序章 8

 シャワーヘッドから出た水は温かかった。それほど寒くない夜だが浴びた温水に血行が速く太くなる感覚がある。それだけ冷えていたのだと知る。

 女子校の中で育まれる愛。それは特殊な環境下に於いて芽生えた愛で、環境が変化すると関係は容易に壊れるつまり贋物であると説く百合識者が一定数いる。男という選択肢が現れた途端女子×女子が破綻するケースを彼ら彼女らは問題視し、「結局、男がいない環境下で恋愛ごっこがしてみたかったんでしょ、結局」と嗤う。それを訊く度私はくたばれと思う。だが百合過激派のドグマに染まりたくないので不快だがその学説を唱えることを禁止はしない。

 ある百合識者は、男が導入された瞬間壊れる百合をむしろ偏愛する。その儚さが所謂少女性を無限に引き出し、非常に尊いのだと彼ら彼女らは説く。私の中の乙女はこれに同意する。だが、是としない。喪失を約束された百合は常に美しく繊細かつ少女的であるが、そこで発生しているのは実はドラマの賞味であって愛の探求ではない。彼ら彼女らが欲求しているのは運命に翻弄される不幸を味わうことを目的とした悲劇なのであり、真実真正の惚れた腫れたあなたが憎いでも好き!という感情の趨勢ではない。重視されるのは泣ける話で百合の成就とは落着点を異にしているのである。

 では、真実真正の百合とは。男が現れて猶、女×女が貫かれる百合である。どうあっても女×女でなければならない関係性、それが本物の百合である。

 であるならば、百合の園に男の侵入を許した百合神様は何も間違っていない。この男を否定した先に真実真正の百合がある。とは言えないのが現実である。それは社会システムに起因する。例えば男性の経済的優位、のような。あるいは嫁の品質が社会的地位と密接にリンクするがゆえの政略結婚、のような。支配する者とされる者の構図。

 良妻賢母として男性の所有物となることが定められたこの学び舎でいくら真実真正の百合を育もうとも彼女たちは結婚という社会的腕力により否が応でも引き離されてしまう。美しく咲いた百合の花は世間の圧力を受け、男性の硬い手で手折られてしまうのである。深く愛おしい関係も制度の剛腕に勝てない。裏で背反しようとも表では結局屈服させられてしまう。これは力による占領と同義である。

 だから、これはフェアな戦いではない。男が侵入した時点で百合は確実に負ける出来試合なのである。百合は、その避けられない結末を前提とした、ひと時の秘め事でしかない。箱庭の中で演じられる、束の間の夢。それが希望ヶ丘女子学園という絶望の舞台。

 髪に泡立てたずっと嗅いでいたい甘ったるい香りのシャンプーをシャワーで洗い流す。きめ細かいボディーシャンプーの泡に身を包み、転生してからの汚れを浮かして取る。お湯に流す。傾斜のついたタイルを流れて泡は排水溝へと向かう。隣で洗う千恵の汚れを抱いているであろう泡と合流して、私の泡と千恵の泡が区別なく混ざり、排水溝の金属の上で蟠っている。私はシャワーを向けて泡を全部消し流した。

 共同浴場は、さすがに露天風呂はないが、豪華で広大な風呂だった。浸かる湯は温めで、つい長湯しそうな心地良さだ。皆が触るのだろう、つるつると磨き込まれた、少し彫り込みの浅くなったライオンのアイコンが湯を口から吐き出している図は、リッチなような少しシュールなような、見ていると心まで温もる癒しの造りだ。

 浴槽の隅に座り、見渡す。裸の女子高生たちが自らを洗い清めている。悪戯で隣の女子に泡を投げつける者がいる。投げ返す子がいる。浴槽で肩を寄せ合い湯がもたらす夢に浸る子たちも。つまりこの浴場は、百合神様が用意された18禁百合の現場なのだ。桃色の百合の花が咲く肥沃で湿った土壌。普段の私なら発狂しているだろうが今は意識に付着した黒い点が陶酔を許さない。

 男性と結婚し良妻賢母として暮らす。それが私たちの結末さ。

「どうしたの、こんな隅っこで黙り込んで」千恵が私の横に座る。ツインテールを下ろした髪は、長すぎて湯に浸かるので後ろで一纏めにして簡易ポニーテールを作っている。

「……」無視するつもりはないが、語るべき何物も思いつかない。

「顔暗いぞー」千恵は掌を見つめ、開いて閉じてしている。

 ふと生命線が気になって私は掌を見る。湯が、かくれんぼをスタートした児童みたいに掌の上を走り去って、現れた右手の生命線は存外短い。左手を見ると長さが違う。

「私も、何となく百合子の、趣味? 呑み込めてきたからさ、だから、浴場に来たらめっちゃうるさくて手が付けらんなくなったらどうしようって思ってたんだけど、なんか静かだね」両手で湯を掬って、両手を離して湯を捨てる。

「まあ、ね」私は手を湯の中に戻す。

「貴代子様って、普段はすごくやさしい人だよ」千恵は指先を指先でいじり始める。「今日は、お姉さまが言う通り、意地悪だったんだよ。それか虫の居所が悪かったから」

「貴代子様は」千恵の言葉に被せるように言う。「入学式で、きゃあきゃあ言われたけど無反応だったよね。あれも普段からなの?」

「それは、式だから。壇上で応えるわけないじゃない。普段はきゃあきゃあ言われたら、手を振り返してる。だからそんな硬い人じゃ、硬い人じゃないけど……」千恵の語りが衰えて命の尽きた花火のようにしゅっと消える。考えて、それから線香花火のように小さな火が灯る。「まあ、一線引いてるっていうか、バレンタインデーとか、チョコは絶対受け取らない頑なさはある。去年、じゃなくて今年の初めか、貴代子ファミリーの子たちがチョコ作ったんだけど、受け取らない主義だからの一点張りで、結局自作のチョコを自分たちで食べる羽目になって」

 貴代子ファミリーとは貴代子様と彼女が監督する下級生の総称だろう。「理由は?」訊いてみる。

「どうしても受け取らない、としか」千恵は首を振る。湿ったポニーテールがいやいやをするように揺れる。「そこら辺、妙に潔癖というか。別にいいじゃんって思うんだけどね。みんなもそう言ってた」

「お姉さまも?」難局で歩を進める気持ちで訊く。

「お姉さまに貴代子ファミリーの子たちは泣きついたんだけど、頑固だから、私の言うことも聞かないわ、って言われて、ジ・エンド」仰向いて吐き出される、ため息は力無い。

 何かしら頑なになるきっかけがあったのだろうが貴代子様がそのヒントを与えるとは思えないしお姉さまが関連情報を漏らすとも思えない。つまり謎は解けない。

「別に、恋愛感情とか、そういうんじゃないのに、ねえ?」

 抑揚が大仰な千恵に、ん?と思う。「……恋愛感情持ったらだめなの?」

「あなたねえ」千恵は目を見開いて一瞬息を詰める。ややあって、「あれだけ貴代子様に説教されて、反省ってものはないわけぇ?」まるで川に棲む海栗を見る目で言う。

「ちーちゃんはどう思うわけ?」喉元にナイフを突きつけるイメージ。

「私は……」千恵は俯いて顔を左に向けた。「別に……」

「……別に?」ゆっくり続きを促す。

「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝き、病人のような蒼白い顔の月である」

 千恵が、湯に沈む自らの影に向かって諳んじた言葉は、出だしは平塚らいてうで間違いない。

「歴史の授業で、平塚らいてうが出てくるじゃない? 女性解放運動がどうたらで、青鞜だっけ? 名前だけは知ってるみたいな。如何にも勇猛果敢の印象じゃない? それで、一回さよりに、からかいの意味でらいてうらいてう呼んだらさ、さよりが珍しく怒った顔でさ、まあいつもあの子は怒ってるんだけど、今回は本気で怒ってる、みたいな顔でさ、原始女性は実に太陽であったを諳んじてみせたのよ」

 諳んじられたのは平塚女史の台詞で間違いないらしい。後半部、つまり冒頭の太陽だった過去形に込められた真意は初めて知った。

「ぴんと来なかったよ? ふーん、それで?って馬鹿にしたら、さよりが、暗唱できるまであなたを離さないって、もうこっちは興味ないのに、無理やりに叩き込まれたわけよこの言葉を。周囲も、またさよりさん怒ってる、みたいな感じで。でね、原始女性は太陽だった、って唱えてるところに先生が来たわけ。そうしたら」

 躊躇いからか、一度言葉を切る。纏めきれなかったもみあげの毛が雫を落とす。

「先生、誰が言い始めたのかって犯人捜しし始めて。私たちは何で先生が怒ってるのかもよく分からないわけ。何か悪い事言った? みたいな。とりあえずだんまりで逃げようって、クラスの中で暗黙の了解が出来上がってるところで、さよりが『私が言いました』って。ドカーーーンよ」

 良妻賢母を出荷する工場内で、それは自らの光をくすませる生き方だから革命しようなんて言説を流布するのは、工場の運営に当たる者としては見過ごせないだろう。

「それで?」

「先生が、後で職員室に来てくださいって。授業の後は昼食でさ、さよりが行った後みんなでわいわいお弁当食べて。で、五時間目始まるくらいにさよりが帰って来てさ。どうなってたと思う?」

「どうなってたの?」

「口を真一文字に結んで、目元が真っ赤。明らかに泣いた後。その様を見て、私分かったの。めっちゃ絞られたけど、さよりは絶対謝らなかったんだって。あの子強情だから絶対譲らないところは譲らないから。たぶんクラスのみんなも感じたと思う」

「潔癖、だったっけ?」

 うん、と千恵は元気なく頷く。まるで目の前にその光景を見ているように。その光景を前にして何もできなかった自らの無力に落胆する様子で。「学校の説く正しさに徹底服従してさ、制服はちゃんと着なさいとか唇に何かつけてるでしょうとか、歩く校則、ガチガチの委員長キャラやってるさよりが、どうしても承服できなかった学校の教えって何だったんだろうって思った」

 学校で教わる全てを正しいと盲信するわけではなくて、自分で物事を考え、正しいものと正しくないものに線引きしていたさより。自立している分、自立を挫く月の生き方を承服しかねた。

「ノートの端に暗唱させられた言葉をメモして、それから事あるごとに思い返すようにしたんだ。そしたら、良妻賢母って、絶対幸せなのかなって、自信なくなって」もちろんそれが幸せの人も多いと思うよ、と慌てたように手を振る。「でも」と視線を湯の中に落とす。「それ以外の幸せだって、全否定されることはないかもなとも思うんだ。だから……」

「だから?」その先は自分の口で言って欲しくて、聞きに徹する。

 話の落着点は見えている。だから、百合子の趣味も否定はしないよ。

 と思ったら。

「お姉さまってさ」

 唐突にお姉さまの話になる。「うん」相槌で進行を探る。

「婚約者がいて、卒業と同時に結婚する運びになってるの」湯の下に向いていた視線が水面を滑って遠くへと走る。その先にお姉さまはいない、ただ共同浴場の出入り口がある。「それが幸せで、正しいんだろうけど、なんか割り切れない思いもあるんだよね」

 千恵がその先に文章はないかのように口を閉じた。

 私も奥歯に力を入れて口元を曲げることしかできなかった。

 お姉さまは卒業と同時に結婚する。それは貴代子様が説明した時点で分かっていたはずだ。ただ、改めて口に出して言われると、確定事項として突きつけられると、物凄く苦かった。お姉さまが男性と結婚することが嫌なのか、それをシステムとして整えた社会が憎いのか、それとも百合の園が踏み荒らされることへの怒りなのか。分からない。

 考え込んで、ふと、スイッチがオンに切り替わり回路が繋がった結果豆電球に明かりが点く、ある種の閃きが訪れる。

 たぶん千恵は私の「趣味」に対して一定の理解を示した。その話の流れで唐突に飛び出たお姉さまの話。となると、お姉さまが絡んだ百合の物語があるはずだ。併せて、恋愛感情さえ無ければチョコくらい受け取ってもいいでしょ、という言い分を話した際の千恵の、恋愛感情という単語への過剰反応。それは、知っている、ということ。以上を踏まえて見えた景色は。

 もしかしてお姉さまが好きなの?

 千恵へと踏み込みかけた一歩を強引に引っ込める。それはあくまで推測で確証はない。本来噛み合わないはずのピースがはまって進行したパズルみたいなものでそれは正解とはまるで違う絵の可能性がある。でも、万が一その推測がドンピシャで、同時に千恵が内面への干渉を嫌った場合、最悪私と千恵の関係が壊れてしまうかもしれない。私はこの世界での補佐役を失うと同時に相部屋での非常に気まずい生活を送らなければならない。今その質問は絶対やめた方がいい。

 という打算もないではないがそれよりも。

 千恵とお姉さまの百合を支持することで私は、目の前で繰り広げられる姉妹百合を堪能する権利を与えられる。馥郁たる百合の花に身を埋めて蜜塗れの法悦に浸る機会を得る。だが。私は貴代子様が予言された百合が散る瞬間を、千恵と共に最前列で見せつけられるだろう。だろう、ではなく、それは確約された未来だ。それを知って、無責任に百合!百合!叫んで推すだけで、いいのだろうか。

 百合信徒としてこの桃源郷で百合欲を蕩尽せしめたいという巨大願望。

 けれど破滅を含んだ百合を個人的享楽のために貪るのはよろしくないという倫理。

 天秤の皿の、左が下がり右が下がり、事の重さを様々に置き比べてみた結果。

 滅びる運命の百合を、我欲を満たすためだけに利用するのはよくない。よね。

 一人、女子が湯舟を発つ。その背中を私は見送った。出入り口、ドアが開いて彼女が出て行くと同時に入ってきた女子が二人。副島先輩と炉端さんだ。

「酷いんですよ、うちのお母さん!」「なんで?」「わたしが紅茶を飲みたいって手紙を書いたらすぐ茶葉が送られてきたんですけど」「うん」「オレンジペコーではなかったんです! わたしいつもオレンジペコーしか飲まないって言ってるのに!」「炉端は拘るからな」「しかもセイロンだったの! ダージリンがいいって手紙にも書いたのに!」「でも、送ってもらえただけありがたいと思わなきゃ」「ええー、わたし副島先輩みたいに大人の対応できません」「わがままだな」

 元気よく不平を訴える炉端さんにさらりと応じる副島先輩。二人は洗い場に並んで座り、炉端さんがシャワーを手に掴むと副島先輩に背を向けさせて湯を浴びせる。何の断りもなく副島先輩の髪を濡らす、濡れた髪に副島先輩がシャンプーを泡立てる合間に炉端さんはボディーシャンプーを使って副島先輩のボディーを洗い始めた。

「おおおお」私の口から感嘆が漏れた。止めなさいと千恵が肘で私の横腹を小突く。大丈夫と手を立てて見せ、理性で語る。「肌と肌によるコミュニケーション。尊敬から始まった毛繕いが、いつの間にか炉端さん主導の触れ合いになってしまった。因みに副島先輩と呼称させるのは上下関係への拘りのように見えて真実は先輩と呼ばれたい願望も潜んでいる」

「……あなたねえ」千恵は片膝を立て、もう片方の足を伸ばす。「いちいち解説する癖、なんとかしなさいよ。失礼っていうか、不躾じゃない?」

「見えちゃうと、ついね」

「それほんとに正しく見えてるの? 百合子の趣味で像が都合よく歪められてるんじゃないの?」呆れたように鼻を鳴らして、「でも、確かに」と考え込む顔で湯の中の膝小僧に目を落とす。「ロビーで百合子がああだこうだ言った時、炉端さんが副島先輩のこと、ながちゃんって呼んだじゃない? 私、だけじゃなくたぶんみんなも初めて聞いたと思う。普段は副島先輩だから」

「副島先輩も炉端さんのこと、二人の時だけ特殊な呼び方してるとみて間違いない。ベタなところで、名前の呼び捨てかな」

「菫?」

「ながちゃんと菫。それが良妻賢母の牢獄の中で秘された二人の本来の関係」

 副島先輩を洗い終えると、二人は向きを反転して、今度は炉端さんの洗浄が始まる。炉端さんはくすぐったいのか時々身を捩じる。厳格に見えた副島先輩が見せる、柔和な、まだ高校二年生であることの証明のような幼い笑顔。この濃密な百合が、男性の登場によって散る。それは百合信徒から見れば悲劇だ。では、二人にとってはどう受け取られるのか。

「ちーちゃん」

「何?」

「この二人の仲は、本物なの?」

「本物?」千恵は遠くの物を見るように目を細める。「仲の良さって意味なら、本物よ。それは百合子なら、あなたの言い方をすると、見えてるんじゃないの?」

 副島先輩が卒業を迎える段階で、結婚が決定される。男が割り込んだ瞬間、彼女たちはどうなる? 傷つく。副島先輩は、ぐったりする。間違いなく。では明るい炉端さんはどうだろう、案外分かたれた後も元気にやっていくのではないか。あるいは逆に、萎れてご飯を食べることさえ拒否するかもしれない。それはおセンチなのか本物なのか。

「これが真実真正の百合なのか、それは私にも見えない」

 湯から上げた両手で顔を覆う。視覚の遮断された世界を他の感覚器官で知覚する。接触刺激。嗅覚。聴覚。女子高生が群れているにしては意外に静かな浴場の中で聞こえる水音、囁き合い。鮮明に聞こえる炉端さんの、甘えた声。

 誰かが湯に逆らって立つ音と共に両手を下ろし、開いた目が明るさに順応するのを待つ。ピントが合って、洗い合いを終え湯舟に向かって来る二人の楽しげな表情が克明に心に映る。私の視線に気づいた副島先輩が野良猫を追い払うように目で威嚇してくる。

「見えないけど」私は言った。「たとえ悲劇が待つとしても、今在る百合が否定されていいとは思えない」

「百合って、その、女性同士の、れ、恋愛感情的な話ってこと?」

「それは狭義の百合だけど、今はそれで合ってる」

「それはつまり、貴代子様に逆らうってこと?」千恵が私の意志を試すようにその大きな目で覗き込んでくる。「学校の教育方針に楯突くってこと?」

「私は」胸から競り上がる思いが、意味を消化し尽くす前の文章を吐き出していく。「私は平塚らいてうではない。確固たる信条を掲げて良妻賢母思想に立ち向かうわけじゃない。貴代子様が明示した男性による終わりを覆せる権力があるわけでもない、結末は変えられないかもしれない、非力だから。それでも。私は今目の前に在る百合を、慈しみたい。見守りたい。何なら水をあげて追肥もしたい。百合の花が咲く瞬間を、応援したい。だって、彼女たちの抱く好意に、嘘はないのだから。彼女たちは何にも間違っていないのだから」

 私がこの世界に転生した意味。この無自覚に百合を量産する世界で私が果たすべき役割。それは、練達の百合観察者として彼女たちの百合を育み、立派に咲かせることではないか。私は百合専門の花屋として活躍する。育て上げた百合たちがいつか、百合神様の用意した最後の試練、男性、という壁を乗り越える奇跡を希望して。だから希望ヶ丘女子学園なのだ。

 武者震いに水面が揺れ、波紋がすぐそばの千恵にぶつかる。千恵は私を見つめ、続いて湯の中に視線を移し、星を読む航海士のような目つきで、「そっか」とだけ言った。私たちと離れた位置に座った副島・炉端ペア。炉端さんの語る中学二年生になっての抱負が、猫が遊具で遊び回るように焦点をあちこちに移しながら活き活きと湯気を吹き散らしていた。


 就寝前の自由時間に寮母さんに挨拶に行った。シスターのような恰好を予期していたらごく普通の衣料量販店で売っていそうな服装の女性が現れ驚いたが顔には出さないようにした。

 痩せ型で身長はやや低めの寮母さんは寮に於ける最低限のマナーやその他注意事項についてはきはきと淀みなく説明する。

「携帯電話は、基本的には寮でも利用を控えるよう、学校側から言われているわ。ただ、今のご時世、携帯電話無しで生きるほうが難しいので、社会勉強の一環として、寮での利用は禁止していません」

 千恵は別に普通に使っていい、と言っていたが原理原則からはややずれているのだと知る。千恵が寮で暮らすうちにオッケーだと判断した、本当は禁止若しくは制限されている項目もありそうで、でも細々確認すると膨大な時間がかかるので要所と思う点のみ訊き返す形で確認を取る。

「以上で大まかな説明は終わりだけど、あと聞いておきたいことは?」

「……学費とかは、因みに誰が払ってるんでしょうね?」

「あなたの親御さんに決まってるじゃない」驚いた顔で言われる。

 ですよね、あはは、と笑って誤魔化す。寮母さんから両親の名前を引き出すのは無理だなと諦める。

「って、いけない、私も呆けてたわ」寮母さんがうっかりに言い訳するように顔を崩す。「寮とは関係ないんだけど、高校からの子には一律に伝えてるから」

『さか』という場所があるらしい。学園からは離れているため訪れることはないだろうが、地下へと下りていく巨大な坂が町の中心にあり、下りきると未知の世界に紛れ込んで戻って来れなくなるそうだ。興味本位で検問を突破して坂を下り、そのまま行方不明となる人が毎年数人いるので「遊び半分で近づいてはだめよ」。

 それから自制心とダイエットについて二人で話し、互いに打ち解けある程度の信頼関係が築けたと確認できた段階で如何にも今気づいたという調子で時計を指し、お暇を告げる。部屋に戻ると千恵が鞄に教科書を詰めていた。私も倣って明日の授業の準備をする。今更因数分解なんて欠伸が出るが変に聡いと目立ちすぎるかもしれない、多少のぶりっ子も生きるための智恵として必要となるだろう。チート主人公設定も思いの外楽でない。

 千恵が、そっかの続きを、私の生きる道に対する賛否を口にするかと思ったがそのまま消灯を迎えベッドの中。柔らかすぎると腰に悪いと聞くベッドは程良い硬さで、被さる布団は手触りよく程良い重さで母なるものに抱かれている幸福だ。現に染み込み始めた夢の中の善子に語りかける。善子、私、今百合の園にいるよ。天国に来たよ。善子が微笑む。良かったわね。私の分も楽しんでね。でも、寝て起きたらまた元の世界だったりして。

 何それ、怖っ。

 夢の中で言ったのか現で発声したかはもはや分からず、私は滝壺に落ちるように眠りの世界へと落下した。

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