第1章 ヤンキー百合 3

 先に登校すると千恵に告げ寮を出た。四年桃組の前で待ち伏せした。予鈴よりだいぶ早めに彼女が来た。

「ごきげんよう、白洲紗理奈さん」

 白洲は歩を止め、切れ長の鋭い目で私を見る。「ごきげんよう。何か?」愛想はないが声に棘はなく別段敵意はないようだ。

「あの」初めまして、とは言わない、名乗らないことで非関係者を偽装する。「荒木月さんに伝言を頼まれたのだけれど」

「荒木さん?」白洲の目に何の変化も見えない。「どういう御用なのでしょうか」警戒の色はなくて一安心ではあるが荒木月を知っているかさえこれでは読み取れない。

 だが。白洲が荒木を知っていようがいまいがヤンキーと怖れていようが文脈は関係ない。百合マスターたる私は全少女を一撃必殺で仕留める技を知悉している。

「お昼休み、体育館裏に来て欲しいって」白洲の顔色に変化なし。「その、一応、行くか行かないかの確認だけ取ってもいいかしら? 来ないじゃないか、ちゃんと伝えたのかって怒られるのは、ほら、ね?」言い訳がましく微笑んでみせる。

「分かりました。昼休みに入ってすぐ行けばいいのですか」社長秘書めいた落ち着いた口調。

「そうですそうです、お昼ご飯食べる前にちゃちゃっと。すぐ済むそうなので」笑顔で告げ、「では、失礼致します」軽くお辞儀して立ち去る。白洲は愛想笑いもしなかった、無感情な顔で小さく頷いただけだった。

 数歩歩いたところで「あの」と呼び止められる。白洲だ。「はい、何か?」と問うと彼女はじっと私を見つめ、告げた。

「あなたの顔に凶兆が出ています。……挫折。あなたの人生観が崩れる何事かが起きる可能性があります。今日はなるべく行動を控えるべきです。非日常の行いがあなたを危険に晒すことでしょう」

「……」反応に困る。「それは、占いか何かなの?」紙で作った舟に重りを載せる心地で、そっと尋ねる。

「……いえ、余計なことを言いました」失礼します。踵を返して白洲はまだ人気の薄い教室へと消えた。

 凶兆。挫折。行動を控えるべきです。負のイメージを連打されるとまるでそれが確約された未来のように感じ始めるのが占いで、だから私はそれら呪詛の全てを思考の俎板から払い落とす。慎重さは大事だが杞憂に震えるのは非生産的だ。ここは百合の園、マクベスの世界ではない。

 教室に戻り席に座る。まだ生徒は少なく、賑わいからは遠い。随分広く見えるこの教室も卒業して改めて見るとやはり高校生のための狭い箱だったと皆思うのだろうか。成人後に見た教室の狭さに私は驚いた。玩具染みている、とさえ思った。そういう感興を今感じないのは青春の只中に舞い戻ったからか、圧倒的資本が物理的に広い部屋を築いたからか。どちらも正解な気がする。

 白洲紗理奈にアポを取ったと荒木のスマホにメッセージを送る。昼休み入ったらすぐに体育館裏へ。スマホを一旦机に置き、春の朝の穏やかさを味わう。始まりの季節。温かさに空気が膨らむ、そのエネルギーを肺に満たす快感。スマホを確認する。返信は来ないがメッセージは読んだようだ。余裕があるので彼女を落とす技を打ち込んで送信しようと思い数文字打ったところで「ごきげんよう、百合子」千恵が前の席に座った。いつの間にか生徒が教室に満ちて笑いさざめいている。判で押したような女子校風景だ、そこに。

「おい!」怒声が少女たちの可憐な世界観を引き裂く。振り返った先に、髪を振り乱した荒木。「花咲! ちょっと来い!」

 皆が恐慌する中荒木は淀みない足取りで私の席まで来ると「来い!」と手首を掴む。何かしら? まさかこれが世に言う「シメる」かしら? 花咲さん何かしたの? 分かんない。ざわつきに回答する気配なく、というかその余裕がなく荒木は私を連れ出そうと夢中で引っ張る。独断でアポを取った私に文句があるのだろう、普通そうだ私でも抗議するだろう慌てふためくだろう、私が長年の観察から見出した必勝メソッドを知らなければ、ね。

「待った!」予想外に、私の手首を掴んだ荒木の手首を掴む者が現れた。「ちょっと待ったぁ!」千恵だ。「暴力に訴えるのはだめよ! 暴力反対!」

「あぁ?!」荒木が凄む。「そうじゃねえっつの! 今は時間がないから引っ込んでろ!」

「嫌だ、引っ込まないぃ!」千恵が綱引きのように引っ張り返すがへっぴり腰なのが微笑ましい。昨日の贖罪の涙は本物だったがやはり怖いものは怖い。

「ちーちゃん、大丈夫だから。荒木さんとは相談事があって。ね?」

 荒木が「そういうことだから早く来い!」と引っ張る。半信半疑の千恵が私に目を遣る。「大丈夫、始業までには戻ってくるから」と言うと、まだ心配を表しながらも手を離した。

 悲鳴が往来する教室から廊下に引きずり出される。続々登校する生徒が全裸で公道を行くアナーキストを見たように目を見張り、散り去った結果自然と私と荒木、二人だけの場が発生した。

「お前!」私を壁に追い詰め胸ぐらを握り締める様は恐喝の景で生徒の間で暫く多少歪められた噂が飛び交うに違いない。「なんでいきなりアポ取っちゃうんだよ! しかも体育館裏って! そんな人気のない場所に呼び出してどうするんだよ!」

「何って、堕とすに決まってるでしょ他に何をするのよ」

「堕とすって、何? え? いきなり告白するってことぉ?!」驚愕と共に汗が一滴首筋を流れた。

「うん」あくまで、しれっと。なぜなら疑問の余地がないから。

「そんな、ええ? あたし話しかけたことすらないのに、いくらなんでもいきなりすぎでしょ!」

「大丈夫です。私に任せなさい。全てを委ねなさい。さすればあなたは百合の夢を成就するでしょう」

「ああああ、ミスった」頭を抱える。「なんでこんな見ず知らずの奴を頼っちゃったんだあたし!」怒りが当惑に変わり、当惑が恐慌に遷移する。そして。「終わった。あたし終わった」へなへなと崩れ落ち、泣き始めた。

「所詮はヤンキー演者か。坦力の足りないことですこと。繊細を通り越した雑魚メンタルね」私の挑発に「だって~」と情けない声を出す。

「負け確定、みたいな?」

「だって、話したことすらないんだよ? それをいきなり告白だなんて、受け入れてくれるわけないじゃん」さめざめと泣く。世界の終末を予告されたように。それが彼女にとっての恋の重みなのだ。美しい。美しいわ。

 私はハンカチで彼女の涙を拭う。彼女の長く細い指を握り込む。彼女が私を見上げる。

「気合いを入れ直して、荒木さん。数多の百合を観察してきた私があなたに授ける必殺技は三つ。とてもシンプルで、故に力強い。魔法のようにね。あなたはただ、騙されたと思ってその三つを行えばいいの。それで世界は変わるから。あなたの望みは叶うから」

 任せなさい、と諭す。荒木は頷いた、半ばやけっぱち、だがもう半分はこの謎の女に賭けてもいいのかもしれないという希望を灯して。私は口伝で必殺技を伝えた。そんな簡単なことでいいの?と荒木は揺らいだ。それでいいんです、と私は言った。いつだって信じた先に光があるのです。

 腹を括った荒木は、分かった、と頷き、じゃあな、と彼女の教室へ向かう前に階段の方角へ曲がった。トイレに向かったのだろう。メッセージに慌てて走って登校したがゆえの乱れ髪を整え、涙の跡も洗顔で消し去ってから何事もなかったように教室に入るつもりなのだ。ヤンキーを演じ通す気概を持ち直したのだ、これで荒木がビビって敵前逃亡する心配もなくなった。「んふふ」私は笑った。死屍累々の就活で内定を得た時の比ではない、勝利の確約に対する喜悦だった。

 五分程度で教室に戻った私に千恵が駆け寄る。「大丈夫だった?」私はNo problemと笑みを返した。クラスメイトも恐る恐る近づいてきて事の真相を尋ねたが私には守秘義務がある、ちょっとね、という本質を包み隠すマジックワードで朝礼までの自由時間を乗り切った。

 一時間目を終える頃に花咲百合子が荒木月に無理やり連れ出されたという噂が流れ始めた。

 二時間目終了時には花咲百合子が荒木月にシメられたという噂が流布していた。荒木の机に落書きしたためとする説と、下駄箱の上履きを上下逆さまにしたためとする説の二種が有力で亜種もいくつかあった。

 三時間目終了時には本当のところは花咲百合子が連れ出された先で荒木月に強烈なビンタを見舞い泣かせたのである、という噂が大勢を占めた。荒木の目が腫れていた事実が信憑性を高めたらしい。広報部の存在意義を痛感した。

 そして運命の昼休み。私は光の速さで体育館裏へ駆けた。誰もいない体育館裏に春独特の強い風が野の花々の香りを乗せて吹き抜けている。乱れる髪を押さえながら柔らかい緑色の葉を震わせるケヤキの大木の背後に一旦隠れる。現状、荒木が先に来るか白洲が先に来てしまうか分からない、昼休み入って五分ぐらいしたらと白洲に伝えるべきだったが今更ミスディレクションを悔いても仕方がない、荒木を励ましてから告白に持って行くのがベストだったがいずれにせよもう勝ちは既に確定しているのだからあとは運命の大河の流れるままだ。

 私の呼吸が整う前に人の姿。荒木だ。安堵に息が肺の深みからまろび出る。木の影から走り出ると私を見つけて泣きそうな顔をする。「はい荒木さん、深呼吸。吸って、吐いて、はい吸って、吐いて」すぅはぁすぅはぁ。少し心が落ち着いたタイミングで確認を取る。「三つの必殺技、全部頭に入ってる?」。荒木が自らに最終確認するように正解を口に出す。「イメージトレーニングも大丈夫そう?」。頷く目は、まだどこか心細いのか私に縋りつく。

「荒木さん」一度目を瞑って彼女の目の縋りを断ち、それから目を開く。「この後、白洲さんと手を繋いでいる自分を想像してみて」

 荒木は瞑目して、解き放たれた空想に小さく喉を鳴らす。ドビュッシーのアラベスク第一番が始動した瞬間の、最も美しい世界が拓ける予感。それが。「それが数分後の、あなたの未来です」

 開かれた荒木の目には確信が城の礎石の如く堅牢に構えていた。

 余裕を持って登校してきた性格からして白洲は間もなく来る。荒木の背後で私が暗躍していることは伏せたので私はすぐにケヤキの幹の裏に隠れた。一分経たないうちに白洲が姿を現した。相変わらずの無表情には不安も期待も覗けない。体育館裏に呼び出しなんてベタもベタだが百合を知らないこの世界で告白を受けようとは露も思わないのか。それとも恋愛自体に疎いのか。後者ならば好都合だ、経験無きが故に恋愛初心者は総じて「押し」に弱いのだから。私は邪悪に笑った。西部劇の荒廃した砂塵とは性質が真逆の、春の潤いに富むヴィーナスの風が、私と荒木とまだ明け染めぬ白洲の髪を吹き揺らした。

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