第1章 ヤンキー百合 2

「これ、コピー取ったら生徒会に掲載の許可を……あ、ようこそ広報部へ」

 暇そうで出席に五月蠅くない部活筆頭の広報部部室内には二名の生徒、奥の机でパソコンを前に指示を出す子と、それに従い動き回る子がいた。壁には過去の資料なのか分厚いファイルが棚に何部も並んでさながら図書館だ。動線に当たる床は綺麗に蛍光灯を反射し、誰も通らない場所は塵が積もり西部劇で砂漠を転がる謎の物体のように丸まった埃が隅に溜まっている。中央に鎮座する会議用の机には様々の書類が載せられて活気を演出するが椅子があまりに整然と突き込まれている様を見るに部員が全員異常に几帳面か長らく誰も椅子を使用していないかのどちらかでおそらく後者が正解、背もたれに触れればぬめっと嫌な感触がするだろう。ほぼ死に体。

「あの」奥でパソコンを叩いている子が偉い人なのだろうと考え、声を掛ける。「広報部に入部したくて来たんですけど」

 ちらっと私に目を遣る。「情報提供じゃないのか。初めて見る顔だね」すぐに目線がモニターに戻る。

 塩分高めだな、と上唇を吸い込んだ私に小動物みたいに小柄な子がタックルしてきた。鳩尾に頭突きして私にしがみつき、「ありがとう!」とずり上げた顔は涙と微かな鼻汁に蕩けている。そのまま私の胸に顔を戻しそうになったので慌てて「ストップ!」静止する。ハンカチで水分を拭き取り、押し戻す。

 身を離した小動物がまた飛び掛かりそうな気配を濃く匂わせながらも待てを宣告された犬のようにふるふる震える様は愛らしかった。

「待望の新入部員だぁ」また水気が彼女の顔に浮き始める。「やったよ永ちゃん、これで同好会への降格は避けられるかも……」

「部員募集の貼り紙のおかげかそれとも……」パソコンに語りかけているような奥の子。待望の新入部員に涙を流すほど追い込まれていた子と仕事以外興味のなさそうな子を前に貼り紙でなく知人に暇そうで出席に五月蠅くない部活と聞いて来ましたとは言えない。部室の惨状に見学・仮入部をすっ飛ばし入部を決意したと直言する勇気を私は持ち合わせていない。

 部屋の隅に追いやられながら磨き込まれたように艶やかな光を湛えるプリンターが、苦しそうな音を出して紙を一枚吐き出す。「長野部長、それを彼女に」パソ子が顔を上げずに命令する。あの小動物が部長ならパソ子は名誉会長か何かなのか。長野部長は美少女戦士ショウを応援する幼女の懸命さで室内を動き私に印刷された紙を手渡す。入部届だ。

「学年と組と名前を書くだけでいいから。顧問には私が提出しておくよ」キーボードを叩く軽快な音が続く。入部届は、言及された部分以外はすべて記入済みで印字されている。至れり尽くせりなのかそこまでやっても人が去っていくのか。「(めんどくさいので)ここで書いていっていいですか」と訊くと長野部長が「どうぞどうぞ!」と会議用机に突っ込んだ椅子を引き、眉をひそめて椅子に触れた指先を払い、首をきょろきょろ左右に振る。「明石先輩が置いていった段ボールの一番上に入ってます」というパソ子のディレクションを受けてファイル棚の隅に置かれた段ボールから長野部長は目に鮮やかな黄色い化学雑巾を取り出し、椅子の背もたれと座面をせっせと拭き、散らかる書類の上をさっと雑巾がけしてただ空間だけ確保できれば良いという安易な発想の元書類をがさっと横に除けて、さあ来い!と胸を張る。

 私は背もたれ上部を握り込んで埃が残っていないか確認してから着席した。「ペンをお貸しいただけますか」と訊くと長野部長は一秒を惜しむ速さで会議用机中央に据えられた円筒形の文房具入れからボールペンを引き出し私に差し出した。受け取り、紙の端に試し書きして、「このボールペン、青です」と言った。「ええ?!」飛び上がらんばかりに驚いて長野部長は文房具入れを漁る。すぐにパソ子から「そこには黒のボールペンしか置いてませんよ」と冷静な声が飛ぶ。カタカタカタと打ち続ける音。「あ、すみません、よく見たら黒でした」と私は微笑んだ。長野部長は私の悪意に気づかず微笑んだ、パソ子は乱れなくキーを叩く。

 頼りないながらも必死に頑張る部長を支える冷静眼鏡の部員による百合かと期待したが部長からパソ子に対する感情傾斜は見えないし、パソ子は部長が私に弄ばれたと理解しつつも色を成して抗議するでもない、まるで興味がないかのような反応。強権パソ子によるSM支配型百合の可能性もあるが決定打はない。興味深いが、今は寄り道している時ではなくて。

「書けました」

 入部届を長野部長に手渡し、退室に向かうと「ま、待って!」と長野部長のロリキャラばりの高い声が背にすがる。体半分だけで振り返ると今にも泣きそうな彼女の顔。

「良かったら広報部で何してるか、聞いていかない? 何する部活なのかも知らないままじゃ、ね?」

「それはまたの機会に聞きます」小さく会釈する。「人を待たせているので」それは事実だ。すぐ終わるから、と荒木を廊下に待たせている。

「みんなそう言って、そのまま帰って来ないの! あなたはまた来てくれるよね!」えーっと、と入部届を見る。「花咲百合子さん!」

「大丈夫ですよ、心配無用です」笑顔で応じる。

「入部届だけ書いてそれっきりじゃないよね? ね?」余程裏切られてきたんだろうなと、少し心が痛むが初手で情に流されると譲歩の連続となる、私はこの愛らしい小動物を崖から突き落とさなければならない。

「本業を優先したいのであまり顔を出せないかもしれないですが、可能な限り出席する姿勢でいたいです」

 長野部長は硬直した。ガーンというオノマトペ。

 カタカタカタという硬い音がキーボードを発して私の鼓膜に衝突する。等速直線運動のように、減速も加速もせずに。まるで関係ないというように。

「あの」哀感の長野部長を飛び越えてパソ子に声を掛ける。「先輩は、荒木月という生徒をご存じですか」

 手を止めて、初めてパソ子がまともに顔を上げた。「情報が欲しいのかな?」

「広報部ならゴシップの一つや二つ、知っているのではないかと思って」

 何かしら操作して、パソ子は再び視線を私に移す。「荒木月さん。彼女のことが知りたいの? それとも彼女にまつわるゴシップが聞きたいの?」

「後者です。レジェンドヤンキーをレジェンド足らしめるレジェンドについて」

 レジェンドヤンキー、とパソ子は呟く。なるほど、と薄く笑ったところを見ると、その呼び方は人口に膾炙したものでなく千恵個人の語彙と知れる。

「いくつか伝説があるらしくて」概要を伝える。カツアゲ伝説。バイク登校伝説。不良チーム武力制圧伝説。

 パソ子は真面目な顔でパソコンを操作しながら淡々と読み上げる。「カツアゲ伝説。財布を忘れて昼食が買えず飢えている級友にお金を貸した。それがなぜだかひっくり返ってカツアゲと勘違いされた。バイク登校伝説。遅刻しかけた時に姉のバイクに乗せてもらい、途中下車して歩いて登校。この際、ヘルメット装着等、道路交通法違反はなし。一度きりの話。不良チーム武力制圧伝説。全くの捏造。他にもいくつかあるけど」読む?と目で訊く。

「いえ、充分です」オチの読めた話のオチはオチ足り得ない。「イメージって大変ですね」

「ヤンキー呼ばわりの発端は……」モニターが映すものを見極めている。「うーん、三年生の夏大会前に水泳部で先輩ともめたらしい。先輩は指導と言い、荒木月は受け入れられなくて水泳部を実質辞めた」実質辞めたって退部届出したのか行かなくなっただけなのか分かんないな、と眉間に皺を寄せている。情報が雑。呟いて、顔を上げる。「たぶん、周りからお前が悪いお前が悪い言われて、反発するうちにヤンキー扱いされて、それが定着しちゃった。髪が茶髪なのは地毛とプールの塩素漂白の影響だろうけど、ヤンキーイメージ普及に一役買ってしまった。そして、あとは皆が欲しがる伝説が伝説として流布されて立ち位置が確定した」そういう流れだと思う。腕を椅子の肘置きに乗せて体を起こした。

「なぜそんな細かな情報を広報部が握っているんですか」間髪入れず訊いてみた。

「私たちがその伝説の発信源で拡散者、って推理したなら、答えはノーだよ。私たちはむしろ真逆の仕事をしている」少し微笑んだように見える。「ここはさ、お嬢様学校なのに、いや、もしかするとお嬢様学校ゆえに、噂とか誹謗中傷が多くてさ、教師も手を焼いているわけ。でも、先生が解決に乗り出すとみんな口を噤む。なら、生徒に切り込んでもらうしかない」床を蹴って、車輪付きの椅子が少しだけ前に進む。「私たち広報部は取材と称して噂の真相を探って、誤りがあるなら掲示物で周知して誤りを正す。真実なら、一番損害が少ない着地点に誘導する。そういう、裏家業も担っている」

「諜報活動、ですか」直截に訊いてみる。悪びれる様子も隠す気もなくパソ子は頷いた。「でも! それは皆が仲良く学校生活を送るためで!」と言うからには純朴長野部長も実態を理解して活動し、同時に罪悪感も抱えている。「でも、荒木さんのヤンキー化を防げなかった」と私が返すと、しゅんとしてしまう。

 腕を長く伸ばし、こちょこちょっとパソコンを操作してパソ子は画面を睨む。「署名すらない」吐き捨てる。「荒木さんのヤンキー化は、担当者の雑な仕事っぷりと、大衆が真実より面白さを求めた結果かな」パンとサーカスだね。つまらなそうに言った。

「けっこう大変な部活なんですね」広報部は、責任の重さの割に作業は極めて地味。舐めた取材を行えば人間関係のごたごたに巻き込まれる危険性も大。その戦場に敢えて身を置こうとする好事家は少ないだろう。部員が二人いるだけで奇跡と言える。

「幽霊まっしぐらの台詞だね」ふふふ、と、嘲笑でも失笑でもなく本当におかしそうにパソ子が笑う。「楽しく動画や写真を撮ってマスコミ関係者のようなキラキラ生活、みたいな幻想を抱いて入部して、ここには損しかないなと判断してみんな辞めていく。悪い噂が年々集積して、やがて誰も寄り付かなくなる。その閑散とした姿がさらに悪評を呼び、もはや生者は寄り付かない、魂の抜けた幽霊のみが集まってくる。こうして墓場が出来上がるってわけ」

 噂を覆す部が噂を覆せなかった皮肉。あるいは辛くてきつい部活動を暇で出席に五月蠅くない部活動だと偽装することで何とかペーパー部員でも誘い込もうというイメージ誘導の成功モデルなのか。諜報機関ならば機密情報へのアクセスや世論誘導といった特権を通して私の立場を有利にできる可能性もあるが、人的資源として使い倒される危険性も高く何より先生たちの走狗とされるのも気に食わない。この学校で百合推進者として活動するからには体制とはいずれ衝突せざるを得ない。それに走狗はいずれ煮られて食われると聞く。

「まあ、本業があるならそちらを頑張るといいよ」パソ子はまたキーボードに向かって構える。顔は下げて視線だけ上げる。「今の時期に入部届ってことは高校から入った子、四年生でいいのかな? 花咲百合子さん」カタカタ打ち始める。

「はい」悩んだが、一応訊いておく。「先輩のお名前は?」

 一瞬固まり、ふふん、とパソ子は鼻を鳴らした。「榊永。憶えやすいでしょ」

「あ、私は」会話に入るタイミングを探っていた長野部長が「長野梓です、部長です!」と必死にアピールする。「永ちゃんは難しく語ったけど、広報部は基本楽しいから! 最新のカメラも使えちゃう! えっと、パソコンも最新で、あとプリンターも最新で――」

「長野部長、花咲さんは人を待たせていると仰っていたので。部活内容もほぼ説明してしまったのでここが潮時です」榊氏の見事なカットイン。

 私は「失礼いたします」とお辞儀して出入り口のドアノブに手を掛け、「因みに、お二人の学年は?」と尋ねた。

「私が六年生で、永ちゃんが五年生」長野部長が答える。それが?と言いたげに首を傾げる。

 それって。「リバ臭い。リバ臭いわ」呟きながら私は喉を潰れるほど圧する思いで溢れんとする妄想を堰き止めた。カタカタ打つ音が一瞬止まり、「リバ?」と訊きながら打ち始める。

 先輩後輩百合。後輩に舐められる先輩のパターン。学年及び冷静後輩と小動物先輩の体格差、それだけでなく部長を責め立てる平部員の図、つまり役職による位付けと交わされるコミュニケーションが逆転しているおまけつき。これは美味しい。だが百合の香気は感じられない。

「なんでもありません。それでは、ごきげんよう」

 笑みでお暇を告げ、「またね! まただよ!」という声に振り返らず後ろ手にドアを閉める。

 広報部の活動に参画する気は毛頭ないが、情報源として上澄みだけ啜るのもありかもしれない。あわよくば二人が百合堕ちする未来に巡り合うチャンスも有り得るかもしれない。

 窓外の茜色の空から振り返った荒木が「なげーよ」と顰めた面を一瞬驚きに崩し、「お前、滅茶苦茶悪い顔してるけどなんかあったのか?」蛇蝎を見るような嫌悪剥き出しの目で私を迎える。

「いいえ、何もないですよ」私は仏像のような微笑みを意識したが荒木の表情は余計に強張った。

 廊下で話すのもなんだから、と荒木が歩き出す、その前に連絡先を交換した。「あとは、彼女の名前と学年と組を教えてください」「……それだけ?」「それだけです」言い切る。が、荒木の目に宿る不信が一段と濃くなる。

「大丈夫です」胸を張って胸を叩く。血管の浮く、若々しい拳。「私が長年の百合作品鑑賞で培った技術は、恋愛スキルは超一級です。全てを委ねなさい。あなたは彼女と両想いになります。一陣の風が春を呼び込むように、一瞬であなたに幸福が訪れるでしょう」

 胡乱な目つきで私を眺めていた荒木だが、「なんか教祖みたいだな」と苦言しながらも顔つきが和らいでいく。四年生で桃組。そこで詰まる。「し、し、……」と二度チャレンジして暮れゆく空よりも濃い紅を頬に浮かべ、まるで酸素が空気中から失われたように口をぱくぱくしている。

「いいわ、いいのよ、さあ口にしなさい、彼女の名を。愛しいあの子の御名前を!」

「し、白洲、紗理奈さん……」

 苗字は明瞭に発音できたが名前は尻すぼみで野球選手が振り逃げで走り出すような疚しさと、それでも出塁したい青春の切実さがあった。堪らず両手で顔を覆っている。

「んんんんんんぅぅぅぅ」私は悶絶した。「It’s 百合……ジャスティス……」

 まずは手にした一輪の百合を、固く蕾を閉じたこの百合を咲かせよう。私の持つ成功メソッドを惜しみなく注ぎ込み、見事開いた百合の花弁の奥に顔を突き込んで甘く狂おしい蜜を味わい尽くすのだ。嗚呼、嗚呼。

 今日が終わりゆく。そしてそれは、始まりの扉なのだ。


 寮の部屋に帰ってきた千恵は贖罪の涙を流した。私は上機嫌で赦した。

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