真理

ダンブルドア校長/ハリーポッターより




たとえ暗闇の時でも、希望はある。灯りを付けることを忘れなければ。




シェイクスピア


暗闇はない、無知があるのみ。




道がないのではない、見えてないだけだ。




モンテーニュ


人は異なる方法で、同じような目的に辿り着く。






言葉や表現の仕方は違えど、みな同じことを言っている。こういう名言が実はいくつもある。暇な時に偉人や名人の名言をあさって読んでいたら気付いたことなのだけど、科学者、哲学者、物理学者、音楽家、作家...etc ジャンルの違う様々な人々がみな同じ答えに辿り着くのはなぜだろうか。それは、これが真理であるからだ。




真理は800年でも1800年でも2800年でも通じるこの世のことわり。宇宙の法則。人が変えようと思って変えられるものではない。自然ですら凌駕する絶対的な法則だと思う。




この世は常に千変万化で諸行無常であるから時代が変われば価値観や生き方や生活も変わっていく。その時代、時代によって、どんな能力が優位になるかも変わっていく。生き残るかどうかは、その時代に適応できるかどうかが大きい。




もし本当にこの世に全知全能の神ゼウスのような完璧な者があるとしたら、そいつのクローンを大量生産して軍隊でも作ればいいものだけど、それが通用しないのはこの世が常に千変万化であるからだと思う。つまり、フィールドがコロコロ変わってしまうのだから適した能力もそれに伴って変わるわけで、生物はこのフィールドに対して適応できるかいなかであって、何かの能力が特別高ければいいというものではないのだ。




生物多様性だなどと、当たり前のことを昨今ではよく聞くけれど、なぜそんな当たり前のことを今更声高にして言うのか。




産業革命後、工場労働者や戦争に使える人間を育てるために、多様性というよりも、むしろ個性を殺しみんなが足並みを揃えることを教えられてきた。そんな教育をしてきた大人、されてきた大人たちが言っているだけで、子供はみんな多様性だなんて当たり前のことは知っている。




それは、このコロコロと変わりゆくのが常である世界で生きていくための、生存戦略として多様性だなんてものは当たり前だからだ。












個人がスマホというデバイスを所有するのが当たり前となって、みんながそれぞれメディアを持つようになりSNSで発信したりしている。もちろん見るのが専門な人も多いけど、発信する人はかなり増えた。歌が上手い人は、歌を、絵が上手い人は絵を、ダンスが上手い人はダンスを、料理が上手い人は料理を披露したりしている。そんな動画を見ていると、世の中には絵が上手い人も歌が上手い人も、たくさんいるんだなと思う。全く知らない素人だけど、バズって一夜にして人気になってく人もいれば、人の多さにまだまだ埋もれてしまっている人もたくさんいる。




こんな風景を一歩引いて見てみると、やはり人間はそれぞれ得意不得意はあるけれど、みんな何かしら得意なことがあって、その得意なことをある程度しっかり練習したり、努力すれば、誰だってそれなりのスキルにはなるんだということ。




みんなそれぞれ上手いけど、みんながそれなりに上手いともいえる。ある程度のレベルには誰でもいけるものなのだ。そんなどんぐりの背比べ状態で、頭一つ飛び抜けようとして、アルゴリズムの奴隷となり走らされるSNSとは、付き合い方を考える必要があるだろう。






時代や、今の世の中を見ていると、つい目が曇ってしまう。従うべきは真理の方であるのに。


だからなにを信じたらいいのかわからなくなったら、真理に立ち帰る。私の変えるべき場所。私の故郷であり絶対的な神である真理。だけど真理はこの社会で生き延びるために力を発揮してくれない。真理を考えればわかることが、世間では通じない。




たとえば、人は一日4〜8時間ほどの睡眠をとる。睡眠は絶対に取らなければいけないものだが、その時間に関しては個人差がある。大体の人は6時間、足りないって人は8〜9時間は寝るだろう。でもその半分の4時間ほどしか取らないショートスリーパーの人もいる。ショートスリーパーは睡眠時間が少ない分、ほかのことに時間を使うことができるから、なんだかお得な気がするけれど、残念ながらクロノタイプは遺伝子で決まってしまっている。




だから、8時間の睡眠が必要な人が、ショートスリーパーに憧れて短い睡眠時間で生きていこうとしても無駄である。遺伝子で決まっていること、白人か黒人かアジア人かどうかも、アジア人だからといって差別される筋合いはないわけだし、黒人だからどうということも白人だからどうということもないのに、人種差別がなくからないのはなんなのか。真理に従って考えたら、そういう人がいるということ以上の意味はないのに。LGBTなども、別に近年に登場したわけではなく、もとからそういう人たちがいたというだけなのに、いまだに騒がれるのはなんなのか。動物や虫や植物だって、信じられないほどいろんな種類のものがいるのに、人間だけがなぜか決まった枠から少しでも外れると騒がれる。マイノリティーであるということで騒がれるのはおかしな話だと思うけど、私の感覚と、この宇宙の真理と、そして世間や社会とが、それぞれ折り合わない。




物事は複雑に関係している。バタフライエフェクトという言葉があるように、ブラジルで羽ばたいた一匹の蝶が、テキサスで竜巻を起こすように、物事の関連は一見して見抜けないものである。それができたなら、毛沢東はあんな失敗をせずに済んだかもしれない。人口の多い中国で、餓死者を出さないために稲をたくさん植える政策をしたけど、スズメが稲をつつきにきてしまうため、毛沢東はスズメを大量に殺させたのだ。すると、今度はバッタが大量発生した。天敵であるスズメがいなくなったことでバッタが稲をダメにしてしまい、結局餓死者を大量に出してしまった大失策である。


この世界の生態系は、物凄いバランスの上で成り立っている。だからこそ、ブラジルで羽ばたいた一匹の蝶が、テキサスで竜巻を起こすのだと言われて、そこに至る過程を細かくイメージできずとも、やはり考慮していかなければいけないことがいくつもあるのだと思う。




これも例え話だけど、その人の持っているものがどんなに切れ味のいいナイフでも出された料理がスープなら使えない。だけどそんな時にやるべきことは、横にあるスプーンに持ち変えることであり、ナイフを持ってることを責めることではない。


単にスプーンに持ち替えて前菜のスープを美味しくいただいたら、そのあとに運ばれてきたメインのステーキの時にナイフを使えばいいだけだ。そばが出てきたならお箸が必要になるが、おにぎりからどれも必要がない。




人の能力や、スキルの使いどころというのはこれと似たようなものだと思う。


何ができるから、何ができないから、マイノリティーだから、どんな理由であれ、あるべきことは相手を責めたり悪口を言うことではない。むしろ、どうにもできない状況になった時こそ、この宇宙の真理を思い出し、毛沢東の失敗を思い出し、バタフライエフェクトのことも思い出す必要がある。これだ!と思っても、早急に答えを出さない。早とちりしてるかもしれないのだから、一呼吸置いてみよう。そしていま一度、暗闇に明かりを灯さなければならない。

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天使と悪魔 おかゆ @gyouzaandbeer

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