暴露

最近の風潮として、「あの人のこんな裏側!」とか

「実はこんなことしてました」なんていう暴露が流行っているのは

なぜだろうと考えた。



そもそも世の中というのは、あらゆる面において

正しい判断に基づいて評価されているわけではない。


テレビでもネットでも、え、この人が?

という人がバズっていたり、過大評価されている様子はよく見る。

実際のところ、それは会社の上司と枕したから、とか

コネがあったからとか、金を積んだからというのが下地にある場合もある。


つまり、正当なやり方じゃないことでのし上がってる人がいるということ。

それは歪んでいる。だけど、認知が広まれば、ある程度人気も確保できる。

知られている範囲が広がれば、好きになってくれる人のπが広がるから。

人は人についていく。ついていく人がいれば、それを見て、そこに

人はついていく。先頭が誰かなんてわかりゃしなくても

「人が群がっている」という『現象』に人はついていく。



何万リツイート、何万いいねがあれば、

この人は人気で支持されていて、すごい人、なのだ。

中身なんか知らなくても


とりあえず、「すごい人」



人間は兎にも角にも、権威性にとことん弱い。



あなたが病院に訪れたとしよう。

すると、道端で苦しそうにうずくまっている人を見つけて、

駆け寄ったが、自分にはどうしたらいいかわからない。


ひとまず、誰か人を呼ぼうと見渡すと、

周りには二人の人物がいた。



ひとりは、私服姿で、いかにも患者さんの連れか、

お見舞いにきたお客さん


もうひとりは白衣を着てカルテのような資料を持った人がいたとする。


どちらのいうことの方が信憑性があるだろうか。


場所は病院、目の前には具合が悪そうな人。

とくれば、やはり白衣を着た人に声をかけて

ヘルプしてもらおうと思うのではないだろうか。



たとえ、その人が、「ただ白衣を着ただけの人」であったとしても

なんだかそれっぽい人というだけでも、人はこの人の方が

まだ、あっちの私服の人よりは助けになってくれそうと判断してしまう。



現代のSNSというのは、うらで動いているアルゴリズムは

すでにAIによって動かされているのは周知の事実で、

「バズる」ために、人間の方が、AIの決めたルールの奴隷になっている。


これを、むなしいと感じている人はどのくらいいるのだろう。



中身のないものに、時間と労力を投資してしまうと、

そこにかけてしまったコスト分、そこから離れられなくなる。


だからこそ、最初の見極めが大切なのだけど

周りが熱狂していたり、みんなが評価しているものを

いちいち疑うのも大変な作業だ。


こういう風潮の時代ならば、もう乗るしかない。

そういうものなんだから、と

どこか割り切ってやっている人もいるのかもしれない。


AIだって、なにも悪気があるわけではない。

もともとは、人間の動向からデータを取り分析して、

それを活かしてるに過ぎなかった。もっと効率よくするために。

だから、元になっているのは最初は人間だったはずなんだけど

そうやって人間に最適化していくと

いつからか、逆転して、AIが決めたものに人間が従っているような

形になってしまう。このひっくり返る地点はどこの部分なのだろう。


AIがすすめたものに影響されてその動画を見て、

その商品を買って、おすすめされた場所に訪れているのであれば、

すでに行動は操られているようなものだ。

バズるためになんでもする奴隷もすでにAIの掌で転がされている。



しかも、そんな風にもうどっちが主体なんだかわからなくなった

状態で、世の中でなにかが流行ったり、ムーブメントが起きるとなると

ある種の歪みがそこにはあって、その歪みからまた新しい歪みが発生する。



みんなの中にそれぞれある、「なんであの人が」

「なんであんな奴がいい思いしてるんだ」

「なんであんなのが人気なんだ」


そんな不満や怒りや恨みや嫉妬がきっと何かの形で爆発する。

それが過去では、魔女狩りであったり、戦争であったりしたように

きっと、何かの地点を超えたあたりで、

爆発作用が起きると思っていたら、「暴露しまーす」が流行ったのだ。



これは、現象だと思う。


ふつふつと、人がそれぞれに腹に抱えていたヘドロが満タンになって

飛び出てきたのだ。


一種の浄化儀礼なのだろうか。

歪み切ってねじれまくった状態がとある地点まで到達すると、

弾け飛んで、全てがちぎれ、バラバラに崩壊して、元の状態に戻るように。


そんな作用が地球単位でも、集団の単位でも、個人の単位でも、

起こるのではないだろうか。



過去の歴史で、効率や、利便性、論理性を重視した啓蒙主義が流行った後に、

ロマン主義が台頭したように、

今後は、風邪の時代、精神性の時代が来ると言われている

理由も、私はこのサイクルがあるからだと思っている。


つまり、何かにかたむき過ぎれば、

抑圧されていた側の反対の力が今度は有利になるのだ。


こんな傾きを何度も繰り返しているだけの話である。

本来は、バランスをとること。真ん中に、中庸に、

調和が大事だというのはそういうことだと思う。



だけど、きっとまだまだあと何十年、何百年かは、

世間的にそれは実現しないと思っている。

きっとシーソーゲームはまだまだ続くだろう。

この茶番に乗らない人が増えない限りは。


それは、もっともっと未来のお話。

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