第1章 ヤンキー百合 6

 チャイムが鳴るほんの数分前に彼女は来た。教室前に立つ私を認めた瞬間物凄く嫌そうに顔を歪めて聞こえよがしの舌打ちを一つ、完全に取り合う気はない様子で脇を通り過ぎようとするその腕を私は掴んだ。贅肉のない固くしっかりとした掴み応え。

「あんだよ、何か用か?」あぁ? と振り返りメンチを切る荒木に「どうしても話がしたくて!」と言うと腕を掴んだ手を振り解かれた。

「別に話すこともねえし」

 歩き始めようと振った腕をもう一度掴む。「謝罪も含めて、お願い、少しだけ話をさせて欲しい!」

「しつこいな」荒木がまた振り返る。「別に謝罪とかいらねえし、そもそも話すも何ももう終わった話だろ」

「ごめんなさい!」荒木が再び振り解こうとするところを両手で掴み止めたことに謝る。彼女は私の握力の強さに戸惑いを浮かべている。「荒木さんから見たら押し売りかもしれない、ただ、あなたの中で本当の意味で終わっていないのであれば、話だけでも聞いて欲しい」

 しかめ面。感情が揺れている。迷っている。受諾と拒否、どちらに転んでもおかしくない心のシーソーに荒木自身が翻弄されている。手の内を晒して受諾に傾けたいがそれは彼女の意思決定を歪めるからだめだ、私は彼女の決断を待たなければならない。

「だめだ」荒木は私の手に掴まれていないほうの手を重ねる。

 極めて妥当な判断。あれだけ手酷く失敗させた者を再度頼る懐の深い人は、そうはいない、いや普通存在しない。握力の失せた手を荒木がゆっくりと外す。

「じゃあ、せめて謝罪だけはさせて欲しい。自己満足でしかないけど」冷えて沈んだ心から誠実を掬い取り差し出すその前に吐き出された荒木の本気の「はぁ?」に言葉が止まってしまう。

 荒木は時計を指さす。何が言いたいか分からず目を瞬いていると荒木は「時間」と言う。「チャイム鳴るだろ」と言い直す。「もうすぐ朝礼だから、今はだめだ。話なら後で聞く」どこで話すかはメッセージとかで決めよう、「変に勘ぐられたくないから」

 また荒木さんと花咲さんが何かしているわ。荒木さんの舎弟になったのかしら? でも花咲さんがビンタで荒木さんを泣かせたのでしょう? 花咲さんは中学まで武道をやっていたそうよ。空手有段者って噂は本当なの? ざわざわ。ざわざわ。

 周りに気取られている間に荒木は教室へ入り「あ」ありがとうも満足に言えず私は突っ立っていた。安堵と、喜びと、紛らわしいわと突っ込みたい喜びと。私は今、どうしようもなく嬉しいのだ。余韻から目覚めよとばかりに予鈴が鳴り、私は自分の教室へと速足で戻った。

 なるだけ人気のない場所を思案して、定番スポット昼休みの屋上を提案すると即座にだめだと返事が来て体育館裏に昼休みwithごはんと指定される。よりによってトラウマの始原を選ぶとはメンタル強いなと驚愕の思いもあるが「是」と返す。

 私が荒木と所在不明の天辺を取るみたいな噂が増殖し、休み時間に千恵と喋っていると興味津々の女子に何度か声を掛けられた。やがて藤さより委員長が「何かトラブルに巻き込まれているのでは?」と訊きに来て、私が首を振って千恵も首を振ると大丈夫だと踏んだ様子で自席に戻った。それ以降問い合わせはぱったりなくなった。尤も噂は刻々と形を変えて地中を蠢いていたが。

 四時間目終了と昼休みの開始を指示するチャイムで私は教科書をしまい寮で作られる弁当を手に体育館裏へ向かった。教室を出る際に視線の合った千恵はウインクをくれた。

 体育館裏には春の麗らかな風が吹きそよいでいて、制服の重々しいスカートが少しだけ翻る。髪が乱れて、手櫛で直すがまた数本の毛が離反するように跳ね上がる。私は弁当箱を手に立っている。体育館裏は剥き出しの土、弁当を置く場がない。

「おーい」

 振り返る先に荒木。制作者と販売者の良識を疑いたくなるヒョウ柄の弁当包みを右手に、左手を私に元気よく振る。意想外に柔和な顔つき。

 すぐそばまで来て荒木は急に渋面になった。「おっす」

「来てくれてありがとう」礼を言うと何かしらの理由で目線を外された。

「で、話って?」天道虫でもいたのか、何かを見送ってから視線が私に戻ってくる。

 私は弁当を湿り気を含む地面に置いて手を自由にした。

「まず、最初に」居住まいを正し、腰から上体を折り下げた。「昨日はごめんなさい。騙すつもりはなかったのですが、結果的に大嘘をついて、荒木さんの勇気を台無しにしてしまいました。申し訳ありませんでした」

 暫しの沈黙があり、「まあいいって」と荒木。「別に謝罪とか求めてないし。……ってか」何か非常に言いにくそうに言葉に詰まったので上体を起こし窺うと荒木は猶一層言い辛そうに頭を掻いて視線を横に流す。「なんつーか、その、本音を言うと……嬉しかったんだよ」

 荒木は羞恥に耐えかね俯き、片手で顔を隠す。嬉しかったの意味が取れず、「嬉しかった?」と訊き返す。

 荒木は暫し悶絶して、それから「嬉しかったんだよ!」と反発型デレ顔で言った。「白洲さんに片思いしてるって漏らした時、絶対、うわっとか、ええー、みたいな、否定の言葉が来ると思った。女の子同士でおかしい、とか。でも」でも、と二度繰り返してようやく先走りした感情に思考が追い付いたようだ。「あの時花咲、その感情は本物だって、だから否定しなくていいって言ったじゃん? なんか、認められたっていうか、あたし間違ってないんだって、別に恥じることなかったんだって思えて、それですごく、嬉しかったんだよ」

 温い風が吹いて、泳いだ荒木の茶髪が太陽を受けて透けるように光る。

「だから、さ」頬を指で掻く。「もうそれだけで十分っつーか、おまけで白洲さんと関われたし、あ、あ、顎まで触っちゃったし」咳払いで調子を戻す。「お前にお節介焼かれなかったらできない体験をできたから、怒りより感謝のほうが強いんだ、実は」くそ、ダセェこと言ってんなあたし、と顔を顰める。

「詰られる可能性は考えたけど、まさか感謝されるとは思ってなかった」率直に思ったことを伝えると、いいだろ別に、感謝なんだからありがたく受け取れ、と詰られた。

 間。

「それで、それでなんだけど」荒木の視線が右へ左へ泳ぐ。口を開いて、喉がつかえたように何も言わず、もう一度開いてようやく言葉が出る。「朝、あなたの中で本当の意味で終わっていないのであれば話を聞いて欲しい、みたいなこと言ってたけど、それってどういうこと?」

 荒木はwithごはんとメッセージを送ってきた。彼女の手にはヒョウ柄の弁当包みがぶら下がり、私も弁当を持参している、つまり、ぱっと話して解散ではなく弁当を食べながら腰を据えて話しましょう、ということ。指定された場所は告白と同じ舞台、体育館裏、つまりあの日あの時から針を進める意向、とも読める。荒木が話に乗ってくる可能性は薄々感じていた。

「端的に述べると、もう一度白洲さんと両想いになる可能性を探ってみませんか、というお誘いです」荒木は目の前に徳川埋蔵金の在り処を示した地図を提示されて、けれど前回の痛烈な失敗もある手前すぐには手出しせず疑りの眼で遠巻きに眺めている。だがゆらゆら動く猫じゃらしを前にした猫のように今にも手を出しそうな気配だ。それを欲望で釣らずあくまでロジックでの説得を試みる。「今度はもっと地に足のついた攻略法で行きます。前回は、完全な失策とは言わないけれど、あらゆる段階をすっ飛ばしすぎた。今回は正攻法で有利な形を作ってから寄り切る路線で行きます。因みに、お姉さま監修なので私がこさえた偏狭な理論である確率はかなり低いと思います」

「お姉さま?」と荒木は目を眇める。姉のバイクで登校したからには遠い自宅から通っているとみて間違いない、寮のルールは知らない、が、千恵が学校でも普通にお姉さまと呼んでいることから推論するにお姉さまシステムはどこかで聞き齧っているはず、ならば、誰か、と訊いているのだ。

 私は百合イベントに参加する際百合に対して失礼のないよう高級ブランド店で最強装備を買い揃えた時にレジスターの美人のお姉さんに突きつけたゴールドカードのように彼女の名を告げた。「姫宮華恋様よ」

 情報処理に必要な一瞬の間、そして荒木は時代劇『水戸黄門』で印籠を見せつけられた悪代官のように周章狼狽して「ま、ま、ま、マジで!」と叫んだ。「花咲ってあの華恋様とお知り合い、ってか華恋様がお姉さまなのぉ!」ヤンキーキャラもお姉さまの威光にきらきら乙女心を抑え切れないらしく手を合わせて女子の顔だ。「すごっ! マジで! サイン欲しい!」

 競争社会からかなり早い段階で離脱した私は虎の威を借る者の気がまるで理解できなかったがこんな反応を貰うと自分の価値まで膨張して偉人になった心持ちで悪くないというか率直に言って良い。「簡単に許可するとみんな欲しがるからアレだけど、ま、どうしてもって言うならサインの一つや二つ、貰えないこともないと思うけど」

「マージかー!」荒木は体を探り、サインできる媒体が右手に持つ弁当しかないことに気づき、悩んで、「今度ノート渡すから、お願いできる?」と左手を立てて請願する。「名前のそばに漢字で夜露四苦って書いてもらえるようお願いしようか?」冗談で訊くと荒木は「それは要らない」と即答する。アイデンティティに対する苦悩はないのか。

「でも、そっか」荒木が希望に満ちた笑顔を見せる。「あの華恋様が監修してくれるなら絶対大丈夫だ。花咲だけだと正直疑心暗鬼だったけど、華恋様がバックにいるなら、滅茶苦茶心強い。そのお誘い、受けるぜ。ってかお願い、受けさせてくれ」

 宇宙開闢のように膨張し続けていた私の自尊心は低評価の本音に急速冷凍急速収縮したがまあ一度失敗しているのだから仕方がないそこは割り切ろうと割り切れなさを分数表記で割り切り本題に戻る。

「受けてくれてありがとう。今度は成功に導くから。一緒に頑張ろう。白洲さんを落とす方法論は、食事しながら説明するよ」

 地面に置いた弁当を持ち荒木に掲げ、どこで食べるのか問う。きょろきょろ場を見回しようやく座るのに適した場がないと察した荒木は、どうしよう、と私に決定権を譲る。最悪ではあるがある意味では最高かもしれないなと思い、私は体育館の壁を背に、地面に置いた弁当包みを解いて、俗にヤンキー座りと呼ばれる姿勢で弁当を食うことにした。荒木も倣った。お嬢様学校でセーラー服の長いスカートを穿いた女生徒が二人、脚を広げて地面に直置きした弁当を箸で突いている。男性との結婚が約束されたこの檻の中で百合を育む、その叛逆の象徴としてこの光景以上に痛快なものはないのではないか。


 まずは相手を知ること。人物像が見えたなら、彼女と自分がどこでリンクして、どこが疎遠で、そしてどこから関係を築こうとすれば良いか、自ずと見えてくるはずだわ。そのためには十分に情報を仕入れるべきよ。

 お姉さまの語った正攻法その一。情報収集。私の恋愛理論に在りながら煩雑とすっ飛ばした細やかな仕事。

「あ!」と、まるで生き別れの妹に会ったように長野部長が衝撃に打たれ、「来てくれたぁ!」と私に抱き着き号泣する。いちいち感情表現の過剰な人だなと思うが歓待されるのは悪い気はしない、思い返せばやんわりと邪魔を宣告されて教室の隅に追いやられた暗い人生だった。

 あれは小学六年生の冬だった。珍しく雪の積もった校庭で雪合戦という嬉しい楽しいレクリエーションを実施するためにクラスを二分するチーム編成が行われたのだがイケ女二人が互いに好いていると或る女子を自分のチームに入れたがったため議論が紛糾、私とあの子、どっちが好きか選んでよ展開に陥り結局態度をはっきりさせなかったと或る女子はどちらのチームからも御呼ばれでなかった私に矛先を誘導しいつの間にかどっちのチームに私が入るか、より明け透けに言うと特に好かれていない私が組み込まれたチームがと或る女子を人数上の均衡のために諦めるという話に流れ着き私は要らない要らないと婉曲にたらい回しにされて自尊心を大いに傷つけられ爾来この手の値踏み騒動に巻き込まれるのは二度とごめんだとなるだけ標的にならぬよう隠遁を心掛けるようになったのだった。因みに私を押し付けられた側のイケ女が納得を拒否したため嬉しい楽しいレクリエーションは口喧嘩と後日の禍根だけを呼んで何も行われないまま白い吐息のように大気へ消え去った。

 無用の追憶を終えて体温の高い小動物を胸から引き剥がす。長野部長の鼻に鼻水のような湿り気が見え、顔が埋まっていた場所を確認するが洟が付いたわけではないようだ、セーフ。長野部長はどうぞどうぞと椅子を引き、会議用テーブル上をせっせと片付け始める。

 放課後の広報部部室では元気いっぱいの長野部長と榊先輩にキーボード経由の指示で奴隷のように使役されるパソコンと最新プリンターが神のお告げを印字するように苦しげに呻きながら動いていた。人物は二人だけだが異様に高い活気。地球の自転がこの部屋だけ倍速であるかのような。

 一瞬視線を上げた榊先輩はキーボードを打ち続けねば死ぬかのようにすぐに視線を下ろし休みなく指を動かす。「何か用?」

 部員として活動する気が皆無であると見透かした問い。私も悪びれず要求を伝える。「或る人物の情報が欲しくて」

「……対価は?」そこにこの世の全てがあるかのようにパソコンを凝視している。

「善意による無償提供は、なしですか?」

「それでもいいけど」どっちでもいいけど、に聞こえる。「花咲さんは私の指示に従って酷使されている長野部長を見て、手伝ってあげようとは思わないの?」明言していないが最後に、人として、と言われた気がする。長野部長がこちらに振り返る。一緒に部活動してくれるのではないかという期待を仏の後光のように表して。

「本業があるので」非礼の町人を容赦なく叩き切る武士のようにばっさりと可能性を切り捨てると長野部長が涙目になり罪悪感が湧いてくるがここで情に流されてはだめだ、毅然とその場に立つ、彼女が用意した席には座らない。

 ふふふ、と榊先輩が意図の分からない笑い声を漏らす。「マンパワーは常に足りてないから、新入部員には期待してるよ。それで、誰の情報が欲しいの?」

「四年桃組の、白洲紗理奈さんのことが知りたいんですけど」撞球で最後の一球を落とすように余分の力なく彼女の名前を場に転がす。榊先輩はキーボード一辺倒だった手を片方マウスに載せて何かしらの操作を加える。長野部長は注意が逸れて椅子の背に手を添えたまま榊先輩のほうを振り向く。

「何に関する情報が欲しいの?」カタカタカチカチ。

「有る情報全部です」

「……なるほど」眼鏡の奥の目が少し細くなる。手が止まる。「一応個人情報だからあんまり紙とかには残したくないな。口伝でいい?」

「はい」情報を取り零さないよう打球を待つ内野手のように集中する。

「四年桃組、白洲紗理奈」榊先輩が読み上げる。「身長163cm、体重50.1kg、運動能力は平均値よりやや低め、学業は全教科優秀で分けても数学と科学に優れる、オカルト研究会所属、部員は彼女だけ、部への昇格を目指す様子なし、交友関係は非常に限定的で特定の友人とつるむ気配なく休み時間は本を読み一人で過ごす。強いて挙げるなら中学一年で同じクラスだった清水綾香と武本さゆみと富田麻美と緩く繋がっている」少し間が空く。「清水綾香は一年と二年、武本さゆみは一年と二年、富田麻美は一年、で同じクラスだった。四年生では全員別のクラス。新たな人脈を開拓しようという積極性は低そうだから四年桃組でもたぶん独りで過ごすんだろうね」白洲紗理奈のデータに戻るよ。「家族構成。父と母、妹が一人。全員同居。父は製薬会社社長、母は合気道有段者で現在合気道教室を主宰。妹は、ダンス倶楽部に所属。白洲紗理奈が学校外の組織に参加しているという情報はなし」榊先輩が少し首を傾げる。部未満のオカルト研究会に一人、親が何かしら習い事をさせそうな気がするけど、運動能力は平均以下。ぶつぶつ言っている。

「あ、オカルト研究会って」と長野部長が話に割り込む。「創設時に取材したことあるけど、確か全部で三人いたはずで、だけど部長、研究会だから会長になるのかな? が、あまりにオカルトにストイックすぎて他二人がついて行けなくて辞めちゃった、って話を、聞いたことがあるような」

「最後がぼやけているところがなんとも長野部長らしいですが」榊先輩は意地悪そうに笑う。おやぁ?と私は思った。「ビンゴです。オカルト研究会創設時のメンバーは白洲紗理奈と清水綾香と武本さゆみの三人です」伊達に長く生きてませんね、と付け加えたのは皮肉に隠した好意だ。うんん? と思う。

「白洲紗理奈に関する情報は、ほぼ出し尽くしたかな」床を蹴って車輪付きの椅子を下げ、パソコンという万有引力から解放されたように榊先輩は伸びをする。ふう、と大きな息を吐く。「何か欲しい情報はあったかな?」

 卓上にぶちまけられた情報を一つ一つ頭の本棚に差し込んでいく。頭が良くて運動はいまいち。比較的仲の良かった子とオカルト研究会を発足するも見捨てられる。それで読書に引き籠ったか生来の性質か分からないが友達はほぼいない。けっこうガツガツしてそうな家族構成。荒木は勉強では絡めないが運動で助けられるかも。友達がほぼいない状態を学校というシステムは許さないから白洲も仲の良い子を欲しているはず、その心と制度の要請に浸け込む。荒木は妹で白洲は姉、何かしら通じ合うものがあるかも。

「凡そ、欲しい情報は手に入りました」にっこり微笑み「ありがとうございました」とお辞儀する、それは場を辞する挨拶でもある。

 あ、逃げようとしてる、と察した長野部長が引き留める何かを欲してきょろきょろする。「長野部長、アレを花咲さんに渡してあげてください」榊先輩の指示に、天敵の接近を感知した小動物のようにくるっと身を翻し巣穴に潜るように真っ直ぐ駆けた先にぶら下がるのがフックに掛かった十センチ幅の輪で、一つ取り上げると私に差し出した。ビニールのような素材に広報と書かれた、腕章。

「その腕章は広報部所属を表す一種の身分証明書だから、取材と称してそれを提示すれば赤の他人にも接近できるよ。広報部なんてどうせ暇人の意識低い系の巣窟と思われてるだろうから、警戒もあまりされない、むしろ取材される、注目される楽しさに酔って向こうから重要情報を差し出してくれたりもする」腋が甘くなるんだな、と榊先輩は少しだけ笑う。「私たちは、って言っても現状二人しか活動してないけど、その取材を元に記事を書き掲示板に貼る。情報源が秘匿できるよう工夫して、以前話したように噂の誘導を行うのが常だけど、別にどうあっても記事にしなきゃいけないわけでもない。空振りの場合、ネタを種のままこのパソコンに仕舞えばいい。取材対象は噂の渦中の人だけでなく、実は誰でも良かったりする。欲しいのは情報だから。そして、情報は多いほど良い。なんとなく、伝わってるかな?」榊先輩は試すような笑みを浮かべる。

 つまり。「私は広報部の取材と銘打って目標に近づき、相手から欲しい情報を引き出す。その情報をパソコンに埋めるなり掲示物として表に出すなりして活動実績を残す。シンプルに言うと、取材という言い分を与える代わりに成果を収めて欲しい。推定ですけど、お二人以外の活動実績を先生方に見せることで部としての存続が承認される。お互いウィンウィン、という理解で合ってますか?」

「うん」躊躇う様子なく榊先輩は頷く。「推定も含めて、それで合ってるよ、花咲さん。広報部の裏稼業は学校側が直接干渉できない問題にアプローチするための手段だから、治安維持機構だからちゃんと機能してくれないと困る、と、私たちは先生方にお尻を蹴られている。場合によっては――」

「なら」私は解説の途中で長野部長に腕章を突き返す。「これはお返しします」

 長野部長の動揺は織り込み済みだが榊先輩が驚いた表情を見せたことに私は驚く。

「何が不満?」榊先輩の声は冷えて固まりつつある飴のように粘ついている。

「なんだか、他人のプライバシーを漁るみたいで気が引けます」正直に答えた。「その個人情報は最終的に学校側が統制のために使うって今はっきり仰いましたけど、私はそういう、走狗にはなりたくないです」

「花咲百合子。妙に廉潔心が強い、と」パソコンに入力するように言って榊先輩は天井を仰いだ。「長野部長にあれだけ冷たくできるんだから、もっと非情な人間だと思ってた。合理主義者っていうかさ」後方に傾いた重心を元に戻して真っ直ぐ私を見る。「分かった、条件を変えよう。君は誰にでも取材できる権利だけ持って行けばいい。その腕章はあげるよ。取材で得た情報は君の中で処理していい。全部秘匿してくれて構わない。私たちは一切の対価を要求せずに君のバックアップをする。君の、本業とやらを進める上で情報が必要になったら喜んで提供するし、噂が発生したなら掲示物で修正したり、何だったら意図的にこちらから噂を仕掛けてもいい」

「そういう」私は声に力を込める。「高みから情報を操作して人を踊らせて、みたいな姿勢も嫌です。人の感情を軽んじている、というか、扇動される大衆を嘲笑っている、みたいな」

 眼鏡に手を添えて位置を正してから榊先輩が言う。「大前提として。私たちは誰かを困らせようとして記事を書いたことは一度もない。誰かを貶めようとして掲示物を貼り出したことも、ない。私たちは傷つく人を最小に抑えるために活動している。個人情報収集や官製の噂に疑念があるのは御尤もだけれど、集めた情報や世論操作のおかげで誰かを救うことだって、できる。学校側が勘付く前に、つまり問題が問題と認識される前に火消しすることだって、できる」けど、と言う私を組み伏せるような強い口調で「ていうかさ」と榊先輩。「言わせてもらうけど、走狗であると知りながら私たちに白洲紗理奈の情報を求めた時点で、君も走狗の側に立っちゃってるんじゃないかな」

 見えないふりをした誤りを的確に喝破されて顔が強張る。確かに、諜報機関から情報を貰った時点で私はそちら側に回っている。クリーンではいられない。

「荒木月と花咲百合子が二日連続で朝に揉み合いを起こした。四年生の間でちょっとした噂になっている」榊先輩がどう調べたかは不明だが事実に近い話を述べる。「白洲紗理奈の名前が出たからには彼女にも接近する予定なんでしょう? 不用意に動くと彼女にも噂が立つ。悪い噂で被害者にしてしまうかもしれない。それが嫌なら取るべき行動は二つ。接近自体を取りやめるか、私たちにバックアップを依頼して、広報部の取材という羊の皮を被るか」

 受け取れ、と榊先輩が言っている。私の中の合理主義者も道徳者も受け取るべきだと主張している。しかし、何度拭いても何処かしら汚れている黒板みたいに、何かがしっくり来ない。

「あのぉ」長野部長が小さな体で私を見上げている。「なんか難しい話になっちゃってるけど」自信がなさそうに時々目線を外す。「単純に、応援する、じゃだめかな。その、荒木さんと白洲さんが困ってるなら、助けてあげる、というか。例えばオカルト研究会の部員募集の掲示物を作ってあげるとか、会の魅力を伝える記事を書くとか、荒木さんは、えっと、荒木さんの正しい魅力を伝える、とか?」

 疑問形、と榊先輩がくすりと笑う。「視野狭窄に陥ってたけど、広報部は別に裏稼業だけやってるわけじゃない。そういう明るい側に立つのもありだよ。そっち側で活動してくれても私たちは喜ぶ。記事を書いてくれたなら最高。でも、さっき言った通り対価は要求しないから君は権利だけ手にしてしまえばいい」くれるって言うなら貰えばいいだけの話、と、少し悪辣に口元を歪める。

 長野部長がおずおずと私を見上げて「何かの助けになるかもしれないから、ね?」と私に腕章を差し出す。

 私は腕章を受け取り、じっと見つめて、鞄に仕舞った。手に残った感触が硬いのか冷たいのか分からなかった。

 部室を出ると茜色の空を眺めていた荒木が振り返り、「なんか分かった?」と藁にも縋る顔で訊く。私が「だいぶ待たせたね」と言うと荒木は「全然」ぶんぶん首を振り、「それで、なんか分かった?」と再度問う。私は脳内本棚に整理した情報ファイルを引き抜いて開示し、人物像を描いてからキーワードを提示する。どこがリンクしてどこが疎遠でそしてどこから関係を築こうとすれば良いか。妹と姉、秀でた学業といまいちの運動能力、そして友達の枠が空席であること。

「おおおお!」と感嘆する荒木。「凄えじゃん! 五里霧中だった景色がめっちゃクリアに見えてんじゃん! やるな花咲!」

「これはあくまで机上の理論だから。実践に移した時に微修正しつつやり遂げなきゃいけない」

 ノってこない私に荒木も少し不安になった様子だ。「やっぱまだ道程は長いのかな? ってかなんか部室内で言い争いしてたようにも聞こえたんだけど、なんかまずいことがあったのか?」

 私は唇を噛み、腕章の手触りの記憶を反芻する。「まずは友達枠に入るべく接触を試みる。その流れを迂遠に行くか、直撃するか。できれば直撃で行きたい、その方法も得た、けどそれを利用していいんだかどうなんだか」葛藤だよ、と呻くと、荒木はそうなのか?と訊く。まあね、と返す。

 薄闇を宿した廊下の、まだ明るい場所を歩く。日が暮れた時、この廊下は全き闇に染まるのか、それとも月明かりが道を示すのか。あるいは非常灯が標となるのか。

「花咲」階段を下りる第一歩の瞬間に出し抜けに名前を呼ばれ、驚いて振り返ると荒木は頭を掻きながら、キャラじゃねえけど、と顔を顰める。「依頼者はあたしだ。ケツはあたしが持つから、お前にとって重要な判断を下す時は相談するか、せめて事前に知らせてくれよな」

「……心配してくれるの?」

 からかうと、「違えし、昨日みたいに暴走されたら困るからだ」と照れた。

 頼もしい。でも、彼女に選択を丸投げしてしまうのは不誠実だ。

 階段を踏み外さないよう、私は一歩一歩慎重に下りた。

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