光と音

現実にあるこの肉体を捨てて、脳だけになっても

生きようとする人間はどこかアメーバのような、それこそ

変形し続けるウィルスのような—


脳だけ、なんて今までの人生観が丸ごと覆されてしまいそうだ。

そもそも人間が生きていくのに、こうでなけりゃいけない

ものなんていうのがないから、まったく新しく、生きていくことの定義を

決めることになる。人間には、もともと中身はない。

赤ちゃんの時には「アイウエオ」も「1+1=2」もなかった。

何もない、空っぽな状態で生まれ、中に色々詰めようとするが、

常に変化していくため、結局詰められない。

人にあるのは、今この瞬間だけ。過去も未来もそんなものはない。

今だけがあり、世界がどんなに広く大きくとも、

自分の知っているちっぽけな目の前のことが自分の世界に過ぎない。

私はよく人間は細菌に似ているなと思う。細菌と言っても色々で、

腸内細菌なんかまさに人間っぽい。細菌というか37兆個の細胞のかたまりだけど

そんな細胞のかたまりの肉体は、洗ったりケアしたり食べたり出したり面倒くさい。

こんなもの、よく持ち歩いているなと思うけど、きっと進化の過程で

必要だからそうなったのだろう。いや、それをやってたらそうなったのか...

因果は同時。生き残るために必要だから残ったのか、

それとも、それをしていたら残っただけなのか。

どちらにせよ、ここに優れているとか、優秀だったから、なんて

理由はない。そう勘違いしがちだけど。


全ての物事は最初は一つだった。けれどそれが分裂をして、二つ、

二つがまた分裂して四つ、四つがまた分裂して、八つ...∞



以前にオスカーワイルドがこんなことを書いていた。


「もし思念が生きている有機体に影響を及ぼすことができるならば、

同時に死物である無機体にも影響を及ぼすこともできるのではないか?


いや、たとえ思念や意識された欲望が参加せずとも、

人間の外部にある事物が人間の気分や情熱と一体になって同じ

振動を行い、原子と原子とが、不思議な感応力の密かな愛のうちに

互いに呼び合うこともありうるのではないか?」


こんなことを19世紀に考えていた彼は、

若さと美しさを永遠に我がものにしておきたいという

ドリアンの無茶な願いを半ば叶えてしまったのである。

そして、感覚の生活が神秘哲学の用語で描写されているこの小説は

霊的恍惚境の世界を見せてくれる...



それはさておき、無機物と有機物、そして秩序と無秩序。

この二つはなんて魅力的なんだろう。

あるか、なしか、二つが重なるところに世界は

存在するのかもしれない。宇宙の星々の秩序と人間の心の秩序は

繋がっているのかもしれない。人間は媒体であり、物質であり

変化し行動する過程である。



哲学者カントは霊能者とよく議論していたが、

結局、霊は哲学的対象にはしないという、別フォルダーに保管

のような対処をしていた。

まあ、ないものを証明はできないから、どんな科学者も黙る分野ではあるけど

それで出来たのが純粋理性批判というのだから、ロマンがある。

哲学はお堅いものという印象を持たれやすく

よくわからん!と思われがちだがむしろとろけている。

こんなにとろけるもんは愛と哲学をのぞいて他に何がある。


哲学と、サイエンス、物理学、そして、人の心と生活、人生

そのものを写す芸術は切っても切り離せない。(音楽はVIP席)


人の目では見えないが、生きている人はみなうっすら光を放ち、

粒子は揺れている。

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