お隣さん

私は、夜、執筆している。

最近は全然、書けない。

いわゆるスランプ。



そして、典型的な夜型ゆえ

深夜帯が一番はかどるので

深夜に仕事をしている。


なのに、お隣さん。


ここ最近、お隣から

バイオリンの音が聞こえてくる。


ここはマンションの一室。

高層マンションのわりと上の方。


仕事柄、あまり外に出ないのだし

高いところは見晴らしが良く

虫もいないし、空気もきれい。

運が良ければ、富士山の頭が

見えるこの部屋は、

静かで広漠とした景色見える

何にも邪魔されない、

いわば私には最高の住まいである。



この

バイオリンの音を除いて ーーー



だが、しかし見事な演奏。

とても上手だ。

高音なんて、まるで砂糖が紅茶に

溶けていくように心地いい。

低音も滑らかで、雑味がない。

素晴らしい演奏。


だが、少々うるさいのだ。

どんなに素敵な演奏でも、

さすがにこの時間帯に

弾かれると煩わしい。


今、何時だと思っているんだ。


2:58


夜中のもうすぐ3時。



なんたってこんな時間に弾いてるのか。

私と同じく、夜型なのか。

苦学生で、深夜しか時間がない...のか?

もし音楽家なら防音室くらい...


いや、考えても答えは出ない。


だって、これはなかなかの音量だ。

きっと、他の住人にも聴こえているはず。


苦情は来ないのか?



悶々としてしまって、さっきから

筆は止まっている。


気になって仕方がない。


だが、なんとなく...こんな素敵な

演奏をする人間に文句を言いに

行くのは気が引ける。


し、そもそも

人に文句をつけにいく勇気などない。


耳栓でも、つけるか。

引き出しにしまってある耳栓を

取り出して付けた。


幾分かまだ聞こえるが、

まだマシだ。



そんなこんなで、無理やり執筆を開始。

その日は結局、朝5時までやった。


 

私の生活サイクルは夜型なだけで、

規則正しい。大体、同じような時間帯に

動いている。


朝まで仕事、そこから寝て

昼過ぎに起きる。


今日もまた、深夜大体1時を過ぎると

始まる、バイオリン。


もはや、慣れてしまった。

向こうもどうやら生活サイクルは

変わりないらしい。

深夜帯にバイオリンを弾きつづける模様だ。



ここ数時間、この調子だが、

とくに変わりないということは

苦情も来ていないということか。



そんな生活が一週間ほど続いた。


ある日の夕方、買い物をしに

外へ出るとちょうどエレベーターの

方から人が出てきて、こちらへ歩いてくる。



そして、その人は私の部屋の隣で止まり、

鞄の中をなにやら

ごそごそ。鍵を探してるのか。



そんな様子をぼけっと見ていたもんだから

ついに私に顔を向け、

その男は「こんにちは」と言って

会釈した。



驚いた。


まず、若い。

ここはそこそこの立地、

そこそこのタワマン。

ゆえに家賃もそこそこするのだが

彼は24...25歳くらいか?



そして、驚くほど美青年。

髪は黒いけど、透き通るような

薄いブルーとグリーンが混ざった瞳。


背も高く、骨格からして外国の人だ。



こんな人が、お隣さんだったのか。

彼が毎晩、あのバイオリンを?


とりあえず

「こんにちは」と、会釈した。



「あの、もしかして、バイオリン

 そちらに聴こえてたりしますか?」


彼が言った。


まさに、ここ最近の悩みの種を

突かれ図星で固まった私から

出た言葉は、


「いいえ!いつも、上手ですね!!」


それを聞いた彼は瞬間、

形のいい眉毛を下げて

申し訳なさそうな顔になってしまった。


「やっぱり音漏れしてたんですね。

 すみません... ご迷惑おかけして...」


なんだかその姿が

捨てられた子犬のようで。

しゅんとなって小さく見えてかわいい。



なんと目がくりっくりで...

なんて、愛らしいんでしょうと。

そんなことで頭を持ってかれた私は

すっかり、今までの煩わしさを

吹き飛ばされ、とっさに


「そんなことありません!

 少し、聞こえるかなって程度です。

 私もその時間、起きてるから大丈夫ですよ」


思わず承諾してしまった。

これでもう、文句はつけられまい。


「バイオリンは趣味で...でも、少し控えますね」


と言って、彼は部屋に入っていった。


その日の夜、いつもの

バイオリンの音は聞こえてこなかった。




それからというもの、すっかり

静寂さを取り戻した私はいつものように

仕事をしていたのだが、


全く筆は進まず、

スランプ状態は継続中である。




ある夜、この日は打ち合わせがあった。

カフェで打ち合わせをして、

そのままバーへ。



結構飲んだ。足下がおぼつかない。

でも記憶を飛ばすほどじゃあない。

心地いい酔いを抱え、マンションまで

着くとエントランスに、


ーーー お隣さん。



お隣さんも帰ってきたばかりなのか

手にはコンビニ袋を持っている。



「こんばんは」

「こんばんは」


目が遭った私たちは

どちらともなく挨拶した。



「...お酒、飲まれたんですか?」


赤い顔とおぼつかない足取りで

丸わかりだろう。



「ええと、すこし」



その後も、お互いのお仕事のこと

お互いの年齢とか、世間話をして。

そんな話をしていたら、つい

「バイオリン弾きたかったら

気にせず弾いてください」なんて

口走った気がする。



あんなに煩わしいと思ったのに、

でも綺麗な音色で、

それをバックグラウンドに仕事なんて

むしろ贅沢なんじゃないかとすら

思えてきて。なんだ、この心境の変化は。

相手が美青年だからか、

彼の人柄の良さゆえか、

この人から

バイオリンの演奏を奪ってしまったことを、

どこかで気にしていたからなのか。


でも、弾いていいんだってことを

伝えられて、良かった。



なんだかほわほわした気持ちのまま、

ふたり、それぞれ隣同士の部屋へ。

それでは、おやすみなさいと言って

入っていくのでした。



その日の夜、前よりも僅かに小さな音で

バイオリンが聴こえてきました。


私は、なんだかほっとした気持ちになり、

そのバイオリンを聴きながら、

その日はすぐに眠りに就きました。



それからというもの。

執筆も徐々にはかどるようになり、

ずっと滞っていた作品が

どうにか書き上がったのでした。



バイオリンの音のせいにして、

私は何から逃げていたのでしょう。

何かがうまくいってない時の、

焦燥感、閉塞感たるや。

つい八つ当たりしたくなるものなのでしょうが、

ただ、他のなにかのせいにしてみても

結局、何もうまくはいきませんでした。




お隣さん。




今日も美しいバイオリンが

聴こえてきます。




〜END〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る