第1章 ヤンキー百合

第1章 ヤンキー百合 1

 人間は同じ刺激を受け続けるとニューロン間のレセプターが目詰まりして神経伝達物質を受容できなくなり興奮を維持するのに必要な神経伝達物質の量つまり閾値を得られずいずれ鎮静する。これが慣れであり、ゲーム用語で云うところの耐性である。

 という興奮の生理学的な説明の正確さは保証しかねるが理屈の上では百合による興奮も百合漬けにされることで耐性が生じて多少の百合では動じない不動の精神を得られるはずである。

 上記の仮説の元行われた百合生理学実験に於いて判明したのはある一定以上の質の百合刺激を投入されると百合好きは狂乱せずにいられないもののやはりある程度慣れは生じるという結果であった。

 午後の陽の温かな金色が次第に熱を落として茜色に移り変わろうとしている放課後を私は正気で迎えた。

 耐性獲得の道程は険しかった。

 登校路のそこかしこに咲く百合に悶えながら何とか辿り着いた教室内は濃密な百合のゲンバだった。喋る女子と女子。触れ合う女子と女子。見つめ合う女子と女子。見るもの全てが百合で、私は初めて上京した田舎者のように見るもの全てに目を奪われ、感動し、百合妄想を垂れ流しながら随喜の涙を流した。このまま教室にいたら発狂すると思いテクニカルタイムアウトで何度か場を離れたがショートホームルームから先は着席して授業を受けなければならない、アルコールにそれなりに強い私は時に同僚の暗黙の要請で気に食わない上司にお酌を暇なく注ぎ酔い潰す悪行を働いてきたが、今度は自分が濃密な百合の香に酔い潰され人格を破壊されるのだ、と、恐怖とある種の恍惚に震えながら始業を迎えた。

 一時間目。数学。女子が小さな紙きれを渡し始めた。逢引きの予定が記されているに違いない。あるいは他愛のない言葉の蕩尽による女子コミュニケーション。私は百合に感応して妄想を垂れ流し教師に退室を要求された。

 二時間目。英文法。前置詞withを使って文章を作れ。教師の問いに、生徒がI’m with you.と答えて後こっそり指を銃に見立てて友人を撃った。私は百合に感応して妄想を垂れ流し教師により退室を命じられた。

 三時間目。化学。教師に隠れて周期表を指さす生徒。友人がエイチと発声する。恥じらいながら。私は百合に感応して妄想を垂れ流し教師に叱られたところを改めず百合を必死に解説してまたまた退室の憂き目に合った。

 四時間目。古典。教師が新枕の意味を説明。隣席の女子が頬を染める。私は百合に感応するも我慢を覚え耐えた。頬を染めた女子が新枕の意味をメモした。私は堰が洪水に押し切られたように百合を語り出し言わずもがなの退室。

 昼休みを迎えた時点で一種異様の空気が私の周りに満ちていた。得体の知れない怪物を見るような、それでいて人がホラー映画を観ることを止められないのと同様の、正体不明に対する好奇の眼差しが私に注がれていた。均衡を破って攻めてきたのが藤さより女史で、生徒としての心構えを糾す大説教を受けた。ある程度怒らせて適度に発散させてから千恵が助けに入ってくれた。それを合図にクラスメイトが数人寄って来て昼食となった。目の前でお弁当のおかずを融通し合う、肩を小突き合う、わざと意地悪する等のきゃっきゃうふふが展開され百合に狂う私を千恵が上手く御し、ここにようやく私は百合耐性を獲得し、百合語りをある程度抑制できるスキルを得た。

 五時間目を教室から追い出されずに乗り切り、皆の感嘆を心地良く受け止めながら終礼後お掃除、そして迎えた放課後だった。

「さて、と」千恵が鞄を手に振り返る。「掃除も終わったし、あとは下校するだけなんだけど、アレか、部活かぁ」

 青少女の健全な発達のために必要不可欠の、部活、という制度。当然私もどこかしらへの所属を求められる。

「帰宅部一択で」「それはない」と言下に却下される。

 まあそう来るだろうと予想していた。だが、今更私に何をやれと言うのか。肉体は若返ったとはいえ百合以外の何かに打ち込む気概はない。ライズボールが投げられるようになったり市民マラソンを完走できる鉄人になったり何某流の免許を皆伝したりといった特殊技能を修めた求道者となる予定は毛頭ない。精神的向上心のない者がする部活ほど馬鹿げたことはない、その時間と労力を他へ傾けたほうが遥かに有益だ。

「という理屈により帰宅部で」「却下」

「私みたいな姿勢で部活に挑まれたら真面目な部員がキレるでしょ」「だから真面目にやるって発想にはならないわけぇ?」「ならぬ」

 ちっ、と千恵が舌打ちした。走ったら危ないから走るなと警告したにも関わらず駆け出した子供を追いかける直前に母親が鳴らす、自らの怒りに納得するような舌打ちだった。

 そんな淀みなど知らないように午後の陽は野放図に美しかった。

 ため息を吐き、喋り始めた千恵の声にネガティブな響きはなかった。「まあ、学校側は生徒全員何かしらの部活に所属しなさいって求めてるけど、実際は幽霊部員もざらにいるしね。確かに、余程自制心のある子でない限りカフェとかでのご歓談に堕落するわよ」ここまで直截にやらない宣言する子は百合子くらいだけどね、と釘を刺す。「真剣にやる気がないなら各部の活動について深く知る必要もないじゃない? これから適当に見学して、一番網目が荒らそうなとこに決めちゃえば?」

「規律が緩そう、ってこと?」

「そーゆーこと」責める気は感じないが吐息に呆れが含まれているのは確かだ。

「なるほど」と引き取る。「……因みに、ちーちゃんの演劇部は?」

「うちは相当ガチよ。とにかく人手が必要でしょ? 役者を餌に大道具小道具とか雑役係を吸い寄せてるけどまだ足りない。だから一度入部した子は逃がさない、一定期間サボるとどうして部活来ないの攻撃が始まるの、それに根を上げて労働力として組み込まれちゃう例が多数。ピラミッド建設みたいなものよ。純粋な役者志望だとしても演技力がよっぽどでない限り先輩を押し退けて役には就けないから学年が上がるまでは雑用暮らし。だからやる気と自信がないなら来ないほうがいいよ絶対」ブラック部活、と手と手を交差してバッテンを作る。

「もうそれ相談機関作ったほうがいいレベルだね」突っ込むと千恵はでしょーと笑う。演劇部の暗黒面について語り出した千恵に数回相槌を打ち、頃合いを見計らって「じゃあさ」と話をぶつっと切る。「お姉さまは何部なの?」

 饒舌だった千恵が、冷や水を掛けられたというか、村の禁忌に触れたように話し止む。そんな深刻な反応は予期していなかったので「あ、いや」とよく分からない言い訳をしてしまう。

「まあ……」言い淀んだ千恵は、最終的に隠すより話すほうを選んだ。「帰宅部、なんだよね……。さっき全員何かしらの部活に所属しろって言ってたのに、おかしくない?って思ったかもしれないけど、その、お姉さまは例外、っていうか特例? なんだよね。親の意向で」

 政治家の父の、遊興に時間を浪費するより勉学せよ、との教育方針に基づきお姉さまは部活には所属せず、即刻帰宅して勉学に励むよう奨励、というより半ば強制されているらしい。部活は遊興で、全く無意味な制度。私も似た理論を展開して部活動を拒否しようとしている、でもそれは一度学校を卒業してしまった者という背景があるからで、思春期、青春真っただ中にある子から強制力を持って部活動の時間と交友関係を奪うのは、不健全というか非道ではないか。「帝王学、的な?」皮肉を込めた問いには怒りが貼り付いている。

 千恵は、私に言われても、と怒りを送り返すような視線だ。「帝王に相応しい嫁としての教養、とかじゃないの?」

「……ごめん。何となく嫌だなって思って」

「いいよ別に。ただ、自由に部活動ができる幸せ、っていうのも、あるんだよって」千恵が瞬間的に右に束ねた髪に触れた。

「確かに」私は頷く。「ただし、それを聞いて私のやる気が出るわけでもないんだけどね」

「あなたって捻くれてるっていうか、そこは説得される場面でしょ」呆れ顔で呟き、「まあいいや。とりあえず部活動を見て回ろっか。百聞は一見に如かず」行こう、と促す。

 うん、と頷き、並んで教室を出たところで訊いてみる。「ちーちゃんはさ、何でここまで親切にしてくれるわけ?」

「親切?」まるで異物を前にしたように目を眇める。「別に普通じゃない? 私が百合子の立場だったら何して欲しいかを考えたら、ねえ、これくらいは普通するでしょ?」

 陽に照らし出された千恵の虹彩は明るい茶色。映るもの全てが綺麗に見えるのかもしれない。

 普通はさ、見返りを求める、とか、もっと打算的になるものなんだよ。

 疑問文に対する疑問文への回答は喉まで競り上がらず胸で消える。普通は、じゃなくて、大人は、なのかもしれない。そう思うと、光を宿す千恵の瞳が眩しかった。

 公的機関が携わったのかと思うくらいにきっちり整備されたトラックを陸上部員たちが高速で走り、照明付きのグラウンドではサッカー部が二人一組でパスの練習、ソフトボール部は「正門から校舎へ上がる坂でダッシュしてるよ」と聞き見学前に入部候補から削除する。運動部はどこも体力を基礎とする、いくら身体が若くともその酷使・摩耗を惜しまない姿勢に精神力が耐えられない、自分をそこまで追い込めない。第一、元々の肉体と同様の素養なら平均をやや下回る運動神経のはずで、そんな雑魚を本格的なアスリート志望が混ざる運動部に入れて待つのは悲劇だ、何でそれくらいのプレーができないのという蔑みの目線だ、でも排除するのは可哀想なので足を引っ張らない場所でのみ戦いに起用しようという憐れみ政策だ、それが分かって猶運動部に入りたいと宣う者は怖いもの知らずか阿呆かマゾヒストのいずれかだ。必然、運動部は選択肢から除外される。

 撤退を進言すると千恵は「ここだけ、ここだけ見て」と私を体育館に連れ込む。階段を上がりコートをぐるり囲んだ応援スペースにはプラスチック製の椅子が並んでいる。何名かが座り、その倍以上の数が応援スペースの際、落下防止用の柵にがっついてコート上で展開されるバスケ部の練習を見ている。私の中でギアががちりとはまる音。

「まさか、バスケ部のかっこいい先輩が後輩マネに汗を拭かれてるとか?! それとも観客席に爽やかに手を振っちゃってきゃあきゃあ言う百合なの?!」

「あながち間違いではない」と千恵は勿体をつけ、学校で聞き知った面白いネタを何も知らない両親に披瀝しちゃうぞと意気込む子供の表情を浮かべる。十五歳は元から子供だが悪戯を前にすると余計に幼く見える。ツインテが生き物のように振れる。

 私たちも柵の手すりに手を置き、コートを見下ろす。パスを受けてレイアップシュートを打つ練習を部員が半円を作って順に回している。皆がいとも容易く決めるので私でもできちゃうんじゃないかと錯覚しそうになるが私は現実の厳しさを刷り込まれて生きてきたので勘違いはしない、あれは日々の刻苦精励の賜物であり即席でできるものではない、第一彼女たちは私より二回りは長身だ。

 彼女らの日々の鍛錬への称賛と自らへの微かな落胆を胸に眺めていると、柵に噛り付く女子がそれぞれの推しの出番に散発的にきゃあきゃあ言っていたのが、ある瞬間に、幾筋の小川が流れ込んで一本の大河となるように全ての黄色い声援が重なり怒涛となる。一種異様の威圧に私の身体が無意識にびくつく。何だ、と思い黄色い声の理由、まさに走り出さんとしているコート上の人物を見る。あれは……

「あ、貴代子様だ」

 私が少しの驚きに漏らした声を漏らさず聞き取った観衆が声援を止め殺気立った目を向けてくる。これは、アレだろうか、みんなの貴代子様の名前を呼んだ抜け駆け行為への制裁なのだろうか。ベタベタ少女漫画展開は品行方正お嬢様学校であろうと起き得る摂理なのか。

 応援席の突然の沈黙に貴代子様がこちらを見上げる。凡そ事態を呑み込めた様子で、その上で私に小さく手を振った。観衆の視線が刃物のように痛い。誰あれ? さあ? とツンドラ的極寒世論が形成されつつある。

 走り出した貴代子様が中央で待つ部員にパスを出し、少し角度をつけて返されたパスをキャッチして素早いドリブルからのレイアップシュートに行く。と思いきや、両手でボールを持ち直し、羽でも生えているかのような滞空を見せてから片手でボールをリングに叩き込んだ。ダンク。

「きゃあああああああ!」

 全員で黄色い歓声を上げる。全員には勿論私と千恵も含まれている。私だって乙女遺伝子を搭載している、王子様キャラのダンクシュートという最高のファンサービスに反応しないほど鈍くない。むしろここで変に自制するほうが非礼とも言える。

「鷹宮! 真面目にやれ!」監督の怒声が飛ぶが、貴代子様は「ごめんなさい」と手を合わせながらもバレないように私にウインクして見せた。

「きゃあああああああ!」

 私と、そのウインクが自分に向けたものであると都合よく解釈した子が再び歓声を上げる。気絶した目出度い子もいたが多くはひそひそ話を聞こえるように囁き合っている。今あの子にウインクしたのかしら? そう見えなくもなかったけれど? 誰なのかしらあの子? 貴代子様って呼んでいたわね? 何者なのかしら? 目障りではなくて? 調子に乗っているのではないかしら? どなたか学年と組を聞き出していただけないかしら? 彼女の横にいるのって、雛窪さんよね?

「ちーちゃん、行こう」

「ええ?」楽しげにコートを見つめていた千恵がツインテを振り上げて振り返る。「シュート練の次がミニゲームよ。ここからが楽しいんじゃない?」

「いやあ、バスケ部は、っていうか運動部はやっぱり無理だなと思って」

「え? ああ」私を部活動見学のために体育館に引きずり込んだのではなくただ単に貴代子様のかっこいい姿を共有したくて連れ込んだという真意がありありと顔に現れていた。「そっか。でもまあ、せっかくだからミニゲーム見ていきましょうよ、貴代子様すごいんだから!」

「いや凄いのはさっきのダンクで分かったから、もう行こう」

「きゃあああって叫んでたくせに」もう少しいようよと膨れ面の千恵の後ろで貴代子様親衛隊が合議の上何かしらを可決した。親衛隊長がこちらに近づいてくる。

「ごきげんよう」親衛隊長に小さく頭を下げて千恵の手首を引っ掴み出口に向かう。「ちょっと!」と言いつつ私の握力に意志を感じ取ったのか千恵は振り解こうとはしなかった。

 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下で振り返り、誰も追撃に来ないのを確認して、ふぅ、とため息して手を放す。ここからがお楽しみだったのに、と千恵が文句を言う。体育館は暫く出禁かな、とぼやく私にええーなんでー、と口を尖らせる。何がどうして出禁か分からない?と訊くと、分からない、と即座に述べた。もしかして私本気で貴代子様に嫌われてるのかな、と呟くと、電卓で1+1=と打って5と表示されたみたいに、なんで?と首を傾げた。

 運動部はなし、となると選択肢は文科系の部活以外になくなる。校舎へ歩きながら千恵に希望ヶ丘女子学園の文科部を列挙してもらうが憶えられないほどに羅列されるので一番暇そうで出席に五月蠅くない部活を教えて欲しいと頼む。「そんな存在理由がない部活、無いわよ」と呆れつつ千恵は腕を組み、「うーん、強いて言えば、広報部とか、うーん、科学部とか、軽音楽部とか、あとは私も知らない泡沫同好会とかか、うん、同好会がいいんじゃない?」問題が解けた嬉しさに満ちた顔で私を見る。「なるほど、じゃあ広報部に案内して」と私は即答した。

 広報部部室まで先導してもらいながら名探偵千恵の解を採用しなかった理由を説く。同好会は部への昇格のため人員確保に躍起になっており活動実績も問われるだろうから却って束縛される。熱意がある分厄介だ。個人の趣味で完結する者はわざわざ同好会を発足しない。人気の部に所属することでその大所帯を隠れ蓑にフェードアウトする手法もあるが暇で五月蠅くない部と言われて名を挙げられる部の、それも一発目に言及される部はよほどルーズで、かつ生徒の無意識に退廃の象徴として刻まれているのだと推察される。なら、熱情のない私の行くべき場所はそこしかない。千恵は、理屈としては理解できるけど自分の意見が即刻却下された点については承服しかねる、と不満げながら任務放棄など露も考えず粛々と階段を上る。

 踊り場で生徒とすれ違う。制服の濃紺と清楚キャラのお手本のような黒髪ロングが白磁のようにすべらかに透き通る白い肌に映える。すれ違いざま、彼女の切れ長の目が私に向けられ、小さく「ごきげんよう」と言うと愁いを帯びた瞳を進行方向に戻した。「ごきげんよう」と私が返すのにつられて一拍遅れて千恵が「ごきげんよう」と彼女の背に挨拶したところを見ると二人は普段から声を掛け合う仲ではないようだ。

 踊り場から階段を上がり切るタイミングでまた生徒とすれ違う。今度はこちらから「ごきげんよう」と声を掛けた。鋭い目つきが一度狼狽したように丸くなり、すぐにまた睨みつける威勢を取り戻す。艶やかな長い茶髪。彼女は何も言わずに視線を外して階段を下りる。

 千恵が私の袖を引っ張り、早く行きましょうを歪めた顔で表現している。それに従い階段から廊下へと折れる。千恵は角から恐る恐るの態で階段を覗き見て、ほっと息を吐いて、「ちょっと百合子!」と腕にしがみつき怒ったような哀願するような素振りで言う。「あの子は荒木月っていう、割と学内で有名な危険人物なの! 下手に話しかけないで!」

「あらき、るな?」

「そう! 月って書いて『るな』って読む、もうその言語感覚からしてヤバいでしょ! どうやってこのお嬢様学校に入学したんだか分からないけど、札付きの悪、コテコテのヤンキーとして有名なのよ!」

「ふーん」

「ふーんって!」千恵が目を剥く。「あの目付き! あれはもう人食い鮫だから! 荒木月にカツアゲされて、お前ジャンプしろって、小銭まで全部巻き上げられたとか、まだ四年生で当然無免許なのにバイクで登校してるとか、しかも盗んだやつだとか、それとか、チームって言うの? 不良の集会に一人で乗り込んで全員ボコボコにして足にキスさせて手下にしたとか、数知れぬ伝説を持つレジェンドヤンキーなのよ!」

「レジェンドヤンキーだとこの学校にいちゃいけないルールでもあるのかよ」

「当たり前――」声の先に振り向いて千恵はバロック彫像のように固まる。荒木月がすぐそこに立っていた。好意的とは言えない、というかいつ胸ぐらを掴まれてもおかしくない凶悪なオーラを放って。

「ごきげんよう、荒木月さん」私が挨拶し直すと、

「月って呼ぶの止めろやぁ!」と、飼い主以外が触れるのを極度に嫌がる犬のように吠えた。「キラキラネームだって馬鹿にするつもりか、あぁ?」

「ごめんなさい、その、悪意はなかったんです。どう呼べばいいですか?」

「荒木か荒木さんって呼べ」間近に迫るレジェンドヤンキーの身長は私と大差なかった。

「百合子」千恵が真面目な顔で言う。「この廊下の、手前から数えて三番目の部屋に広報部があるから。部屋の上に広報部って書いてあるから、OK?」頷くと千恵は荒木に向き直り、「ごめんなさい、私部活動があるので、質問やクレーム等はすべてこの子にお願いします」私の両肩を両手で叩くように握り締め、「じゃ!」と言うや否やスカートを翻してまだ見ぬ明日へと駆け出した。猶、本校に於いて廊下を走るのは校則違反で、友を売るのは倫理違反に当たる。

「あいつ、確か同じ四年生の雛窪千恵、だろ?」青春ダッシュを見送って荒木が私に問う。

「ちーちゃんって校内でも割と有名なほうなんですか?」

「あ?」メンチを切る姿は堂に入っている。出来過ぎなくらいに。「雛窪はなんつーか、平民? 他に適した言葉分かんないから便宜的にそう呼ぶけど、とにかく親が富裕層じゃないってことで有名だな」

「じゃあレジェンド平民、か」

「あ?」不快害虫を見る目だったのが不審人物を見る目に変わる。大した差ではないが。「お前、雛窪のダチじゃねえの?」

「友達だけど、危うい若人を見守るお姉さん目線もあるかな」

「ぺっ」エア唾吐き。「意味分かんね」

 私が微かに含み笑いしたのを荒木は見逃さなかった。

「お前今笑ったろ! あたしのこと舐めてんのか、あぁ?!」

「私はキャラ作りなんて考えもしなかった世代なもので、つい」

「喧嘩売ってんなら買おうじゃねえか!」掌に拳をバシッ。

「うん」私は目を閉じて、それから情を一切込めない機械的視線を荒木に向ける。「それより、荒木さんはこんな所で私なんかに時間を割いてていいんですか?」

「あ?」戸惑いを含んだ分威力が薄れる。

「言い方を変えます。あの子を追わなくていいんですか?」

「あの子?」眉間に皺を寄せる。「ああ、雛窪? 別に、わざわざ部活動先に出向いてまで絞めようってつもりはねえし」

 今に夢中になりすぎて他の案件をやりかけで忘れるタイプのようだ。「その子じゃありません。あの子です」謎かけにうんざりを返す彼女に、その眼前にそっと、ジョーカーを突きつける。「黒髪ロングの色白の女の子。彼女を秘かにつけていた最中だったのではなくって?」

 一瞬、きょとんとして、すぐに荒木が私の両肩を掴む。「ばばば、馬鹿! ちげえって! 別につけてねえし! 追いかけてないから!」

 答えが頬に赤く浮いている。

「んふふーーーぅ」私は抑えきれなかった。「ヤンキーちゃんが優等生っぽい黒髪ロングを恋慕してストーキング! 他には強気なくせに愛しの彼女には話しかけることもできない奥手なの! だってあの子はあたしのト・ク・ベ・ツ! 喧嘩腰で接するなんてできないわ! ああ、貴女を見つめるあたしの存在に気づいて欲しい。でもだめ、この思いにまで気づかれてしまったらどうするの? 苦悩と葛藤。でも、それでもやっぱり私に気づいて欲しい! あたしどうすればいいのかしら? 花占いで決めようかしら? 気づいて、気づかないで、気づいて、気づかないで……花弁は全部散ったけれど、やっぱり、あたしに、気づいて……目に見えない花弁を一枚、むしる……」

「勝手に話を盛るな! 別に気づいて欲しいとか思ってねえから! 片思いとして胸に――」口を押さえて荒木、だがもうその言葉は存在してしまったのだ、それは波としては消えるけれど意味としては消えない。

「思いを隠さないで! この学校の教育方針と用意された未来は重々承知してる! 女の子同士だっていう謎の引け目も初心者はある! でも、あなたが今口にした思いこそが紛れもない真実、その感情は本物よ。だから、否定しなくていいの!」両肩を掴まれる窮屈さの結果、励ましの意味で出した手がなぜか一番掴みやすい荒木の胸ぐらを掴んでまるで私が恐喝しているみたいだ。その通りなのかもしれないが。「その片思いを、両想いに成就させませんか? 百合の花を咲かせてみませんか? 私は一級百合観察者。百合専門の花屋です。あなたの百合の蕾を開くお手伝いを、させていただけませんか?」

 荒木は奥歯を噛み締めて視線を横に流して黙る。否定の言葉は、出なかった。

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