重度の百合好きおばさんが転生した先が百合の園だったんですの!

大和なでしこ

序章

序章 第1話

 それなりに賢く生まれついた私は小中高とそれなりに良い成績を納めそれなりの学力の大学に進学しそれなりの卒業論文を書き上げて後それなりに有名な会社に就職してそれなりの業績を上げながらそれなりの毎日を送っている。悔いの一つや二つはあるもののこれまでの人生に大きな不服もなく、されど絶対的肯定感もないまま、日は上り日は下り、押し寄せる仕事を遮二無二処理しながら暮らすOL生活の愉しみはただ一つ。

「あ、花咲せんぱぁーい。これからみんなでディナー行くんですけど、花咲先輩もいかがですかぁ?」

「誘ってくれてありがとう。でも、ごめんなさい、用事があるので帰ります」

 それは同僚との触れ合いや仕事の後の飲食ではない。

「お、花咲ぃ、こないだの取引先の専務が、仕事の話しながら飲まないかって。お前のこと気に入ってるらしくて」

「申し訳ございません。丁重なお断りを入れておいてください。プライベートで会う気はないこともそれとなくお伝え願います」

 それは仕事の成果でも異性間交友でもない。

 ただ一つの愉しみは。

 速やかに退社後電車を乗り継いでアパートに戻る。時節は冬、帰りついた部屋はドライアイスを添付したケーキ箱の中のように冷え切って暗い。マッチを擦るような思いで電気を点けエアコンを起動し、寒っ、と、空気を殴りつけるように呟きながらバッグを床に打ち捨て、ベッドに脱ぎ捨ててあったスウェットに着替える。脱いだ服は皺にならないよう床に広げて放置、もはやハンガーに吊る余力も気力もないミイラのごとく枯渇した私は、ベッドの向かい、部屋の西側一辺を占領して居並ぶ本棚へと、足元に散らばった洋服や生活用品を蹴り飛ばしながら歩み、整然と並んだ清潔な本の中から一冊、漫画本を抜き取りこれを開く。


 お姉さま、好きです。

 まあ。そんなことを言われても、私、困ってしまうわ。

 困らせてすみません。でも、それでも好きなんです。私の思い、受け止めてもらえませんか。

 けれど、私には親が決めた婚約者が――

 お姉さま。私は、お姉さまの本当の願いを、たぶん知っています。頑なな心を解く魔法を、掛けさせていただけませんか。

 (お姉さまの頬に手を添える)

 ……いいわ。掛けて頂戴。

 (お姉さま、ふっと目を閉じる)

 (二人、接吻する)


 ――そのやり取りを、接吻する様を見るだけで、空き箱が水で満たされるように私の総身に力が漲る。

「百合の花が咲いた……ジャスティス……」呻いて頬を伝うのは涙。

 嗚呼、美しきかな百合漫画。愛しく甘美な百合の世界。

「最高だわ」恍惚と共に独り言ちる。「これ以上に滋味深きものが、あって?」

 それなりの私のOL生活のただ一つの愉しみ。

 それは。

 それは女性同士の深い関係性、所謂「百合」を愛でることだった。

 別に漫画に限ったことではない、アニメであれ小説であれ、絵画であれ映画であれ講談であれ、如何なる媒体であろうと百合であればなんでも好物だった。百合だけが、私の生に無上の喜びと楽しみを与えてくれる。それを識る端緒は齢まだ十四の頃、私が中学生の時だった。

 青天の霹靂だった。あるいは仕組まれた運命だったのかもしれない。

 ロミオとジュリエットが出会う貴族社会的な華やかさとは無縁な、しみったれた大衆古本屋でのことだった。夏日を観測したゴールデンウィーク末日の昼過ぎ、無目的に店に入った私は冷房に汗を乾かしながら、少年漫画の本棚に立ち無作為に選んだコミックを引き抜いてこれを広げ、お決まりの流れに辟易して本を棚に戻し横歩きで移動、青年漫画コーナーに至ったのだがやはりこれだとのめり込む漫画を見つけられず上流から下流に流れ行く落ち葉のように店の企図した流れに乗った結果隅っこの、所謂サブカル系と括られるのだろうか、ややマニアックな漫画本の本棚に落着した。百鬼夜行と呼ぶべき個性派揃いの本は女子中学生には敷居が高く、背表紙を見た段で拒否反応が出たりいざ読んでみたらスプラッタでげんなりしたり、あるいはエッセイコミックの態で新知識は獲得できるのだけれど物語に身を委ねる快感には至らなかったり、やはり読むべき本を選べないまま目は流れ指は流れて隅っこの棚の端っこに行き着いてしまった。場末のスナックと形容される場所には女子の秘め事としての巨大市場BL本がブーケに挿した花のごとく咲き乱れ、しかし、私の指は十八禁本が醸す桃色の蠱惑を無視し、性的異臭の無い清らかでお淑やかな、やや耽美の雰囲気を纏う背表紙に留まった。

 棚から引き抜き、表紙を見る。女の子と女の子が、肩を寄せ合って小指を絡め微笑している。

 丸裸の背骨をトンカチで打ったような、ぎゅん、と総身が痺れる感覚。通電に全身の毛が逆立つ。続いて、きゅん、という音が胸で鳴り、風邪で発熱した時のように身体が温もり始めた。女の子と女の子の絵を真ん丸に見開いた目で見つめて私は、しばらく動けずにいた。冷房を暖房と錯覚しそうになるがTシャツで剥き出しの二の腕を見なくとも入店時を思い返せば稼働しているのが冷房なのは自明だった。

 ようやっと、湿る指先で表紙をめくった。

 女の子と女の子の、濃い物語があった。親密に触れ合い、囁き合い、時に唇と唇を合わせる女の子の姿があった。恋愛、と一概に括れないものの、女性同士の深い関係性がそこに描かれていた。

 震える指でページを繰り、気づけば背表紙までたどり着いていた。夏の夜明けの露が草葉を濡らすように、一度は引いた汗が再び背と腋に薄い水分の被膜を作っている。顔は酒に酔う父のように朱に染まっているに違いなかった。耳の先にまだ熱が残っている。店内BGMが磨りガラス越しのように遠くに茫漠と響いているような気がした。

 大きなため息が出た。

 なんだ、なんだこの感覚は!

 得体の知れないこの感覚を説明するべく、私はその本を三度読み返した。吐いた息の白さを掴むように不確かに、自分が、女性同士の関係が好きなのではないか、と疑念する。否、これは疑いではない、love at first site、私は表紙を見た瞬間全てを理解していたはずだ、自分が、女×女が好きなのだと。

 私は、こういうのが好きなんだ。

 驚嘆して、すぐに好奇心と向学心が前に出た。買って帰った本を手に、家でネット検索を掛けまくってようやく、世にはこの関係性を表象する「百合」なる隠語があると知るに到った。私は表紙の四隅をアールデコ調に囲う百合の花の意味を理解した。百合を知ったのだった。

 爾来十七年、私はなんとなく家族の目を盗んで様々の媒体による百合を隠れキリシタンのように密やかに味わい続けた。幸福の蜜の味だった。どんなに辛く苦しい時も、百合を味わうことで苦痛が癒えるのを感じた。私の生活において百合が回復薬となり、また苦痛を前に正気を保つための気付け薬ともなった。あらゆる艱難辛苦に面しても、百合を賞味することで私は精神の平衡を保ち、生きる力を再構築することができた。学校や会社で嫌なことがあっても、酒に溺れるでなく散財に走るでなく反社会的行動に及ぶでなく、百合によって全ての精神的苦悶を解消することができた。百合という聖句で魂を浄化する。それはもはや信仰だった。

 今日は仕事で小さなミスをした。悔いる気持ちや辛いと感じる向きもある、けれど、それも今、百合によって、お姉さまと妹が百合百合する姿によって、夜霧が朝日に払い去られるようにして消えていく。青空のような希望が心に満ち渡る。嗚呼。百合にありがとう。百合を見つけた自分に、ありがとう。

 私は百合漫画を最後まで、読み急ぐことなく深く深く味わい、百合の雫一滴残さず吸い取ってからこれを閉じ、経典を仕舞う丁重さで本棚の隙間にゆっくりと差し入れる。ごちそうさまでした。

 ベッドに寝転がり、呼吸する。エアコンが効き始めたもののまだ寒い部屋の空気、それが満ち足りた今の心にひんやりと心地良い。恍惚。いや、法悦だ、これは帰依から生まれる法悦なのだ。

 愉楽に脳髄が蕩け、寝入りかけた私の耳に、ヴー、ヴー、とモーター音が西部劇の無法者のように闖入する。ヘッドボードから突起した棚に置いたスマホが振動しているのだ。一面に広がる百合園だった脳内に現実が侵食し、なんだ、何事か、と少しの怒りを持ってスマホを手に取る。弟からの電話だった。男だ。神聖な百合の世界に土足で上がり込んで来るのはいつだって男だ。舌打ちしながら電話に出る。

「もしもし」

「あ、姉ちゃん? 今電話大丈夫?」

「ほんとは大丈夫じゃなかったけどもうしょうがない。何? 何用?」

「いやあ、元気してるかなあと思って」

「さっきまで元気だったよ。今はまあ、げんなりはしてるけど健康という意味では元気だよ」

「さてはまた百合本キメてたな?」

「百合を薬物みたいに言うな愚弟。あんたみたいな野蛮で粗暴な、すね毛と胸毛がわしゃわしゃの男性にはあの繊細微妙の世界は理解できないだろうけど、百合は正義なの。倫理なの。真実真正の美しさが百合の世界にはあるのだわ」

「姉ちゃん、また口調おかしくなってる。百合について語り出すと性格が突然乙女になるんだよなあ」へらへら。

「五月蠅いわね。んんっ……それで、何? さっさと用件言って。別に私が元気かどうか知りたくて電話したわけじゃないでしょ」

「あー、それなんだけど」如何にも切り出しづらいと言いたげに語尾を濁す弟。

「結局言わなきゃいけないんだから早く言えっつの」促すと弟は、ねろねろ喋る。

「いやー、母さんがね、その、姉ちゃんにだね、その、アレ、アレについて前向きに検討してくれっていうかして欲しいなあみたいな――」

「アレって、お見合いのこと?」自分の声が気安い弟向けから他人に向ける硬い声に変質している。

「あ、まあ、そう、それ、お見合いっていうかお見合い的なやつっていうか」

 まだるっこしい弟だな。少し早口になる。「私お見合いは断るって何度も言ってるよね、お母さんも知ってるよねそのこと。これ以上何を話し合う余地があるの?」

「あっばっば」弟が変な声を出すのは焦っている時と怖れている時で、今はその両方だ。「いや、なんていうか、姉ちゃんの意思は重々承知しているのだけども、それでも、時間経過や環境の変化に伴い、何かしらの心境の変化が訪れてたりしたらいけないからと常々母に言われてないわけでもなくて」

「現況、お見合いを受ける気はない。以上」簡潔に言い切る。

 素人が初めてカメラで撮った動画のように揺れ揺れの台詞をまただらだらと並べ立てると思われた弟が、しかし黙り込んだ。いつもならビビって電話を切るところなのに、何かしら思うところがあるらしい。少し時間を与えるか、と沈黙に付き合う。

 十秒ほどの長い空白があって、ようやく弟が内に秘めた思いを開陳した。「姉ちゃんのこと、オレなりに心配っつーかさ。姉ちゃん、今付き合ってる人、いないでしょ?」

「……いない」

「つか、彼氏いない歴イコール年齢でしょ?」

「……それは、悪なの?」

「いや、悪っつーか、いや、もう三十路なんだよ。嫌な言い方だけど、姉ちゃんの恋愛市場での商品価値は年々値下がりしてってもう二割引きシール貼られてるかもで、それだから……違うな。そうじゃなくて、姉ちゃんにも大事な人ができて欲しいなって、オレは思うんだ」

 ふん、と鼻息をスマホに吹き込む。「乱倫のあんたに大事な人がどうとか、片腹痛いんですけど?」

 私と同じくそれなりの人生を歩みそれなりの生活を送る弟の趣味は夏でも冬でも浜辺でサーフィン、ではなく、サーフィンをしながら浜辺に滞留し、きゃっきゃうふふを表立って口にしないながらも内に欲望しながら海に出向く女を片っ端から口説くことだった。一見堅実そうなサラリーマンに見える弟は実のところチャラ男で、こないだ紹介された彼女が三月後には別の女に代わり、愛がなんだの恋がなんだの言いつつまた三月後には別の交際相手を連れ歩いている。全て浜辺で調達するのが男の浪漫なのだよと意味不明の論理を掲げ愛でも恋でもなくただ恋愛を消費しているだけの男が、何故このような説教を垂れるかそれこそ意味不明だった。

「なんつーかさ」弟は私の侮蔑にも心揺らさずまるで良い話でもするように自前のロジックを展開する。「乱倫乱脈のオレが思うにさ、誰とも喜びや悲しみを分かち合えないのって、辛いなって。姉ちゃんは強いから、私は一人きりでも大丈夫、って言うだろうけど、人生の最後の最後までそれで押し通せるかって言うと、どうだろうって」

「うんうん。その喜びやら悲しみを共有する相手をころころ変える点は何の問題もないわけね?」

「まあ聞いてって。ちょっと言い方きつくなるけど、言うよ。姉ちゃんはさ、思春期以前なんだよ。プレ思春期なわけよ」

「あ?」

「他人を好きになる素晴らしさをまだ知らない、未成熟な個体、謂わばひよこだな。自分の世界だけで完結してて、そこに何の疑問も抱いてない。一人きりで完結してるんだよ」

「一人きりで完結してるんだったら何も二人に拡張する必要ないじゃん。自家受粉で増殖すりゃいいじゃん。その何が悪いのか納得できる説明をしてくれるかな」

「ぐぬぬ」と弟が呻く。

「論破? 論破しちゃった?」煽る。

「……だから思春期以前だって言うんだよ……」言語の違う者同士の会話を諦める調子で弟が息を吐く。

「っていうやり取りを、お母さんに報告しといて。別にあんたがお見合いをやらせようとして電話してるわけじゃないでしょ」

 裏で糸を引いているのは母だ。母は男の気配のない私に危機感を抱き数年前からお見合いをがんがん勧めてくる。一度話し合いの席を持ち丁重にしかし徹底的に断ったのだが私の意思を尊重する様子はない。

 以前、母に、隠していた百合図書を探し当てられ、捨てる捨てないのすったもんだの挙句、破棄は免れたものの有害図書がどうのと悪罵されたことがあり、その一件以来母とは蟠りがある。一触即発は言い過ぎだけれど不安定な関係にあるのは間違いない。母がやたらお見合いを勧めてくるのには、男を知ることによって百合への信仰を挫こうという踏み絵的意図があるのではと私は疑念している。あくまで疑念で真意は確かめていない。そこを深掘りすると決定的な対立が再燃すると分かっているから敢えて触れないことにしている。

「いや、母さんの要望もあるけど、オレもだな――」と語り出す弟に「くどい! お見合いはしない! 以上!」と大声で言い返して通話を断つ。スマホをベッドの棚に戻し、再び寝転がるが精神の平衡は悪戯童子が蹴り上げた砂山のようにぐしゃぐしゃで、眠るにも一休みしてお風呂に入るにも不適だった。喉に刺さって抜けない秋刀魚の小骨。いつまで経っても来ないエレベーター。そんな負のイメージが頭の中で交互に明滅している。なぜこんな最悪な気分なのか。弟が電話してきたから。その前の、おやすみクラシック音楽みたいな心地良い静謐に戻るにはどうしたらよいのか。再び百合の香りに身を浸す。私はベッドの端に座り、再び本棚へ向かおうと腰を浮かしかけた、その瞬間にまたスマホがヴーヴー振動する。イラっと来た。

「だからお見合いはしないっつってんの!」通話ボタンを押すよりも早く怒鳴ってしまったかもしれない。だが言い直すのも変なので返事を待った。

 三秒ほど沈黙して、弟が喋った。

「あなたにお見合いする気がないのは、分かったわよ」

 女性の声だった。慌てて通話相手を確認する。中野善子。高校の同級生だった。

「あ、うん。ごめん」と素直に謝る。「弟からだと思った」

「相変わらずもめてるわけね。ご愁傷様」

「肉欲奴隷の愚弟が私に大事な人の大事さを説くわけよ。お前がそれ言う? みたいな」

「弟君は海でナンパばっかしてる色情魔なんだっけ。まあ、そら、噴飯失笑ものだわね」

「でしょう? ムカつく気持ちもわかるでしょ?」

 同意を求めるとしかし善子は押し黙る。何か含むところでもあるのかと、訊こうとした瞬間善子が言う。「あのね、今日電話したのは、私の結婚式のことで、なの」

「結婚式の話?」

 善子は職場で出会った男性と恋愛の末結婚する予定で、既に式場も決めてあった。今年の六月にジューンブライドというやつにかこつけて挙式すると聞いていた。相手の男性には一度会ったことがある。善子に紹介されたその男は、ぼんやり生きて来た善子にしては優良物件の、俳優としてテレビ画面に登場してもおかしくないようなイケメンで、何より気立てが優しくさり気ない気遣いが頼もしい好男子だった。奇跡だな、と私が思わず零すと善子はにししとはにかみながらダブルピースしていた。

「私たち、六月に結婚式するってことは伝えたわよね?」善子が訊く。

「それは聞いた。西洋人の神父を賃借するだけで云万円だって愚痴ってた」確か年末に飲んだ時にブライダル関係のバブリーな金銭感覚についていろいろ聞かされた記憶がある。

「それで、近いうちにあなたの家に、結婚式の招待状が届くと思うの」

「ん? 家って、実家? それともこの部屋?」

「アパートのほう。届いたら、ちゃんと出席に丸つけて返送してねって話」

「なんでまた、そんな話を?」意味が分からず眉が寄る。

「百合子はさ、人付き合い面倒臭がる傾向があるでしょ?」

「それは……」なくはないけど、と頭の中で答える。友達は正直に言って少ないほうだ。

「あなたのことだから面倒臭いとか、あるいは、私なんか来ないほうが皆気を遣わないで済むだろうとか、要らん気を回して欠席に丸つけそうな気がして心配で、こうやって電話で駄目押ししとこうと思って」

「そんなこと! ……まあ、そういう考えもないではないけども」

「……」善子の沈黙が耳に痛い。自分が何かしら言葉を紡ごうと頭を回転させているのが責めに対する抗弁ゆえか図星を誤魔化す言い訳ゆえか分からない。脳がこの場面に最適な言葉を必死に検索している。

 言葉を継げないでいると、ため息をついて善子が声の張りを少し落とす。

「そこは、戦友のためなら喜び勇んで駆けつけるわ! って感嘆符つけて言うところじゃないんですかね……」

 戦友。善子が親友と呼称しなかった点に、妙にしっくり来た。それは何も関係性がそれほど深くない、という意味ではない、むしろ逆で、高校で出会った私と中野善子は、教室に何気なく飾ってあった百合の花を見て、「花のほうの百合ね」と発言した瞬間互いが「花じゃないほうの百合」、つまりは女性同士の濃密な関係性を表象する言葉としての「百合」を知っていると暗に示したことで、百合を花としてしか知らない同級生とは共有し得ない強固な朋輩意識を形成し、爾来、百合を理解し披瀝し合える真実真正の友としてつるむようになった。互いに小遣いをやりくりして百合新刊を買い、シェアし、あの映画百合らしいよとネット情報が入れば二人で見に行き感想を語り合い、青春の無謀さと万能感により百合漫画創作を開始して同人誌即売会に出ようと目論んだり、あれやこれやの百合事を私たちは一緒に試し、経験し、成長していった。大学進学で道が分かれて後も私たちの付き合いは続き、会社員生活の今に到っても連絡を取り合い、百合について語らう。それはもはや戦友だった。百合という戦場に共に立った戦友だった。

「……すまんかった。戦友の一大事に駆けつけると断言できなかった私を、殴ってくれ」

「電話越しじゃ殴れない。式にはちゃんと来てくれるよな?」

「百合柄のドレスで駆けつけるから、その時に一発殴ってくれ」

「了解。よろしく頼むぜ、戦友」

「イエッサー」

「……って、ノリで適当なこと言ってるでしょ」

「ノリで言ってる。でも出席に前向きな気持ちにはなった」任せておけよ戦友、と米国筋肉活劇映画俳優みたく軽口を叩く。突っ込みが来ると思ったが戦友は乗ってこなかった。

「百合子」重い声音だった。

「うん?」おふざけが過ぎたかな、とベッドの上で姿勢を正す。

「お見合いの話、真面目に考えてみたら?」言い聞かすような口調はどこか母に似ていた。

 それまで南国ビーチのように放埓だった心が、氷水に晒されたように固く引き締まる。

「その理由は?」と訊ねる。嫌な予感がする。

「あなたも、いつまでもフィクションの中の恋愛にきゃあきゃあ言ってないで、現実世界の恋愛にデビューしたらどう? 百合の滋味を知る同胞として言うわ、リアルは糞ゲーじゃないって。誰かと何気ない時間を共有できるのって、素晴らしいことよ?」

「……今日二度目の説教だわ。弟と同じようなこと言ってる」予感的中、またこの手の話をしなければならないのか。胸に去来するもやもやに形があれば掴んでベランダから放り投げてやるのに。二度と戻って来れないほど遠くに。

「弟君の発言と行動は一致してないけど、真理は突いてるってことよ。恋を知らずに生きていくのは、それは荒野よ、寒風吹きすさぶ荒野に一人お粗末なボロテントで生活しているようなものよ」

「見知らぬ他人がボロテントに出入りするほうが不快だわ。だったら荒野にでも引っ越して寒かろうがそこで暮らすわ。おひとり様最高」

「あなたねえ……」電話の向こうの友はスーパーの菓子棚の前で座り込んで駄々を捏ねる幼児を見るように顔を顰めたに違いない。少し間があって、「生理的に男性が受け付けない、ってわけじゃないのよね?」と訊いた声には多少の躊躇いがあった。

 似たような質問は弟からも、当然母からも受けたことがあった。その時は馬鹿な質問だなと鼻で笑ったが、その答えを知っているはずの善子に改めて訊かれるのは、いい思いではなかった。

「何度も言ってると思うけど」声が少し力む。「百合の世界に割り込む男は大嫌いだけど、現実世界を生きる上に於いては別に、嫌いとかないから。同僚とも会話するし、何だったらオタク傾向にある人とはガチャの景品融通し合ってるし。戦略的互恵関係を築けるくらいには良好に付き合ってるけど?」

「あー、もしかしてあのアイドルアニメのガチャ?」緊迫を嫌ってか善子が軟化した。

「そうそうそう」私も乗る。「いや爽子と千恵美は絶対できてるから。あの二人はもう付き合ってるからね。公式は寮で相部屋のために普段からよく言葉を交わすって書いてるけど、でもあの親密さは確実に一線越えてるわよ、普通はあんなボディータッチ連発しないでしょ? ビデオ・アシスタント・レフェリー無しではっきり分かる、明確な意図を持って触りに行ってる、爽子が千恵美の腕をすぐ抱えに行くのは私がプロデューサーだったらイエローカードよ下手したら一発退場よ、でもでも事の発端はファーストライブで千恵美が――」

「あーあーあー、撃ち方やめーい。百合妄想止めろ。話が脱線して帰ってこれなくなるから」

 波紋がさざ波を広げるように拡大一途だった脳内百合畑が、善子の攪乱で小さな点に萎んでいく。萎んだ先に残ったのが、一輪の百合。

 勃然と、理解した。

「あ、私、百合と結婚したんだわ。今理解した。百合と恋愛してるんだ、私」

 戦友がまた黙った。が、すぐに質問を重ねてくる。

「あなたは百合と結婚した?」

「うん」

「百合に操を立てる的な?」

「そうそうそうそう」

「男性は興味なし?」

「好きも嫌いも別にどうとも。恋愛感情は一切なし」

「まだ出会ってないとかではなくて?」

「うん。まるでぴんと来ないもん」

「じゃ女性はよ? 女性とお付き合いしたいと思ったことはないの?」

「うん。うーん? あの人綺麗だなあって思うことはあるけど、付き合いたいとは思わないかな」

「女性にもときめかない?」

「綺麗だなあと思うけど、あくまで愛でる立ち位置と言いますか」

「で、百合が好き?」

「百合が好き。私の人生の伴走者は百合」

「くどいようだけど、百合は好きだが実地に実現しようとは思わない?」

「それ、かな? 百合は好きだけど、それが現実の、自分の身に降りかかるものとは思えない、と言えばいいのか、現実感がないというか。あくまでフィクションの中に於いてのみ成立するラッキースケベという観念、みたいな」

「分かりにくいわその例え。つまり、本や映画やらの中では百合は成立するけど、自分の身には起き得ない、常にガラス越しに眺めるものである、と?」

「それ」トライアル・アンド・エラーの末にたどり着いた解に確信を持って頷く。

「うーん、なるほどね、なるほど、分からん」戦友は錯乱している。「うーん、まあそういう生き方もあるのか。いやないか。あるか。いやねーよ。でもあれかあ、恋愛至上主義者の語るドグマに陥るのはよろしくない、よろしくないけど、けど、けどもやでえ……」

 除霊に唱える経文のようにぶつぶつ不明瞭な言葉を連ねていた善子だったが、次第に声は弱まり沈黙へと消失した。彼女が言葉を消化した結果何と切り出すのか、少しの期待とともに待つ。

 長い沈黙だった。

「結論」と彼女が言った。「花咲百合子は超一流の純潔、神々に愛された聖処女である。親や友人と接するように分け隔てなく他人と付き合い、これに一切の恋愛感情を持ち込まない様は純真無垢そのもので、寝た子は寝たまま放置してその神聖性を保持せしむべし。寝た子に幾ら弁舌により目覚めよと唱えたところで寝た子は寝ているのだから目覚め得ない。何人もその健やかなる睡眠を妨げ得ないのである」

「うん。もっと分かりやすく」

「百合のソウルを解せぬ奴等にいくら百合の素晴らしさを説いても一向に感化されないでしょ? それと同じで、あなたに恋愛を説いても時間の無駄ってこと。或るクリティカルな体験を以ってして思考が革命されない限りこりゃどうあがいても駄目だって話」

 不満に思うと人は脚を組み替えると聞くが、私も脚を組み替えた。「私が、人として駄目って言いたいわけ?」

「あなたは処女で、その処女性を貫き続けるのも破瓜を迎えるのも全部あなた次第。深い茨の内から王子様か何かのキスで目覚める時が来たら、こっちも何かしらのお手伝いはできるわよって言いたいわけ」

「了解。弟の説教よりかはましな説法だった。優良可で言うと良をあげてもいい」

 善子の鼻息が吹き込まれた。「いつか手伝える日が来るのを私は心待ちにしてるわよ。このままあなたが交通事故とかでいきなり死んだら、やりきれないわよ」

「死ぬのはごめんだけど、私は現状に満足してる」

「あなたが満足でも、やっぱり私はやりきれないわよ。あなたに、ガラス越しじゃないあなたが主人公の物語を掴み取って欲しいから」

 じゃ、ちゃんと出席に丸つけて出してね、と戦友は言って通話が切れた。温かくなった部屋に工業的な音を発しながらエアコンが次々と暖風を送り込んでくる。少し暑い気がして温度設定を確認したがいつもと変わらない温度だった。

 連続二本の電話応対で神経が妙に研ぎ澄まされてしまった。割れて鋭い玻璃の欠片を波と砂が慰撫して角を丸めるように、私もその身をやさしいヴァイブレーションに委ねることで猛りを鎮めなければならない。こんな時は、そう、アレしかない。

 私は再度本棚へ歩み、電話が来る前に読んだ百合漫画を開いた。先程読んだのだから内容は全部把握している。それでも。

 接吻のシーンで口元が緩み、脳内に弛緩のアセチルコリンが蓄積して興奮のアドレナリンを排斥していく。固く閉じた気分の蕾がアルコールを摂取した時のようにゆるりと解かれていく。「ジャスティス……」込み上げる法悦に目が潤み、電話で纏わりついた現世の汚濁が全て洗い流されていくのを感じる。嗚呼、幸せ。

 百合の甘露をゆっくりと飲み干して私は、再び幸福で平衡な精神へと至った。さあ、カルマの落ちた綺麗なその身で行水し、夕飯を食し、食後のワイン代わりの百合を賞味しながら眠りに落ちましょう。幸福四原則、飯、風呂、百合、寝る、ですわ。うふふ。

 午後十一時。飯、風呂、百合、を経て私は布団に入り、平らかな心持ちで就寝した。

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