序章 5

 白花寮は名前の如く外壁がbrightなwhiteの、発光する白熱電球を覗き込む眩しさでありながら長い歴史が生む威容ともじもじした少女趣味を併せ持った、要するに奇跡の建物だった。建築様式には明るくないので西欧の教会にムーミン谷建築物を齟齬なく加えたような、としか説明できない。凄い、の一言しか素人には言えない。

「初めて見た時、ビビらなかった?」

 千恵は大いに頷く。「もはやこの世ならざる物だと思った」

「お化け?」

「ううん、天国かよっていう意味で」

 庶民派二人で笑い合う。私にとっては二重の意味で天国だと思うと黒い笑いもないではない。

「今年入寮するのは百合子一人だから、三十二人総出でお迎えとはいかないかもってお姉さま言ってたけど、私みたいに興味津々の子がロビーで待ってるかもしれない。入ろ」

 千恵に付き従う形で木製の扉を開いて中に入る。昼の明るさに絞られた瞳孔が建物の中に住む闇に順応するまでほんの数秒、よく見えない状態に置かれる。「あら! やっと来ましたわね!」と言って誰かが速足でこちらに向かって来る。光量の調整を終えた目にまるでフィクションとしか思えない、毛先を巻きに巻いた、目鼻立ちのくっきりとして派手派手しい、私より身長は低いが脚は確実に長いであろう美系の女の子が映り込む。迷いなく進むその顔は、

「遅すぎますわ! いつまでわたくしたちを待たせるのかしら!」

 歓迎の色は微塵もなく明白に激怒していた。

「しょうがないでしょ! いろいろ案内してたんだから!」

「どこをどう案内したらこれほど遅くなるのかしら? 中等部の校舎まで案内していたのではなくて?」

「高校のほうの敷地しか案内してないから! これでもだいぶはしょったわよ!」

「本当かしら? 何か拾い食いでもしてお腹を壊して御手洗いから動けなくなったのかと皆で心配さえしていましたのよ?」

「どこに拾って食べるような物が落ちてんのよ! 私そんなことしないし!」

「本当かしら?」露骨に蔑む巻き毛。

 はっ、と鼻で笑う千恵も折れるつもりはないようだ。「しませんことよ。校則破りの茶髪パーマ様にあれこれ言われるのは心外ですわー」

「ですからこれは地毛だと言っているでしょう! 特別何の手も加えていませんわ! 人の容貌を謗るなんてまさに下賤の輩のすることね!」

「ごめんなさいですわー。あたくちあなたのように育ちが良くないものですのー」

 たぶんこの巻き毛は超上流階級の娘で高い貴族意識があり平民の千恵を侮っている。露骨に見下している。千恵もそれをよくよく理解して、過剰なお嬢様言葉でやり返すことでその選民意識を嘲笑している。どちらが先に吹っ掛けた喧嘩かは知れない、道中の千恵の親身を思うと先に仕掛けたのは排他的思考をちらつかせる巻き毛と推察されるが、もはやどちらが先攻かはどうでもよくて基本的に二人を混ぜない努力が周囲には要求されそうだ。さてこの泥仕合を両者一両損という教訓も含めて巧みに納めるには、と考え始めた向こう側、ロビーに立つ女子の群れが口々に「お姉さま! 早く! また二人が!」と呼んでいる。呼ぶ先、廊下が続いていると思しき暗がりに目を向ける。頭に理想のお姉さま像をもう一度思い描く。果たして、現れたのは――

 きゃあ。

 私の喉から飛び出た無意識の歓喜に、静寂で爆竹が突如轟雷したように皆びくりとして黙る。誰もが反射で固まった中を一流モデルのような質量と軽やかさを併せた歩みで進む女性一人。

「やあ。ようこそ、白花寮へ」

 煌く光。彩る花々。溢れ出る高貴。百合漫画伝統の登場エフェクトを私の目の内に表して登場したボーイッシュな短髪のすらりとした長身。圧倒的オーラ。確か、この王子様の御名前は。

「貴代子……様?」

 入学式で在校生代表として登壇していた女生徒だった。

「式の挨拶で憶えてくれたのかな。六年生の鷹宮貴代子です。はじめまして」

「は、はじめまして……」喉から出た声が自分のものとは思えないほどにか細かった。会社員時代、どんな強大な肩書を示されても表は驚嘆する演技を見せながら腹の底では鼻をほじるくらいに余裕かましてきたはずの私が高校三年生の女子に緊張して竦んでさえいた。美とは畏怖の対象でもあるのだ。

「その、せめて名前にさん付けがいいんだけどな。様、はどうにも照れるというか、柄じゃないというか」

 ね。と彼女が笑顔で私に正対して肩に手を置いた。

「きゃああああ!」

 瞬間叫んだ私に彼女はびくりとして手を引く、その手を私は両手で掴み引き寄せた。

「貴代子様! 貴代子様って呼ばせてください! 王子様キャラを様付けで呼ぶ、これは私たち百合少女が抱える夢の一つなんです! 百合ドリームなんです!」

「ええ? ああ、うん?」貴代子様の瞳に驚きはあるが恐怖はなく、私の手に手を添えてぎゅっとして後巧みに手をすり抜き、「玄関口で話すのもなんだから、ロビーに移動しようか」と冷静に事をあるべき方向へ誘導する。あくまで爽やかに。優雅に。

「雛窪さん、案内ご苦労様。寮の中の案内も引き続きお願いしていいかな?」

「勿論です、貴代子様」千恵は貴代子様の横に付く。

「一条さん。下駄箱のことは君が教えてくれるかな?」

「はい、貴代子様! わたくしにお任せください」

 満面の笑みで応じて、私に振り返り空いている下駄箱とスリッパを示したささめは顔を私の顔に寄せ、「ところで、あなたのご両親は何を生業にしていらっしゃるのかしら」とぼそぼそと訊く。千恵への侮りと対照的な貴代子様への恭順っぷりとこの質問からして、巻き毛のささめは私のお嬢様としての階級を見定め今後如何様に接するか決めに来ている。鼻に付くな、と思った。

「父は石油王、母はその愛人で、国際的に暗躍するスパイでもあるの」

 ささめはきょとんとしている。私は悠然とスリッパに履き替え、「お嬢様に冗談は難しすぎたかしら?」と微笑む。少し遅れて、からかわれたと理解したささめが千恵に校則違反を指弾された時同様怒りを露わにする。「なんて無礼な――」

「ちーちゃんとあなたを引き離した貴代子様の采配を、台無しにする気なのかしら?」

 私は冷えた声で言う。ここで喧嘩を始めれば貴代子様の面子を潰すことになる。それは理解できたらしく、ささめは続く言葉を飲み込み、やり込められた悔しさに無音できぃぃ!と歯噛みした。器用な奴だ。

 玄関そばのロビー、高級ホテルみたいなという形容の真否は入った経験がないので不明だがイメージそんな感じのソファーやテーブルに椅子が並ぶ場所に立つと、集まった人垣からすっと貴代子様が寄って来る。さり気なくいつでもサポートできる位置に立つ、気づかない人は彼女が偶然たまたまそこに立っていたのだとしか知覚できない御業を平然とやってのける様は名実ともに王子様でしかなくて軟弱女子のように感動で瞳が湿る。

「君を迎えるべく、寮生全員が集まってくれたんだ。皆に自己紹介、お願いできるかな?」

 促されて、弧を描いて佇む、千恵の説明を頼りにすると総勢三十一名の女生徒に、半歩踏み出してお辞儀する。「はじめまして、花咲百合子と申します。高校から入学した右も左も分からない外様大名みたいな立ち位置なので、無知により皆様にご迷惑・ご面倒をおかけするかと存じますが、どうか温かい心でお見守りください。よろしくお願いします」

 もう一度、浅めのお辞儀をする。受け入れを示す拍手が人垣から鳴る。千恵は笑顔で拍手して、ささめは苦虫でも噛み潰したように口元と目元を歪めているが拍手はしている。

「ありがとうございました」拍手しながら貴代子様が、まるで床に目印が描かれているのかと思うくらいに絶妙な間を開けて、あるいは間を詰めて私の横に立つ。「皆さんも、同じ寮生として花咲さんの生活のサポートをお願いします。さて、何か花咲さんに質問はありますか?」

 はい、はい、はい。何名か手を上げる。上級生か下級生か見た目だけでは区別がつかない、皆年下の女の子としか映らない。千恵の、中等部からこの寮に住んでいたという話を参考にすると、中学生も混ざっているのだろうがどの顔もあどけなさを残していて、高校の頃は大人と大差ないと自負していた自分たちがやはり成人前の少女だったのだと再認識する。高校一年生は十五六歳、転生前の私の半分でしかない。逆に私が倍の年齢だとも言える。なんだか自分がコスプレをしている気がして、ようやく鏡で自分の顔を確かめていないと気づく。ものすごい老け顔と思われていたら辛いが、ここまで来るのに破綻しなかったからには十五歳の女子高生で押し通せる顔なのだろう。それにしても、だ。三十路越えが中高生の中に身を置くだなんて変な感覚だ。

「私も花咲さんに訊きたいことがたくさんあります。ですが、ここで彼女を囲って質問攻めにしては、彼女が疲れてしまうので、質問のある方は晩御飯の食堂で、若しくは共同浴場で、腰を落ち着けている時にしましょう」

 貴代子様が皆の興味を上手く捕まえて、首輪をつけてお座りのできる犬に変えてしまう。彼女にこう言われたら誰も抜け駆けできないだろう。私は千恵の案内に身を委ねながら書きかけの履歴書を仕上げる猶予も得る。案内優先と私の疲労への配慮が主眼なのだろうが、高校三年生でこれほど気を回せるものなのか。貴代子様の完成度に吃驚する。本人はさん付け希望だがその大人顔負けの差配を見たら容貌だけでなく素質により様付けしてしまうわよとお姉さんは思う。頼り甲斐。まさに王子様。きゃっ。

 その王子様を攻める素質を持つ者は、と、不躾を承知で人垣を作る三十一名の一人一人を品定めしようと目を凝らした時。

「お姉さま」と一人の子が言った。

 その一言で、心臓が大きく収縮した。弛緩と共に血流が加速する。

「副島さん、何か?」

 貴代子様にはほんの少し負けるが女性の平均からすれば磐梯山くらいには突き抜けている高身長の女子が一歩進み出る。肌は日焼けなのか元々なのか少し浅黒い。切れ長の目と高い鼻筋、体つきもシャープな線で全体に凛とした印象だ。

「あの、実は……」言いづらそうに目線を落とす。

「はうあ!」私は叫んだ。「イケメン掛けるイケメン! でもBLでは代替できない百合ならではの雰囲気が、耽美よ! 耽美が! 絡みつく視線、添えた手の柔らかさと触れた肩の骨の硬さ! 副島は下から甘く囁くの、早く二人きりになりませんかって。いきなりの誘惑に貴代子様は、こんな公衆の面前じゃ困るって、でも口元の緩みは隠せない、そこに副島が身体を寄せてって、ゆっくりと顔を寄せて唇を奪うの! ほんの少しだけ爪先立ちして!」

「ちがーーーう! ながちゃんはそんなんじゃない!」

 鳥のさえずりのように細くて高い声が、大声で叫んだため余計に張り詰めて金属で黒板を引っ掻いたような耳障りで私の百合百合タイムを突き崩す。ちびっこの、髪が綿飴みたいな如何にも女子女子したロリータが私を睨み上げている。瞳に宿る瞋恚の光。

「ながちゃんは、ながちゃんは違うの! お姉さまじゃなくって――」

 副島がワープしたかのように一瞬でロリータの元に飛び両手で彼女の口を塞ぐ。ロリータは発言を邪魔されて憤ったのか副島を噛んだ様子で、「いたた」と副島が悲鳴を上げるが手は外さない。

「ああ、ああああ」私は雷に打たれた。「実は秘密の三角関係、裏で操る悪代官は副島さんでしたのね! 貴代子様に迫りながらロリータへのアプローチも忘れない。いいえ違うわ、貴代子様に対しては完全に火遊び、本命はロリータのほうなのよ、だから副島じゃなくながちゃんなんて呼ばせて、嗚呼、なんて罪深い、でも、実は自分がロリっ子の掌の上で踊らされていると気づいていないの、惚れさせたほうは、谷崎『痴人の愛』で云うナオミ役は実はロリっ子のほうなのよ――」

 すぱこーん。

 あらゆる物質をすり抜けそうな透明で無限遠に伸びる音。一句詠めそうな音の正体は私の後頭部を遠慮なく叩いた千恵のスリッパだ。脱いだ片足を手に持ち、千恵が暗い眼差しを私に向けている。

「お・ち・つ・け」

「あ。あら嫌だわ、私ったら、つい興奮しちゃって。てへぺろ」

 品を作って誤魔化そうとしたがこの場にいる全員、クラシック音楽演奏会に闖入して吠えたてるチワワに対する視線を私に向けている。さすがの貴代子様も戸惑い顔だ。

 奇妙な間。

「花咲さん」淀む空気に息を吹き込んだのは副島の硬い声だった。「自己紹介がまだだったから、というのもあるけど、私は副島ながれ、五年生です。あなたより学年が一つ上です。私は上下関係をきっちりしたい性分なので、副島先輩と呼んで頂けると嬉しいです」

「あ、は、はい、すみません、別に悪意があって呼び捨てにしたわけでは」頭を掻き掻き卑屈に微笑みながら実年齢は私のほうが上なんだけどなあ、と釈然としない部分もあれど高みから睨む副島先輩は怖いので素直に謝り倒すことにした。

「それと」一度咳払いして副島先輩は平静を強調する。ロリータの口を塞いだ手はいつの間にか彼女の両肩に添えられている。「この子は炉端菫、中等部の二年生です。どう呼ぶかはお任せしますが、ロリータやロリっ子とは呼ばないでください」目つきが一段と鋭くなる。「失礼なので」

「はい、すみませんでした、炉端さん、ごめんなさい」

 炉端さんは、つーんとして不服げだ。私にではなく、副島先輩にむくれているようにしか見えない。「でも、あのぉ、両肩に手が」と猶言い募ろうとすると隣で千恵がスリッパを振り上げたので私は努力して黙した。

 ぷーくすくす。ささめが含み笑いを発声したのは先ほどやり込めたことに対する意趣返しだろう。私と彼女の関係はほぼ固まった。

「それで」話にピリオドが付いたタイミングを見計らって、貴代子様が口を開く。「副島さんは、何を伝えたかったのかな?」

「それは」副島さんは言い淀み、「花咲さんの自己紹介が始まる前に気づくべきだったのですが、ロビーで待っている時に、あの、華恋様が、あの、その、お花摘みに行くわねと言って席を外したきり、戻ってきていないことに気づきまして……」体を小さくして尻すぼみに話を終える。

「ええ? いないの?」

 集まった寮生全員が「あ、ほんとだ」「そういえば」「いらっしゃらない?」とあちこち振り返り始め、「華恋! いたら返事して!」という貴代子様の言葉に返事はない。私を含めて合計で三十二人、秩序立って並んでいるならまだしもランダムにぐちゃぐちゃに群れているなら一人くらい見落とすのはあり得る話だ。

「いない、か」貴代子様は苦笑する。「こんな時でも天然というか、だから天然って言うのか」

「お姉さま、私が探して参ります」一礼して動き出そうとした副島先輩の道を遮るようにささめが立ち、「お姉さまはわたくしが連れて参りますわ」と左手を胸に右腕を側方に突き出して演技過剰の舞台女優のような決めポーズを取る。

 話が見えない。副島先輩は貴代子様をお姉さまと呼び、敬意が変質した思慕に似た感情を抱いているが今はそれは脇に置く、で、炉端さんが言うお姉さまもたぶん貴代子様。対して、巻き毛のささめはこの場にいない華恋様をお姉さまと呼んでいる。そういえば千恵も、お姉さまはもうお姉さまとしか呼びようがないと言っていた、が、彼女は貴代子様をお姉さまと呼ばずに貴代子様と呼んでいる。上級生ならお姉さまと呼ぶのが礼儀なのか? でも貴代子様は二通りの呼ばれ方をされている、つまり上級生イコールお姉さまではない。ルールが分からない。

「一条さん、お願いしていいかな?」

 もちろんですわ、と返事をして推定トイレの方角に消えたささめを見送り、貴代子様は私に目を移す。「混乱してるね。お姉さまっていう呼称が誰に向けられるのか、だよね?」

 貴代子様の言及が私の困惑と完全に一致していて種の見透かせないマジックを披露された気分で静かに頷く。悪戯っぽい笑みを浮かべる貴代子様を見て、「王子様」では括れない、でも酷く人間的な一面に触れた気がする。

「みんな初めて入寮した時は混乱するんだ。全部説明すると長いから、顔合わせも済んだし一度みんなを解散させてから個別に」と言ったところで廊下の角からささめが現れる。彼女が話しかける壁の陰から、蕾が開くようにぱっと華恋様が顔を出した瞬間。

 全てがスローモーションで再生される。

 洗練の極値。エレガンス。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

 如何様に形容しても彼女の素晴らしさを説明できない。モデルのような体形。長い脚。柳葉のように鋭利なシルエット。否、全ての言葉は彼女の容姿と醸し出すオーラを前に無意味だ。描写できない、能書きをいくら唱えようと無駄だ、ただ、見よ、としか言えない。三十一年生きて数時間転生しただけの短い人生ではあるが、人を見てこれほど感動するのは初めてだった。

 目が吸い付いて微動だにできない私に、貴代子様が言う。

「彼女が、君にとってのお姉さまだよ」

 大好物の、お姉さまという魔法の言葉。それは耳から体内に入り、電気信号として確かに脳に送信されているのに、私は歓喜するどころか全く動けなかった。

 彼女と視線がぶつかった。ふっと、彼女が微笑んだ。

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