通行人に奇異に見られてでもより詳しく占うべくカードを路上に展開したわ。結果は、前途多難の様相という情報が付加された、再びの、いえ、三度の恋人のカード。その時点で、勘でなく運命として私の心は固まっていたのかもしれないわね」と白洲は穏やかに言い終えた。
「でも、同性同士がお付き合いだなんて、という規範意識から、おかしいわよね、と腰が引けていた。そもそも荒木さんの好意が誰に向いているかも分からないし」私は間を置いてから、川の流れに物を浮かべるようにそっとクリティカルなパスを出す。「それで、一連のやり取りを通して、どうしたいかは見えた?」
「そうね」白洲は静かに胸中の熾火を差し出す。「おかしいおかしくないの話は、思いを認めたならば行動しなければならない、その勇気のなさへの言い訳だったように思うわ。行動を先延ばしにして決定的瞬間を避けるための、尤もらしい理屈だった。良妻賢母や同性同士という障害は、少なくとも私の妨げになっていない。なら、私は走ればいい。恋仲を目指してひたむきに進むわ」
「ブラーボ。さすが優等生。素晴らしい内省と論理展開と決意表明だと思うよ」私は満足に頷きながら拍手する。そして。「是非、私をその伴走者にして欲しい。あなたが内に秘めた百合の花を咲かせるお手伝いを、私にさせていただけないかしら」
「まるで、この結末まで上手に誘導されたようね」白洲は苦笑する。回路のスイッチが入ってぱっと閃いたように「もしかしてだけれど、その、荒木さんも私を好き、なのかしら?」でないとここまでの会話がまるで意味のないやり取りになるからと問うご明察にどきりとするが「百合神様はネタバレがお嫌いなのよ」とほぼ正解だが不正解の余地も残すカメレオン回答で凌ぐ。白洲は私を崖の端まで追い詰めずに、「もし花咲さんにご協力いただけるのであれば、とても心強いわ」と微笑んだ。少しのはにかみを含めて。
腰に縋りつく荒木を立たせ、ひとまず体育館を背に弁当を食べつつ会話する形に移行する。相変わらずのヤンキー座りに弁当直置きスタイル。イネ科が隆盛したおかげで土でなく草の上に置くことになる。海浜や突堤にもはや釣るという本来の目的を忘れ自動的に仕掛けを海に投げ込んだまま物思いに耽る釣り師たちの座る小さなパイプ椅子があると便利なんだけどなあという私のスローライフ気分を荒木が古典的ギャグ漫画の母が零点の答案用紙を破り捨てる勢いで引き裂いてまた恐慌し始める。
「なあ花咲! あたしがこんなに苦しんでんのになんでお前はそんなに冷静に弁当食えるんだよぉ! あたしたち友達じゃなかったのかよぉ!」
「まだ箸つけてないどころか開いてすらいないでしょ」
「酷い! 鬼! 無情!」言い募る様はまるで駄々っ子だ。だが手は冷静に弁当を包みから取り出しているのが人の不思議。
「荒木さんはさ、凄くいい人だと思うよ」前後の脈絡が分からない、というように荒木が目をぱちぱち瞬く。「その真っ直ぐさがミミちゃんを助けた。私にはできないことだった。自分を誇っていいよ、ただ!」褒められて上がりつつあった口角を止めに行く。「もっと、冷静さっていうのかな、状況分析の技術を磨いたほうがいいとも思う。例えば、引き籠ったミミちゃんのドアを握り拳でガンガン叩いたら怯えるだろう、もっと優しくノックせねば、とか、今私が白洲さんの取った対応を聞いてもこんなに冷静で平静でいられるのはそれが狼狽に値しない些事であると知っているから、とか、言葉にしなくとも状況が多くを語っているものだよ」
「大丈夫ってことぉ?! あたし白洲さんに嫌われたわけじゃないのね?!」
人生の先輩として教育したのだが荒木は中身でなく上澄みだけを掬い取って飲んだ。空腹に切羽詰まった人間に魚の釣り方を説いてもまずは魚を食わせろと動く、ということか。甘かった状況分析、お寒い唇。
「大丈夫だよ、白洲さんの中で処理が済めば、慣れたら普通になるから」照れが抜けるまでの好き避けだ、荒木の好意を仄めかされた分自信を持って視線を受け止められる日もそう遠くないだろう。
「そっか! そっかあ」安心したように天を見上げ、もうどうなるかと思ったよ云々自らが抱えた不安を切れ目なく語りながら荒木は喜びに二割増し大振りになった所作で弁当を開き如何にも好物そうな鶏の唐揚げを箸で摘まむと文字通り口の中へ放り込んだ。誰かが食べている様を見るのが好きという人々の趣味が少しだけ理解できる、幸せそうな咀嚼だ。実は彼女が既に狩られる側に回っていることを思うと、知らぬが仏、無知と無垢は切り離し難いと知る。
この幸福に安穏とした生き物の不意を突くように抜刀して斬り付けに行くのは躊躇われ、私は一旦回り道を選んだ。「ミミちゃんの話は聞いた?」
「ああ、ダンス続けるんだってな」溌溂と答える。「元々運動神経は良いみたいだから、伸びるよ絶対。将来有望だよあれは」真ん中で踊ってた子には、うーん、敵わないかなあたぶん、でもグループEの中では二番手になれそう、と嬉しそうに語り、また唐揚げを放り込む。
「越えるべき壁は越えたから、後は行き着くところまで行けるとは思う」時々転びながらね、と私は、弁当からミニトマトを摘まむ。「でも正直、頑張るって言ったのは意外だった。別方向で、例えば姉の影響で憶えた占いを主戦場に、もっと大人しい子と集まるのも一つの生存戦略だとは思った」口に運んだトマトを噛むと弾けた。
「そうでもないんじゃね?」荒木は笑いながら箸を宙に向ける。「自分でやるって決めたんなら、頑張れるんじゃねえの?」
「誰のために踊るのかは分かんないって答えたらしいけど」トマトが飛び出さないよう私はもごもごと喋る。
「んな難しい話、小学三年生で分かれって言うほうが無理なんじゃね?」白米に箸を入れ、口に運ばない。「あたしだって誰のためにやってんのか分かってないまま中三まで水泳やってたしな」
口ぶりに違和感を覚えた。飲み込んだトマトが酸味を舌に残す。「終わったこと、みたいな話し方だね」
「ミミちゃんはたぶん大丈夫」荒木は白米から箸を抜いて宙に構える。「ってことで、あたしの話になるんだけど」荒木の視線が箸の先から遠くに向かう。ケヤキの木か、はたまた晴れた空か。「月曜日さ、あたし部活来るの遅かっただろ。あれ、実はな、水泳部の顧問と現部長の米山先輩と、話し合いしてたんだよ」
月曜日、記事第二弾の話し合いが大方終わったタイミングで活動室に現れた荒木は、遅くなった理由を「ちょっちね」で片づけた。私と白洲は思うところはあれど追及はしなかった。その後私はすぐに広報部部室に移動して記事製作に取り掛かった。
「それで」私は荒木の褪色した茶髪に目を遣る。さらさらと風に泳いでいる。「話し合いの結果出た結論は?」
「正式に、退部することになった」目線は果てを見上げたままだ。下を向く疚しさを持たない。「その場で退部届を書き上げて部長も顧問も見届けてめでたく解散! ご指導ありがとうございました、とは言ったけど、ご迷惑おかけしてすみませんでしたは絶対言わないで乗り切ってやったぜ」目線が降りてきて私に向かう。不敵な笑み。
将来有望。荒木が口にした言葉。私の渋面を見て荒木は「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」と不満を表明する。「頭突きしないなら」と私が言うと「お前、根に持ってんな?」と刺々しい目で応じるので「胸ぐら掴まれたこともね」と言い添える。めんどくさ、と呆れるように荒木が眉を下げ箸も下げる。
「発言が許可されたようだから訊くけど」私の前置きに荒木は小さく舌打ちするが黙って聞く。「夏の選考会で全種目制覇の偉業を達成したアイロンガールが、なぜに水泳を辞めちゃうの? 指導力も確かだから後輩の力量を底上げしてあげることだってできる。どう考えても復帰以外の選択肢はないと私は思うんだけど、敢えて退部した理由は?」
難しいな、と荒木は呟く。難しいの?という私の問いに、難しいけど、と一度目を閉じて、そして開く。「一言で言うなら、居場所、かな」目に一杯の春の光が入る。「水泳部はあたしを斥けた。野に放たれたあたしは、オカルト研究会に行き着いた。花咲から見たら折角の才能が勿体なく見えるんだろうけど、あたしは新しい居場所に満足してるんだよ」
「あなたの思いを叶えましょうと推進した身が言うのは変だけど」私は説教に近い疑義を即座に差し出す。「恋情に流されちゃってるだけじゃあ、ないの?」
荒木は弁当を無言で食べる。私と彼女の言い分を消化するように間を開ける。
そりゃそうだけど、という導入は反発でなく静けさだった。「突き詰めると、私にとって水泳は、鬼のお姉に仕込まれたパンチやキックで、だから挑む姿勢がアスリートじゃなくて喧嘩番長だった。自分がどれだけ強いか。興味があるのはそこだけ。だから全種目エントリーせずにはいられなかった」瑞原部長、元部長か、が言ってた、強さは絶対だけどスポーツマンシップを欠いたらそれは歪んでしまっているって言葉、そういうことなんだろうなって。「もし水泳部に復帰するなら、あたしはまたパンチやキックの日々に身を置く。あたしは自分の可能性を試さずにはいられない、強さに拘る。結果、同じ衝突がまた起きる。だから退く。って言うと、かっこいい話なんだけど」少し下げた瞼に生えたまつ毛が、木陰のように瞳を焼く陽の猛々しさを和らげる。「なんか、不思議な世界なんだよ、オカルトって。白洲さんには明らかに見えてるけど、あたしにはその存在を見せてくれない。本当にいるのかなってものを探求していく世界で」まあ白洲さんには絶対何か見えてんだけどさ、とおかしそうに口端を持ち上げる。「白黒はっきりしないところがさ、あたしの性格からすると余計に白黒付けたくなるんだよ、でも、幽霊はいるかもしれないしいないかもしれない。そのカードは必然かもしれないし偶然かもしれない。裏が見えない。そのはっきりしなさが面白いような、もやもやしてどっちなんだよって叫びたくなるような」
「そして」続々と続きそうな言葉を一旦堰き止める。「オカルトの魅力に嵌まってしまった、と?」
うーん、と首を捻り、「嵌まった、まではいかないけど、なんか上手く割れない割り箸をどうしても均等に割りたい欲っていうか、うん」それって嵌まってるって言うのか、へへへと笑う。「まあ、白洲さんがセットなのはあるし?」と照れたと思うと、「あと、あたし絶対水泳部の先輩らに頭下げたくないんだわ」と傲慢な顔を見せる。
「なるほど。それは複雑で、難しいね」いろいろ含むものがあって、荒木はその価値を廃棄する。「正直、有益な将来を捨てちゃう荒木さんの決断は理解に苦しむ、かな、本音を言えば。ミミちゃんが頑張るって知ったなら猶の事荒木さんも頑張らなきゃって思わなかったの?」
「あたしだって頑張るんだよ」荒木は弁当を食べ終えて箸入れに箸を仕舞う。視線が何かを探している。「あたしは見えないものを視るほうにマジを振り向ける気になった。それだって立派な前進で」出芽してまだ日の浅そうなイネ科の葉を引っ張り上げて見せ、「再生の芽だったりするんじゃねえの?」噛み締めた歯で笑顔を見せたが引っ張り過ぎて根ごと抜ける。「あっ」と間の抜けた声を出しつつ荒木は何の気なしにイネ科を捨ててしまう。間もなくの春風で幼き植物体は飛んで緑に消えた。
「今のって凶兆じゃないの?」と訊くと「んえっ?」と油断し切った声を発する。うっかりさんの荒木にも修練の結果物事の裏が見える日が来るのだろうか。
あとはデザートを残すだけの弁当を見下ろし、一旦箸を止める。「水泳部を正式に退部したなら、今度はオカルト研究会に正式に入部するって流れで合ってる?」
荒木は頷く。「部員第二号、ってやつ」可笑しそうに笑い、会員のほうが正確か?と首を傾げ、ま、どっちでもいっか!とまた笑う。
私は、歩を進めようか進めまいか迷い、迷いながら手持ち時間の減少に焦り歩を動かしてしまう心理でぽっと言葉を出してしまう。「それ、最終イベントまで保留してくれない?」
「それって、入部の話? つーか、え? 最終イベントって何?」荒木の困惑は当然か。
「正直、どっちが正解か分からない」額に指を添えて薬でも揉み込むように擦る。「でも、入部しちゃうと人間関係に一区切りがついて落ち着いてしまう恐れがある、ような気がして。だから、こつこつ積み上げるんじゃなく、場が流動的なうちに最終イベントを仕掛けてしまおう。それから入部しよう」
「え? 最終イベントって? え? まさか? この状況で? 白洲さんがあたしとの会話を拒否してるこの状況で?」否定しながら肯定を待つ荒木の表情は宝くじ当選番号発表を自分は全然期待していないという素振りで期待して待つ生活者と相似だ、掴んだチャンスが莫大な富に代わる瞬間を待ち望んでいる。
「水泳部退部の話は白洲さんにしておいて」好きな子のことはなんでも知っておきたいだろうから、はカット。心配してるだろうしもカット。「告白する台詞は適当に練っておいて」こ、告白ぅっ!と乙女に羞恥する荒木を目で静まるよう威圧する。最終関門は予め用意した回答では切り抜けられない、それでは白洲の心は動かないだろうから荒木が以前話した白洲さんを信じたいという言葉とそれからの日々を信じて即興で挑んでもらうしかない、だからここもカット。「来週の日曜日に最終イベントを用意する。それまでに用件は済ませて、そして白洲さんのアポも取っておいて」
「来週の日曜って、あと十一日しかないんだけど?!」驚愕する荒木に「あと四日。それは再来週の日曜、私が言ってるのは来週の日曜日」と訂正すると案の定荒木は「たったの四日!」と泡を噴いてその泡を食った表情で「だ、大丈夫なんだろうな花咲、ちゃんと勝てるって分かってて勝負しようとしてるんだよな花咲、この状況で勝負なんてあたしには自殺行為としか思えないけど告白は成功するんだよな花咲!」私の制服の左肩付近を握り込んでまた恐慌に達しそうな気配。
「古来、祭りは男女の仲を推進する場でもあったの。日常を祭りという力場により断絶させてハレを演出し、日頃は遠慮してしまうことも言えるようセッティングしたのが祭りの社会学的意義だとどこかで読んだわ。つまり思いを告げても良い場を作ることが肝要よ」
私の口調の変化に眉を顰めて一瞬弁当箱に目を遣ったのは私が変な物を食べたとでも思ったのか。荒木は握った制服を放し、河童のミイラ展示を騙る見世物小屋の看板を見るような目で身体を引いた。
「お姉さまの語った正攻法その五」私は雅やかに告げる。まつ毛の伸びを意識して。「イベントは人間関係化学反応を促進する触媒である」
私のエレガントな語りに感銘を受けたのではおそらくなくて荒木はお姉さま乃ち姫宮華恋様が語ったというブランドの前に神を崇める時と同じ両膝着いて両手組み合わせての祈りの姿勢を取った。ただの紙切れが富に変じた瞬間。「ありがとうございます神様、華恋様! これであたしも、あたしも夢のきゃっきゃうふふライフなのね!」勝利の確信に喜悦し私の弁当箱を覗き込んでそれメロン? 美味しいよねーときゃっきゃあはははしゃぐ荒木の口にメロンを詰める。喜びの彼女は最終イベントを仕掛けることを了承したがただ仕掛けると言っていてその具体を私が何一つ提示していない事実を見過ごしている。
いくつか候補はある。けれどイベントには概して人数が必要なのだ。どうしよう。参ったなー。今更退く展開は無いしなー。
春の清新な風に荒木の笑い声が運ばれてやがて宙に溶けた。
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