第1章 ヤンキー百合 18
「つまり現状相思相愛で、あとはくっつくだけなんです。でも白洲さんが好き避けに陥っているところからしてストレートに好意を表明するわけもなく、やはり思いを素直に告げ合える場を用意する必要があると思うんです。そこでお姉さまが仰られた通りイベントを仕掛けます。こちら側で統制可能なハレ状態に二人を置くわけです」
お姉さまの部屋でお姉さまを前に私はあらすじを語り、これからを語る。監督生の職務のために置かれた椅子と卓が私専用に設えられたのではないかと錯覚するほどに私は悩める下級生に馴染んでしまっている。貴代子様はまたも席を外してくれた、別に菓子折りで喜ぶような人でもないだろうが何かしら心砕きに返礼をしなければ。
私の論述に必要最低限の相槌のみ入れていたお姉さまは、私の言葉が途切れたタイミングで「それで、仕掛けるべきイベントの内容が決まらない、という相談ね?」と先回りして尋ねてくれる。説けば説くほど話が末枝末葉の正否という些末に嵌まり込む上司とは理解力が違う。「さすがお姉さま、ご明察です」と巧言令色微塵もなく自然と口にできる素晴らしさと健全さ。
ふふ、と柔和に微笑みお姉さまは「そうね、四月ももう終わりが近いことだし、ゴールデンウィークにお出かけに誘う」私の微かに開いた口から意思を読み取り、「より前に、ゴールをセットしてしまったのね?」
「来週の日曜日です。あと四日後です」言いながら巨石の重圧のようなものを感じて顔を顰めてしまう。「荒木さんが水泳部を辞めて、オカルト研究会に入部するって言うんです。入部すると関係が固定化されて進まなくなる可能性が怖くて待てと指示したんですけど、かといっていつまでも入部させないのは苦痛だろうし逆に不自然という気もして、白洲さんに入らない?と誘われた時点で荒木さんは入部しなければならないという時限不明の爆弾を抱えるリスクも考慮するとこちらから速攻を仕掛けるべきだと」耳より後ろの頭を掻く。「そこまでは考えたんですけど、じゃあどうやって王将を詰むのと訊かれると、手元に駒がない、みたいな感じなんです」
「そうなのね」お姉さまが可笑しそうに口元に手を添えて笑う。お姉さま?と訊くと、ごめんなさい、と言い、可笑しさを身体深くに押し返した様子だ。「百合子は、四年生にしてはとても落ち着いていて、頭の切れる子だと思っていたから、珍しく焦っている様を見ると安心するような、年相応のような気がして頬が緩んでしまったの」ごめんなさいねと繰り返す。
「年相応ですか」私の顔には不平が現れていたようで、お姉さまはまたくすくす笑う。
「一つ、いいかしら」お姉さまがすらりと細長い人差し指を一本立てる。「荒木さんが、水泳部を辞めたことを日曜日までに白洲さんに報告してしまったらどうなるかしら。当然、好きな人が謂わば空席になったのであれば白洲さんはこれ幸いと研究会に誘うのではなくて?」
先に違和感があって、遅れて痒みを叩きに行った時には蚊は既に飛び立っている、みたいな迂闊さ。荒木に水泳部退部の話をしておけと言ってしまった、となると今日の放課後に切り返すように白洲から勧誘された可能性がある。広報部で記事を作成していた私には今日オカルト研究会活動室で何が起きたかは分からない。
「荒木さんも、告白までは入部を順延する作戦を承諾したのだから、きっと……あまり上手な立ち振る舞いではないかもしれないけれど言い逃れているのではないかしら」想像でしかないけれど、とお姉さまは手を腿に揃えて載せる。「そこは荒木さんが踏みとどまってくれた前提で話を進めましょう。来週の日曜日に公的なイベントはないのでお手製のハレを提供しなければならないわけだけれど、基礎は妹さんと同じで興奮状態に陥れればリミッターが外れ心の内を伝えやすくなる、という原理よね?」
「どこかで愛を叫ばせますか?」トランス状態に陥れる最も単純で簡単な方法。
「確かに、宣言させれば勘違いもなく互いの思いを確認できるわね。ただ、告白させる、その手前にある羞恥のハードルを越えさせなければ、愛を叫ぶ段階に入らないわ」あくまで興奮が先立たなければならないわ、とお姉さまは前提を確認する。「ハードルを下げる興奮としては、例えば脅威を、私は推薦するわ」説明を求める私の視線に頷く。「人は身の危険を感じると、即応できるよう生理的に興奮する。興奮状態はこれで確保できるわ。さらに、脅威に付随するのが仲間との結束よ。戦友という言葉の存在が、特別な絆の存在を担保しているわね。脅威という非日常が、結束と、普段であれば決して口にしない思いをするりと引き出すと思うわ」
「吊り橋やお化け屋敷や肝試しみたいな身の危険、ですね、分かります」頭の中のイベント候補が一つ、集団から抜け出す。やはりお姉さまも同じ結論にたどり着いたか、と嬉しい思いと確かさを得た手応えに膝の上の手を握る。「ただ、二人を脅威に晒すと結束を深めただけで終わる可能性もあります。今回で告白を絶対に引き出したいんです。永遠に地球を周回する月の関係性に陥らないために。そのためには、脅威を援用したきらきら作戦が、打つべき最善策だと思うんです」
「きらきら作戦?」愉快そうにお姉さまが口元を微かに上げる。
「はい」私はゆっくり頷く。「人間、窮地を救われたら、その救世主がきらきらして見えるのは世の理です。その現象を人為的に発生させるんです。統制可能なハレによって。演出された虚構の危機というイベントによって」
少し漫画的解決になるのですが、と前置きして腹案を説明する。お姉さまの頷きと共に腹案は加速して、「ただし」と付け加えたところで重りを背負わされたように著しく失速して他案の群れに吸い込まれる。「どうしても人数の問題と人相の問題が出てくるんです。そこを解決しない限りこの案は成立し得ないんです」少し漫画的であるという問題も含めますが、と言い添える。
お姉さまは少し首を傾け、思慮の後に「そうね」と静かに言う。「人相の問題は、変装である程度解決するのではないかしら。極論すると、それは演出なのだから、言ってしまえば小芝居なのだから、後から説明を加えれば問題は解決するのではなくて? 人数は、できれば三人、最低二人でも不自然ではなさそうね。その内の一人は千恵で決まりよ。演劇部所属は心強いわ、それに荒木さんの恋心秘話を最初に共有した相手が千恵なのでしょう? それならば、彼女はその帰結を見届けるべきだし、目の前での恋人関係の成立に異を唱えないでしょうね。あと一人を誰に設定するかは悩みどころだけれど」目を細めた結果涙袋が浮き上がる。「残念な結果と称すべきかもしれないけれど、実は誰でも良いはずよ。あなたと接したことのない生徒は誰一人として『百合』を知らないのだから、荒木さんと白洲さんがどのような言葉を交わそうとも特別仲が良いくらいにしか思わないのではないかしら。倫理や学校の指針に反すると徹底取り締まりを訴える子はいないのではなくて? あなたの味方に回ると言った以上は思想も共有すべきだけれど、正直に言えば、私でさえ、彼女たちの関係が将来と呼ぶべき長きにわたり継続するとは、真実味を以って捉えられていないわ。あなたの思想に接してきた私でさえそうなのだから、他の子が警戒するとも思えないし」だから、残念なことに、誰でも良いのよ。お姉さまは申し訳なさそうに眉を寄せる。
お姉さまの正直な思いが正解なのか不正解なのかは、彼女たちが示してくれるでしょう。まるで抗弁なので私は口にはしなかった。私の不動の面相が自信として伝わったのだろう、お姉さまは、そうね、それは彼女たちが教えてくれるわね、と言い、「ところで百合子」と軽い調子で名を呼ぶと、「すっかり失念しているようだけれど、あなた、大切な点を見落としているわ」声に少しの悪戯っ気が混じる。
首を傾げて、何も思い至らない。「……何かありますか?」
お姉さまは人差し指と中指で歩く人を表し、腿の上で歩く人と歩く人が歩み寄るとその奥で無意味と思われた親指と親指が重なり合う。何かの暗喩だが読み解けない。私の疑問をお姉さまが解く。「二人が思いを確認し合った時、彼女たちを裏で操っていた者の姿も炙り出されてしまう。つまり百合子の暗躍が露見してしまうのよ、二人が経過を突き合わせれば必然と。二人は恋愛成就を感謝するでしょうけれど、黒幕の立ち回りに怒りを覚える可能性もあるわ。弁明は考えていて?」
「あぁっ」崖の先端や手すりのない橋で出し抜けに背中を突き押されたかのような、変な声を出した私にお姉さまは再び可笑しそうに口元を押さえて笑った。
「ただいまー」部屋に戻ると千恵がベッドに腹這いになってプリントに目を通していた。「何それ?」と訊くと「文化祭の演目決め」と海老のように足を曲げ、「文化祭に何やるか今の時期に決めるんだよねー」足を下ろす。難しい顔でじっと紙面を見つめている。
「演目候補が不満なの?」千恵を勧誘すべしというお姉さまの正論を頭に、私は人に懐き過ぎた鳩を捕獲する悪意を秘めて千恵に接近する。うーん、と唸っていた千恵が突然顔をこちらに向けて思わず足を止めてしまう。千恵は私が足を止めたことに気づいたが、そこから何の不審も読み取らなかったようだ。「この中だったら百合子はどれがいい?」と毛布上に紙を落とし、私をベッドに誘う。
私は何の気なしにの態で千恵のベッドに腰掛けプリントに目を通す。有名な古典と、オリジナルである以外は何も決まっていないオリジナル劇(仮)。
「毎年演じてる、伝統的位置づけの劇はあるの?」もう一度候補名を読み直す。
「ううん。毎年違う演目の、大概は古典かな」体を起こして千恵は私の横に座る。「同じ演目の繰り返しは演じ手が前年と変に比較されて委縮しちゃう恐れがあるし、かといってゼロから作ると、あの人の低質な脚本をなんで私たちが演じなきゃいけないの?っていう不満が一部部員に必ず表れるから」人間関係とかね、と漬物のように添える。「だから毎年違う、そして全員納得安定の古典をひとまず選んで、それを脚本や演出がアレンジするのが常」今年はロミジュリがカタいかなあ、と首を伸ばしプリントを覗き込んで呟く。
「凄く悩んでるように見えたけど?」千恵の髪からシャンプーの匂いがする。私の髪も同じ匂いを発している。そして文化祭の演目決めを覗き込んでいる。高校生そのものだが心は老獪で千恵を誘うチャンスをしたたかに狙っている。
「うーん」千恵の頭が離れる。残り香。「結局のところさ、私は小道具なんだよね。役を得るのは先輩らだから選んだ劇を私が演じるわけでもないわけ。それを思うと、小道具的に何やったら楽しいんだろう、とか、逆に、既に有る物を流用すれば面倒な製作は免れることができるな、とか、そういう発想もあってさ」ロミオが自らを刺す短剣なんかいいかも、と宙に突き刺す真似をしてイメージを確かめている。
「過去の劇で使った小道具や大道具が残ってるの? それって持ち出し可能?」私の中のぼやけた絵が一部のみだがくっきりと見える。
「ん? うん、まあ、使うから借りていきますねーとか先輩に言えば大概大丈夫だと思うけど?」千恵はその意図を欲する。
直球で行こう。「実はね」と前置きして、私は本題を切り出す。「近々、より厳密には四日後の来週日曜に、荒木さんと白洲さんめでたく相思相愛を知るイベントを執り行おうと思ってるんだけど――」
「おおおっ!」千恵が定規で消しゴムを切るように大声で私の話を切断した。「ついに来ちゃった? ついにそこまで来ちゃったのね!」他人の生活を覗き見る下衆の興味が見え隠れしているが私の嗜めの視線にごめんごめんと両膝に手を突っ張り四角い箱のように硬く座る。
「お姉さまと詰めの協議を行った結果」うんうんと輝く瞳の千恵。「協力者として雛窪千恵さんの参加が決まりました」おおーっ!と四角い箱を平行四辺形に移行してこちらへ身を乗り出す千恵。「今のお気持ちは如何ですか?」インタビュアー風に訊くと千恵は顎に手を添え、「とても光栄です」とスポーツ選手のように凛々しく述べた。
「予定は空いてるってことでいいのね?」「もちのもち!」「実は、やや損な役回りなんだけど、一から説明するね」と語り始めたところで部屋入口のドアが急に開いて「ごきげんよう」とささめが闖入してきた。
千恵が反射的に私の口を手で塞いだ。ささめは部屋の中へずかずかと踏み込み、ベッドに並ぶ私たちの前に立つと、如何にも厭味ったらしく鼻を鳴らした。「庶民二人が、何をやっていらっしゃいますの?」彼女は千恵の疚しい手を見落とした。
「ごきげんよう。一条ささめさん」庶民と小馬鹿にされて直情的に何か叫ぼうとした千恵の口を手で塞ぎ、千恵の手を空いた手で下ろして私は穏やかに挨拶する。「私と千恵は演劇部の、今年の文化祭の演目について話し合っていたの。ささめさんはどれが好きかしら?」
プリントを持ち上げ示した私をじっと見つめ、「花咲さん、お伺いしたいことがあるのだけれど、よろしいかしら?」ささめはこちらの質問を完全に無視した。私たちが何をやっていたかなど端から興味ない。
「ええ、何かしら?」プリントをベッドに置き、笑顔で問う。千恵は不愉快を示したいのだろう、ベッドに横になり寝返りでそっぽを向いた。
ささめは勿体つけるように一度瞬きし、あくまでエレガントを意識して喋る。「あなた、近頃お姉さまや貴代子様に何かしらご迷惑をおかけしているのではなくて?」
何かしら。その正体は既に知っているような含み。私がお姉さまの部屋から戻って十分も経たない。つまり、それを咎めている、ということか。
「監督生に指導を受けている、っていう回答じゃ不服だったのかな?」
先週の日曜日、副島先輩がわざわざ訪ねてきて尋ねた私とお姉さまの親密さの件。その回答を用いて突き出した言葉のナイフに顔を顰め一歩後退ったささめ。驚いたところを見ると自分が裏で糸を引いていたことが知られているとは露思わなかったのだろう。
ささめはわざとらしく咳払いした。「お姉さまに指導を受けている、という噂は聞いていたわ」伝聞で上手く逃れた。「ただ、その回数が多いのではないかしら? お姉さまはただでさえお忙しくていらっしゃるのに、これ以上負荷をかけてしまうのはよくないのではなくって?」
「高校からなもので、訊くことが多くて」私は殊勝に頭を下げる。「以後気を付けます」
「ええ、是非そうしていただきたいわ」ささめはつんと反り返る。揺れる巻き毛は高慢の表れではあるがそれなりに美しかった。
窓がガタガタ鳴っていた。ただその荒涼とした音だけが響いている。
ちらっとささめが私を見た。私は微笑みを返した。ガタガタ鳴る音。
ささめは指に巻き毛を巻いて誤魔化していたが、秘した苛立ちが針で突いた指に浮く小さな血溜まりのように次第に膨張して、やがて自重に耐え切れなくなり、落ちた。「それで、お姉さまとはどのようなことをお話になられていたのかしら?」
気を付けて、気を付けます、という表層のやり取りでは副島先輩が持ち帰った回答と同じでささめは満足できない。ささめは私がお姉さまにどう接近しているか知りたい。本質に切り込みたいから当然の問いだ。副島先輩に外箱だけ持たせて帰らせた時点でささめが内容物の回収にいつか来るだろうとは踏んでいた。それが今この瞬間という奇跡。
「強いて言うなら、演劇、かな?」私の発言に意表を突かれたようにささめは目を瞬かせ、ややあってプリントに目を遣る。「いいえ、そちらは演劇部の話、ですわ」私の勿体ぶった言い方と語尾が癪に触ったのだろう、ささめは険を目元に表す。「私はお姉さまと、と或る物語の話を、してきたの」
してきたの、というフレーズにささめの肩が僅かに動いた。今まで、そして、ついさっきもあなたストーキングしていたでしょう?という含意。ささめは私がお姉さまの部屋に入るところを追いかけて確認し、出たところでまた追いかけて、部屋に戻った私が最も慌てるであろうタイミングで踏み込んできたのだ。
「物語って、何ですの?」ささめは腕組みして反り返ることで揺らいだ目線を誤魔化した。
「それは、美しい関係性についての話」謎かけに口を開こうとするささめを制するような声の強さで。「その最終章を、演劇を以って幕としましょう、と、お姉さまと確認し合っていたのよ」
「……まるで理解できないわね。知性とは難解さに宿るものではなくてよ?」ささめが小馬鹿にする。が。「それで、その物語って、最終章って、何かしら? 演劇をしてそれが終わるの?」やはり食いつかざるを得ない。
「そうよ。ただ、演劇をやるにも人が必要でね」私は寝転がる千恵に目を移す。「一人はちーちゃんに演じてもらう。彼女も同意してくれた」
「……雛窪さんはこれが何の話で何を演じるか知っている、ということかしら?」ささめが問う。しかし千恵は何も言わない。背を向けている演出が余計にささめの苛立ちと焦りを誘う。「雛窪さん、聞こえているのでしょう? 返事くらいしたらどうですの!」
「最終章の演劇。その役に空きがあってね」私は換気扇から流出するカレー香気の誘引のように話を場に流す。「過日を振り返るつもりはないけれど、その演劇に立ち会いさえすれば、私とお姉さまが何を親密に語らっていたのか分かる。ので」ささめは私に視線を振り向けている。「と言っても、別に無理にとは言わないのだけれど」私の垂れ流す蜜に今にも飛び着きそうな形相。「お姉さまを御敬愛されている一条ささめさんとしては大切なお姉さまの情報を得るためにそれはもう喉から手が出るほど参加したいと意欲しているのではないかと思いましてお誘い申し上げる――」
「お断りしますわ」ささめは貴族の高貴を以って片手で私の誘いを払い除ける。私の露骨な煽りを受けながら参加させて欲しいと頼み込むほど自分は安くないと言いたいのだろう。「生憎ですが、わたくし、庶民の雛窪さん」粘っこい言い方だった。「と一緒に演劇するだなんてまっぴらごめんですし、礼儀知らずの花咲さんに下げる頭は持ち合わせておりませんの」では。一礼してささめは踵を返す。訓練された上品な歩調で出入り口へ向かう。
「残念です。他を当たります。失礼しました」と私はその背に言葉のつぶてをぶつける。だが彼女は止まらない。そのまま部屋を出た。千恵が寝返りして私を見上げる。私は頷いて見せた。
五分後、ささめが戻ってきた。今度は千恵と黙って待ち伏せていたのでノックの音も辛うじて聞こえた。窓のガタガタ云う音もなくなっていた。
「失礼致しますわ」ずかずか踏み込んできた前回と違う丁寧な挨拶に穏やかなステップ。つんと澄ました顔。巻き毛を僅かに上下に伸縮している。
「何か?」まだ何か?という最強手札を突きつけると貴族の誇りに基づきまた撤退して間合いの読み合いになるので穏当な表現で迎える。
千恵のベッドに座る私の前に立ち、自信に満ちた頼もしさで自らの胸に手を当てる。「わたくし、失念していましたわ」私の、何を?という反応を期待し、一向に開かれない口に焦れて練ってきた台詞の続きを語り出す。「花咲さんは高校からの『外部』受験生でしたわね。入学して一か月にも満たないのですから、交友関係も大変お狭いのではないかしら? きっとその演劇とやらを頼めるご学友が、ひーなーくーぼーさん、しか、いらっしゃらないのではなくって?」うっざ、と千恵は聞こえるように呟いてまた反転してささめに背を向けた。スマホをこつこつ突いている様にささめは「みだりにそういう物を使ってはいけないという規則でしょう!」と声を荒らげる。千恵は完全無視。私は頭の中で誰も守ってないだろうけどと付け加えた。ふん、とささめが鼻を鳴らし余裕を演出する。言葉にはしないが口元が賤民と言っている。「花咲さん。わたくしは高貴な身分に属する人間として、あなたのような困窮している民を救う義務を負っているの。ですのでわたくし、ひーなーくーぼーさんと共演するのは甚だ不本意ですけれど、その空席の役を演じてあげても良くってよ?」
自分が手を差し伸べる形。先程の非礼な誘いへの返礼も意識しただろう。ピノッキオのようにつんと尖った鼻の先。確かな鼻梁。
「お願いしても良いかしら?」私の嫌味無き返答にささめは少し驚いたように目を見開く。「別に、感謝には及びませんわ。義務ですもの」と、悦に入りながらも殊勝な私と不遜な自分の対比に後ろめたさを感じ自慢の巻き毛に指を入れ払った。当然私の殊勝は計略で彼女は落とし穴に落ちた事実さえ認識できていない。
「ありがとう。それでは」ちーちゃん、と呼びかけ、二人に同時に演劇の流れを説明する。その流れの最後に位置する告白に演者は不要なのでそこは割愛する。千恵とささめはあくまで道程なのだ。「そこで唐突に終わるの?」とささめが怪訝を浮かべるのは必然だが、「そこで現れる彼女たちの生の言葉が、私とお姉さまの語り合った全てよ」と言うと、まあその時に考えればいいかというようにささめの顔から皺が消えた。
脚本に変更が出た場合はメールで送信します、と、連絡先の共有を持ちかけるとささめは渋々ながら私とアドレスを交換した。雛窪さんに知られるのは絶対に嫌ですわ! それはこっちの台詞! ささめと千恵は反目し合った。
帰りしな、ささめに訊いた。整合性に訴えるフット・イン・ザ・ドア・テクニックの意味で。「一条さんは、お姉さまのことが本当に好きなんだね」
「当然よ」ささめは八分音符の猶予もなく返答した。「わたくし、お姉さまが大好きですわ」と言うとささめはお姉さまの素晴らしさを列挙し始める。分かる、と頷きたい面もあるが私が求めているのはそういう反応ではない。
「まるで、自分が最も近しい人であるかのように、好きなのね」私のくすぐりにささめは、当然よ、と気を良くして鼻を伸ばす。その先をとんかちで叩きに行く。「もはや恋慕の域ね」
ささめは押し黙った。恋心を言い当てられて羞恥に身を震わせる。
はずだった。
「いいじゃない、別に」
巻き毛の高貴に似合わぬ、吐き捨てるような口調だった。
「え、ああ、うん」と情けない声で答えてしまった。
ドライアイスを用いたように場が急速に冷めていく。後方から来た車に撥ねられるような、全く頭になかった展開に対応しようと考えを巡らせるうちに冷や水の声で「段取りに変更があった場合は連絡をお願いするわ。それでは失礼するわね」と言うや否やささめは迷いなく去り、当然と言えば当然だがもう戻らなかった。
「なんだろ、今の」反転して千恵が私に訊く。「分からない」そう答えるしかなかった。
木曜、金曜、土曜と過ぎた。ささめの、いいじゃない別に、の意味を熟考した。だが分からなかった。とりあえずはお姉さまへの恋慕を認めたことになる、荒木と白洲の相思相愛を目の当たりにした際、自分だって恋しているのだから他人様を止める権利はないという整合性の働きにより良妻賢母や倫理を持ち出して徹底糾弾してくる可能性は潰せたはずだ。言質は取ったのだ。ささめの背景は気になるが今はそれで良しとするしかない。
荒木は予想されていた白洲の勧誘を「その話も含めて日曜よろしく!」という、荒木にしては上出来の回避で回答延期に持ち込んでいた。千恵とささめと演目が揃った木曜昼の段階でイベントの詳細を伝えると、荒木は当然二人の参戦に当惑と反発を見せた。大丈夫なのかと。信頼していいのかと。二人とも詳しく話せないが百合当事者だから蕾を踏み躙る心配はないと宥めた。たぶん、と添えると荒木はまた恐慌し始めた。千恵は信頼できる、ささめは私が場合によっては首根っこ掴んでコントロールする、と説くと荒木は、本当に?と九度繰り返し、本当だな?と念押ししてから嫌いな食べ物を供されたように無理に呑み下して、ため息をつき、腹ぁ、括ったよ、と虚ろな目で言った。
そして日曜日の太陽が昇り始めた。
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