最終章 月へ行く


『シベリアの他に、わがロシアが獲得し、罪人を送っている土地がある……月だ。

 月には既に、百二十年ほど前に密かにロシアが船で渡り、ロシア領であるという旗を立てていた。しかしその事実を大半の国民が知らされていない――、一部の犯罪者を除いて。

 実際の月は岩だらけの荒廃した土地だ。活用するためには開拓者が要る。この過酷な環境に耐える労働者として、ロシアではペテルブルグの港から、流刑囚の一部が船で輸送され始めた。現在からさかのぼって百年ほど前からである。

 シベリア送りでなく、「月送り」になる流刑囚には一定の条件がある。精神病患者か、その疑いが強い者、犯行時に判断能力を欠いていたと思われる者だ。大半が病人で、彼らはそもそも自己の犯行内容についての認識もおぼろげであり、「月の舟」がどこへ行く舟なのかも理解していない者が殆どだった。

 彼らの罪状は、首から下げられた札に記載されている。乗船時に係員が面談して、本人に罪の意識はあるかと尋ねる。乗船の間際にこれを行うのは、事前に行えば逃亡する恐れがあるからである。彼らには面談の内容に応じて、酔い止め薬と称して特殊な液体が配られる。中身はつまるところ酒であり、罪の意識に乏しい者、脱走を企てる恐れのある者にはこれが多く盛られる。

 出発する時には、月の舟は実に簡素な様子になる。黄金色の小舟に、縄でつないだ流刑囚たちを所狭しと並べて、船長一人だけが乗船し、満月が出るのを待って海から夜空へと出航する。

 主人公の青年イリヤは、祖父の代からこの月への渡し守の仕事をしている。歳は二十代の半ばで、仕事には初めから情熱がない。彼は祖父からこの任務の実態を知らされていた。囚人のなかには、月へ到着する一か月の旅程の内に発狂する者が出て来る。それらを宇宙に捨ててしまうことだった。

 舟には幻の月を出現させるボタンがついており、船長は囚人を呼び出してそれを見せ、先に下ろしてやると言っては、発狂者を荷物のように舟から落とした。月に到着するころには、月の舟は空になるのが常だった。開拓者が増えないため、月からは苦情も多かったが、囚人の質の改善を図ることも出来ず、文字通り結果は自然に任された。

 イリヤはこの仕事で、空の舟を引きずって地球に戻る時の虚無感をのみ愛した。

 ある時、イリヤは不思議な青年が乗船するのを見つけた。初め、船員の交代要員が間違って乗船しようとしたのではないかと思ったほどだった。青年は二十歳になるかならずで、明るく澄んだ瞳を持ち、受け答えなどもはっきりとしていた。

 彼の罪状は「殺人」と大きく書かれており、「自分で書いた」と本人が言った。通常あり得ないことではあったが、罪状の内容を見ると確かに、彼自身の筆跡らしいもので終いまで書かれており、看守が記入したらしい別の筆跡で「記載内容に問題なし」「精神病の疑い」と記されていた。イリヤは、このかつてないほどに信頼された狂人に興味を持った。

 青年の名前はフョードルといった。最後の一人の囚人になるまで、フョードルは大人しかった。乗船時のアルコールは彼には不要なほどだったが、彼がもっとほしいとせがんで大目に処方されており、それにしても不思議なほど素面らしく見えた。「怖くはないのかい、坊や」

 と規則をやぶってイリヤは囚人に親しい口をきいた。

「ここから落とされたりしなければ」とフョードルは答えた。

「さっきの人はあれで亡くなったんでしょう?」

 とフョードルは脱落者の運命を知っているかのように話した。イリヤはこの青年を警戒して黙殺した。

「六番、きみは人を殺してここに送られたそうだが、それにしちゃ随分と明るい顔をしているね。流刑囚は、自分が殺されるような顔つきでここにいるもんだぜ」

「ええそうです、だって僕には罪の意識というものがありませんからね。僕を殺そうと思うひとなんてどこにもいませんよ、だってその理由がないんだから」

 イリヤはフョードルから取った罪状の名札を眺めて「何人殺した」と端的に尋ねた。

 フョードルは、その問いに答える上でちょっと相手を値踏みするような目つきをした。それから、

「そこに書いているのは二人」と言った。

「でもあなたが知りたいのは、僕が本当に殺した人数と、その本当の理由でしょう。話しますよ、本当は一人だけなんです。でも僕がどうしても二人だと言い張ったので、ここに来ました……」

 フョードルには資産のある家があった。彼は全然働かないでも暮らしていけた。その財産を作ったのは彼の父親だったが、この父親は二人の息子たちを、自分にたかる寄生虫のようにしか考えていなかった。

 ある時いさかいがあって、彼の兄が父親を斧で殴り殺した。彼らの亡くなった母親を侮辱したことが直接の引き金だったが、兄はかねてより、度々父親への殺意を漏らしていた。彼ら二人で暮らすために、父親を殺して財産を奪う計画なども、兄弟で遊び半分で立てたこともある。しかし弟には十分な知能がなかった(実際にはすこし反応が鈍い程度で、言われることは理解できたのたが、周囲には知恵が遅れていると思われていた)ため、想像の上ですら兄が主犯となって弟を導いていた。

 弟はその現場を見て、その現場が兄の譬え話なのか、現実であるのかを求める目を向けた。その目を見て、兄はフョードルを殺さんばかりの勢いで抱擁した。

 フョードルは、兄が必死に自分に言い聞かせることの全てが理解できていた。兄は、父親を本当に殺してしまったことを後悔している。命まで奪ったことを父に詫びたく、自殺せんばかりの苦しみに襲われている。しかしお前を残していくことは出来ない。仮にもし二人で逃亡しようとしたとしよう。

「お前、ぼくが殺していないと言えるかい?」フョードルはうなずいた。

「それじゃ、もし、殺したのは兄だろうと誰かに言われたら、お前は何と言う?」

「殺したのは兄さんじゃないと言います、それが兄さんの望むことだから――」

 兄はかぶりを振った。この時、フョードルは兄が自分を殺すことを決意したと思い、微かに身体を離そうとしたが、兄の手がそれを赦さなかった。兄は壁に掛けてある猟銃を持って来るように言い、フョードルが従って持ってくると、身振りでそれの撃ち方を教えた。

「親父の足を撃て」

 フョードルは従った。

「それから腹、胸と順番に撃つんだ」

 フョードルがこれにも従うと、

「そこに斧があるだろう、それで、脳天をカチ割るんだ。ぼくがどんなことをやったのか、お前だけには知っていてもらわなくちゃ困る」

 フョードルは言われた通り、倒れている父親の脳天めがけて斧を振り下ろした。想像していたより強い頭蓋子の手応えだけが、それが譬え話でないことを彼に知らせていた。「よし、良い子だ。いいかいフョードル、お前はこれから同じことをぼくにするんだ」

 フョードルは兄の意図をこの時に理解した。いくら口で自分を殺せと初めから言っても、恐らく想像と現実の区別がつかない彼に、兄は父親の死体を使って練習をさせ、自分を手順の先に置いたのだった。フョードルは兄を愛していたので、彼を殺すことを拒んでかぶりを振った。

「お前はぼくを苦しめると思うんだろう、とんでもない、それは誤解だよ。ぼくがいかに親父を殺したかったか、その願望が叶ってどれだけ幸福か!いま、ぼくに不幸があるとしたら、親父が生き返るか、お前が殺人犯の弟として生きながら苦しめられるのを見ることだ。ぼくは親父を殺したかったが、お前には幸福に生き延びてもらいたいと願っていた。

 でも、あれをやった後の手では、お前を逃がしてやることも出来ない。今やお前自身が頼りだ、フョードル。残っているぼくの望みと言えば、お前が無事に逃げ延びてくれることだけだ。もはやお前には災いにしかならない、ぼくを葬ってここから逃げてくれ。こんなことになって本当に済まなかった」

 フョードルは兄の言葉の他に、その行動に踏み切る勇気を持つ根拠を持っていた。

 兄は意図していたものか、父への殺意というものを、羞恥心のために隠していた。兄弟だけの遊びにだけ父への殺意を漏らし、世間では孝行息子を装っていた。彼は父親を殺したのが自分だとは、死んでも知られたくなかったのであろう。それは、彼の羞恥心の場所にも精通していた、弟であったために彼には理解できた。

 後に彼は、兄の純粋な懇願だけでは、きっと兄を殺せなかっただろうと思った。しかし兄はそう図ってかどうか「頭の鈍い弟に父親殺しの罪を着せたい。だから自分を同じ方法で殺してほしい」とは言わなかった。ただ、フョードルはこの点で兄に一握りの憎悪を持ち、結果として兄に従うことが出来た。

 フョードルは兄の命令を完遂し、実に晴れ晴れとした気分で家を出た。彼は実際誰かに出会って、頭を撫でられたい気分だった。自分の手や髪が血にまみれていたため、洗うために近くの川へと向かっていた。路上で、自宅を訪ねようとした人物に偶然出会い、親切心のつもりで「兄ならもう死んでいる」と言った。このために事件が発覚し、彼の精神異常が疑われた。

 イリヤはフョードルから取り上げた名札を眺め、また自分の手元にある詳細な調書とも見比べた。実際のところ、囚人が舟の上で「本当の罪状」を語りだすということは、しばしばあることだった。彼らは自己弁護のために、ねつ造した罪の告白をした。しかしフョードルの場合は、その告白に嘆願の様子も、罪を軽減してほしいという態度もないことが明らかに他の囚人と異なった。

 イリヤの手元にある調書の概略はこうだった。フョードルは父親と口論となり、憎くなって猟銃で撃った。偶然戻ってきた兄がこれをみて咎めたので、邪魔になって撃った。二人にまだ息があるのを見て、斧で頭を割って息の根を止めた。身体が汚れたので外に出て、訪問者がいたので既に死体になっている旨を告げた。初めから殺す気ではなかったが、もともと二人には度々虐められて憎悪を抱いていたので、後悔はしていない……。

「きみは初めから、家族にいじめられていて憎かったんじゃないのかい」

 フョードルはかぶりを振った。

「いいえ全然。お父さんは僕をたまにからかったりしたけれど、殴ったことは一度もないです。それに兄さんは優しかったです。僕は兄さんの言いつけを守ることで必ずご褒美をもらえました。僕はきっと今度も何かもらえるんだろうと思っています」

 彼らを乗せた月の舟はいよいよ月へ近づいた。フョードルは相変わらず遠足にでも行くように浮き浮きとした表情で、しきりとイリヤに外の星のことを尋ねた。

「イリヤさん、あなたはとても親切ですね。牢屋で会った人はみんな親切でしたが、あなたが一番僕に親切にしてくれます」

「囚人と比べられても嬉しくはないな」

「おや、あなたは何の罪も負っていないのに、こんなことをしているんですか? 僕は、あなたもまた人を殺したから、この舟に乗せられているんだと思いました」

「囚人は荷物と同じだからな。乗る時と降りる時以外は、数もかぞえんよ」

「もう何人殺したのか、覚えてないのか。それが思い出せなくて、苦しいんですね」

 イリヤはこのよく喋る荷物を、次第に疎ましく感じ出した。フョードルは相変わらず、何か楽しいことを待っているような明るさを頬に湛えて、ちらと彼の目を見た後、独り言のように低めた声で言った。

「イリヤさん、僕が嬉しいのは、他の人がみんな兄さんの味方をしたからですよ」

「どういう意味だい?」

「あなたが質問することに先に答えているんです。僕は何も、一人だけで兄の死を喜んでいるんじゃありません。兄さんの考えていた通り、殺したのは兄さんじゃないと、みんなが信じたから嬉しいんです」

 フョードルが言うには、兄は自分を殺人犯の弟にすることではなく、兄自身が父親に殺意があったことを知られることに、死ぬほど耐えられなかったのだ。兄は父親を殺すことが出来て幸福だと言った。そしてもう一つの幸福を叶えてくれと自分に託した。それは兄の罪を着て、兄の荷を背負った弟が、生き延びるのを見ることだ……。

「僕はみんなが、僕の言うことを信じないだろうなと思いました。みんな僕が馬鹿で、兄さんが僕の世話をしていると思いたがっていました。だから初め『兄さんが殺した』と、本当の方を言って回ったんです」

 自分がそう言わなければ、誰かが本当のことに気づくかもしれない。それは兄のために防ぎたい。兄の幸福――父親に対する殺意を隠しておくことを、守るためには、自分が率先して信じてもらえないようなことを言う必要がある。殺したのは兄で、自分は彼に命じられて二人を殺したように装ったに過ぎないのだと――。

 そしてみんなが自分を疑い、みんなが信じたいことが本当になりました、とフョードルは言った。

「みんなが、本当のことが何かを決めてくれました。僕がお父さんを殺した、兄さんが怒ったので、僕は兄さんも殺したのだと。みんな自分の信じたい方を本当にします。それがみんなにとっての幸福だから。だから僕は、みんなが本当にしてくれたことを忘れないように、自分で名札に書きました。兄さんの言いつけを守ることが出来て、僕は今本当に幸福です」

 イリヤはこれほど、自分の身体を身軽に感じている囚人に会ったことがなかった。身軽どころか、彼は自分が囚われているということすら、幸福のたねにしかねなかった。

 実際、彼は世間に縛められるほど、兄が無辜とされている根拠をその身に感じられるのである。イリヤはこの身軽な囚人が、自分の仕事の重さを変えてしまうように感じ、この青年を忌々しく思った。もうじきに着く、と言うと、フョードルは一層嬉し気に舟の周りを見渡し出した。イリヤは彼に言った。

「あちらへ着いたら何があると思う」

 イリヤは月の労働者たちの苦役が、この青年を苦しめうるかどうか、その顔を見て想像しようとした。

「兄さんが待っている」

 とフョードルは微笑んだ。イリヤは初めてこの青年の狂気を疑った。発狂者はどのみち、この舟に残しておけない。

 この舟は労働者を輸送するための舟であるから……。

「なぜそう思う」

「生前の兄さんが話していました。『僕らが一緒に暮らすことの出来る家は、きっとこの地上にはない。いつか人間が月へ行くことが出来たら、あちらへ行って二人で暮らそう』月にところどころ影があるでしょう。あれは、人々が住む家の、かまどの煙なのだと兄さんは教えてくれました。きっと僕たちが住む家もそこにあるのだと思います。僕はこれから月へ行って、二人だけで暮らすのがとても楽しみなのです……」

「フョードル、きみは自分が正気だと思うかい?」

「何度も同じことを聞かれましたが、僕はみんなの言うこ

 とは分かっていますよ、馬鹿ではありません」「それなら、本物と偽物とがあったら、どちらが本物かが分かると思うかい?」

 フョードルは少し考えた。

「本物を見たことがあるものなら、分かると思います」

「きみは飽きるほど見てきたものだと思うよ……」

 そう言って頬杖をついたまま、イリヤはボタンを押した。

 彼らが到着する本物の月の隣に、そっくり同じ、偽物の月が浮かび上がった。

「きみを降ろそう。本物の月がどちらだか分かったら、舟から降りるといい。本物は、近づいてくる人間に対して足場が出るようになっている。そういう仕組みだ」

 フョードルは兄のいる方が本物だ、どちらが月であるかはすぐに分かったと言い、舟から飛び降りた。

 実際にはどちらの場合にも、イリヤが足場を出すボタンを押してやらねばならないのだったが、彼は煙草に火をつけたままそれを怠った。彼を束の間苦しめた荷物が、舟から落ちるのを、自分の煙草の先から灰が落ちるのを見るように眺めた。

 彼は人を殺して初めて涙を流した。悲しみによるものではないことは、それを流している彼自身が理解していた。彼に栓のようにつかえていたある認識が、透明な水になって彼から出て行っている感じだった。

 ふと、彼自身に罪があってこの舟にいるのではないか、というフョードルの言葉を思い出し、それを捻じ伏せるようなつもりで、彼は調書の山を調べた。彼の祖父に、殺人の罪がある履歴を見つけた。ただし精神錯乱の状況にあり、彼は懲役の代わりにこの渡し守役を負うことになり、三代続いたのも、その懲役の期間を継ぐためだった。彼の父親は、その父である祖父について多くを語らなかったが、イリヤは調書を見て初めて自分の一生をかかっても、その懲役を終えられないことを知った。

 彼は顔を拭いつつ、最期にフョードルの顔を見なかったことを後悔した。罪を着ることによって幸福になったと完璧に信じている男の顔を、今こそ見ておきたいと思った。彼は運よくフョードルが墜落していることを祈って、死に顔を見るために本物の月に降りた。

 だがフョードルの姿はどこにもなかった。彼が見て飛び出していったのは、彼にしか見えていない完璧な月だったことをイリヤは理解した』



 この『軽い舟』のあらすじのなかでも、ぼくが思うところは色々とあるんだが、最も気になる点がある、とマカールは言った。

「きみはどういう理由でこの戯曲を書く気になったの?」

「僕には分かりません」とミハイルは言った。

 マカールは頭を掻いた。その仕草のいちいちがエゴールを連想させ、またイワンがいないことを感じさせてミハイルは寂しい気持ちになった。

「まさか、学校のコンテストに出すために全部ねつ造したって言うんじゃないだろうな。うーん、これを書いた少年が、普段どういうことを考えているのかにぼくは興味があるんだよ。それじゃ質問を変えよう、この筋書のなかでぼくが気になったところはいくつかある。特にラストのシーン、まあ父親殺しうんぬんに関しては、モチーフが別にありそうだからいいとして、『罪を着たことによって幸福になったフョードル』のところだな……」

 ミハイルはびくりとなった。彼はこの時に、マカールに違和感を与えておくことを自分の使命のように感じていたのだが、この場面に関しては、あたかも作者であるかのように答えてしまうような気がしていた。

「きみは、人間が罪を負うことによって幸福になりえると思うのかい?」

「僕は、」

 そう思いますとミハイルは答えた。

「自分が罪を負うことで、誰かを幸福に出来たと信じられるのなら、罪人となることが幸福になることであってもおかしくはないと思います。ただ、そうして幸福にした相手を憎む機会が、永遠に失われていなくてはならないでしょう――」

 たとえばどちらかが命を落とすなどして、とミハイルは言った。

「それだからこそ、この舟は幸福だけを載せている、『軽い舟』でありえるのです。フョードルは兄を幸福なまま失っており、自分自身をも夢のかまどに永遠に葬ることが出来た。彼は自分の想像という、完璧な月に確かに着陸しました。彼らのような幸福を僕は望みませんが、」

 現実に起こりえることだと思います、とミハイルは言って口をつぐんだ。

 マカールは次の質問をする前に、ミハイルの顔をちらと盗むように何度か伺い見た。これがこの人の、真剣に話をする時の癖なのかもしれない、とミハイルは感じた。

 待ち合わせ場所に、イワンは樹に寄りかかって立っていた。学校に出席する必要がなくなっても、彼は外套をきちんと着ており、緊張で青ざめたような頬の色をしていた。

「アリョーシャは?」

 とミハイルは彼らにしか通じない挨拶のように言った。イワンは真剣に虚空の一点を見詰めた後「寝てる」と言った。

「この時間じゃ、そうだろうね」

 と言い、ミハイルは顔をうつむけて笑った。彼らの上には昼間の月がうっすらとかかっていた。実際に顔を合わせなくなってひと月も経っていないのに、こうして彼が目の前にいることが夢のように思われるのが不思議だった。

「偽物の月、みたいだ」とミハイルが言うと、

「読んだな」

 とイワンが拗ねたような調子で言った。

「手紙を寄越すんだったら、そのことを知らせてくれてもいいじゃないか、気が利かないミーシャ……」

「きみがまだ残っているとは思わなかった、いつか会ったら伝えたいと思ってた」

 そうだった、俺たちはもう二度と会えないところだったな、とイワンは言った。

「悪かったな、優勝を取ってやれなくて」

 俺自身の腕がなかったことは認めるが、評価基準の目測にそもそも誤りがあった。題材が少し不幸過ぎたか。まさかアントンにしてやられるとは、俺としても予想外だった。だがきみの『悪魔』が完成していたら、決して彼の喜劇に見劣りするとは思えない。きみの告白を見ずにここを去ることになってしまうのが残念だが、いずれ新聞にでも投書してくれよ、きみの記事が出るのをあっちで待っている……。

 ミハイルはかぶりを振った。

「知っているのか知らないのか分からないけれど、ぼくは『悪魔』を完成させたよ」

 イワンの情報網は妙なところが抜けているのか、この事実を彼は本当に知らないらしかった。

「でも、きみは結局俺が渡した戯曲を出したんだろう、『軽い舟』を」

「あれをね、『ミハイル・カラムジン作』で出した。そして僕の『悪魔』は、『イワン・カラマーゾフ作』ということになっている」

 どういうことだ、とイワンは気色ばんだ。ミハイルは笑いながら、鞄からマカールから受け取った『特別賞』の賞金と、ペテルブルグ行きの切符、彼の名刺とを取り出した。「イワン、僕がきみの言うなりになると思ったかい。アリョーシャだって、僕と妙な真似をし始めたじゃないか。誰だって最後まできみを裏切らないとは限らない。自由意志があるからね。

 本当のことを言うと、僕は見られたくなかった。きみが、他人に見せようと決意した、あの告白の内容を。あのなかには僕が、きみに焼き殺されそうになりながら手に入れた、きみとアリョーシャとにある秘密、それから僕が想像していなかった未来があった。あれがペテルブルグの大きな劇場で人前に披露されるなんて、僕にはそんなこと耐えられない。僕は出来れば、秘密にしておきたかったんだ、誰の前にも、あの作者がきみだっていうことだけは」

「俺を庇っているつもりなのか」

 とイワンは恐ろしく低めた声で言った。ミハイルは微笑んだまま

「違うよ」と言った。「きみの気に障ることをしたら、殺されることだってあり得ると僕は知ってるんだよ。単純に、僕が土に埋めて隠しておきたかったんだ、宝物を埋めるみたいに」

「だがきみ自身の告白に、俺の名前をつけることもなかっただろう」

「あれはね、美女に恋する戯曲の作者がきみだなんて、誰も思わないだろうから」イワンは吹き出した。

「『悪魔』は本当に完成したと見えるな。俺が作者じゃないと思わせるようにしたと、恩着せがましく言うんだったら、『悪魔』でも首尾よく父親を殺したんだろう、なあそうだろうミーシャ?」

「残念だけれど、僕はその点できみと友情を結ぶつもりはないよ――、色々考えたけれど、僕はそれをきみに言い渡すためにここに来たんだ」

 と言い、ミハイルは包帯のある右手で抑えつつ、左の掌に袋のなかの硬貨を落とした。それは受けきれずに、黄金色の水のように豊かに零れ落ちた。

「『特別賞』の賞金だよ。マカールが特別に自分のポケットから出した。三十ルーブルある」

「なんだ、優勝賞金の半分以下か」「二番の値打ちは一番の半分もないからね、父さんが言ってる通り、僕もそう思う」

「それじゃ俺ときみで競争をしたものの、二人とも二番以下だったというわけか」

「そういうことになる、ただマカールはアントンになんか目もくれちゃいない、この沈鬱なテーマで作品をしたためる動機を持った『軽い舟』の作者の少年に――きみに会いたがってる」

 と言って、ミハイルは硬貨を握りしめたまま俯いた。

「会えなくなる前に、きみに訊いておきたいんだ、イワン」とミハイルは言った。イワンは答えを促すように首を少し傾けた。

「きみはさんざん、僕に『告白』をしろと言っただろう。僕がみた『軽い舟』の内容も、きみの冗談じゃなく、告白なんだと見てもかまわないか」

「もちろん、」

 とイワンは言った。

「きみが隠しておきたいと思う意図に値するよ」

「あれは本当に、これから、アリョーシャに起こることなの?」

 イワンはごくわずかの間沈黙した。

「俺自身の願望だよ」

「それじゃ、きみはアリョーシャに一切の罪を着せるつもりで、彼をまるで馬鹿みたいに」

「冗談だよミーシャ、現実にそう望んでるわけじゃない」ミハイルは怒りのために黙った。

 イワンは困惑したような表情を浮かべた。

「何と言ったらいいのか分からないが、ミーシャ。望むこととそれを叶えることとは別だろう。『軽い舟』には俺の願望が表れてる。しかしそれを叶えることは、誰より俺自身が望んじゃいない。願望を持たない人間がいるかは分からないが、願望が本当に叶うことを望む人間の方が稀じゃないのか。

 ミーシャ、きみだってもしも賞金百ルーブルを手にして、本当にペテルブルグに出て行っていたら?その方がきみは困っただろう。本当に叶ってしまった願い事の冷淡さを、慰めてくれるものはこの世に何もない。

 願望というものはそれこそ偽物の月のように、遠くに浮かんでいるのを眺めているのが一番だ。俺自身は月に行きたいとは思わないが、降りてみれば荒涼とした土地だったとしても何も驚かない。願望というのはそういうものじゃないか。俺が月へ行くぐらいに、俺の想像する幸福を手に入れることなんかあり得ないよ。

 ミーシャ、さっきは俺と決別すると言っただろう。良かったよ、それでいい。色々と俺自身にも出来ないようなことを強いて悪かった。カラマーゾフになろうとする人間をみて、腹が立って随分と八つ当たりしたのを認めるよ。

 安心してほしい、俺は殺人なんかしたりしない。またきみもしないだろう。俺たちのその夢を、叶えた後の現実の冷淡さは、想像ですら手に入らないものだ。

 それにまだ、俺を呼び出しておいて決別するとか言っているようじゃ心配なぐらいさ。きみの人生からいなくなる者として、最後に餞別として言っておく。ミーシャ、きみがカラマーゾフになるには何が足りないか? 頭の足りない弟、家名を汚す父親、それに人生を征服しようとする意志だ。最後のこれは願望と、それと同じ大きさの絶望によって生まれるんだよ。きみにはまだ、絶望が足りていない」ミハイルは中身の残っていた袋ごと、左手でイワンの顔に投げつけた。彼の顔に当たり、中身がほろほろとこぼれ、イワンの外套のボタンに当たって鋭い音を立てた。

「冗談じゃない、イワン、僕は本当にきみを捨てると決めたんだよ。きみが与えてくれる物の重さにくたびれた。自由なんてきみが言うように荒涼とした土地への追放だ。そんなものを得て罪人になるぐらいなら、父親に殴られて守られている方がまだましだと分かったさ。きみの側にいたんじゃ、僕までが罪人と同じ運命になりそうだ。僕はきみみたいに破滅の運命なんか望まないね。

 もう僕を唆す『悪魔』とは別れると決めたんだ。きみの顔なんか見たくもない、もうきみになりたいなんて思わない。きみの栄光は全部、きみにお返しするよ。望みが叶わないと分かる絶望ならもう十分、きみからもらったさ……。

 あっちへ行って数えるといい、イワン・カラマーゾフの告白は、たったそれだけの値打ちだったんだ」

 イワンはミハイルの去っていく音を聴いた。彼は自分の足元に落ちている硬貨を拾おうとして、自分の襟にも硬貨が挟まっていたのに気づいた。それはイワンが身動きすると滑らかに落ち、彼の肌に一閃の冷たさを残した。彼はしゃがみこみ、手のなかに硬貨を拾い集めた。

 ふと、アリョーシャの泥棒のことを思い出した。彼はかつて親に殴られている子供ばかりを集めてクルミ泥棒をし、足を滑らせて自分だけが川に落ちた。あの弟に真意を尋ねても笑っているばかりだったが、イワンは今やあのずぶ濡れになっていた弟だけが、己の真意を理解してくれるような気がした。

「アリョーシャ、俺もだめだった」

 イワンはそう呟き、友から受け取った硬貨を握って立ち上がった。ポケットのなかでそれらは、かつてアリョーシャが盗んだクルミのように、互いに衝突して乾いた音を立てた。

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神童 merongree @merongree

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